メモ

今日はとってだしで書いていこうと思う。
とりあえず出かける準備は済んだし、洗濯機もタイマーかけて、食洗機も回した。それだけでなんかちょっとすっきりした。
いまよんでるのはナンセンス詩人の肖像(種村季弘) 増補版であるらしい。

今は3章だったかな。鼻の話である。エドワード・リアという人間嫌いの画家?の話。

なんか前の日記にも書いた気がするが、1章はナンセンスな詩が持ってるパワーっていうか、なんでもかんでも逆さまにしてカオスにして秩序を解体して再生するパワーをよびもどす的なことが書いてあった気がする。
そこに私は放下箸の概念や、今(といってももう半年?一年前?)ネフリで映画にもなってる「ちひろさん」、有村架純か新垣里沙かわからないが、とにかくかわいい人がのこのこで弁当を売ってたわけだが、その原作である漫画「ちひろさん」の前身である「ちひろ」の最終話を思い浮かべていた。
いや、最終話じゃなかったか。あれ?

つまり「転職したいなぁ…」ということなのだが、そうじゃないルートをずっと考えてる。野球のリードみたいな、塁に出て、そこからつまさきをじりじりやっていくように、漸進的に、誰からも見えない実現に向かう。
言い方を変えれば、ひとりで満足できる、他人と比べない人になる、というふうにもいえよう。これをもう一度言い換えると「研、究」という話になる。つまり私は転職がしたいんじゃなくて、もう少し時間を作って研究がしたいのである。でもなんか青い薬に赤い薬、いや赤い薬に青い薬?どっちでもいいか、まあそれを入れてボッフンとなるわけじゃなく、なんかちまちま考えて「こうじゃね?」ということを延々書き綴るタイプの研究である。
私は大学とか院とかまったく知らないので、研究の手つきをまったく知らない。なんか現Xで稀に流れてくる論文の構造はこう、みたいな画像つきのポストを見たりしてふーんはーんと思ったりはするけれども、それを身につけるにはそういう人がたくさんいる場にいるのが最も良さげではあるものの、わたしはもう視線恐怖で職場の女の人とでもかなり限界がきているのに、今更全然別の場所で視線が無事であるか、ましてや転職ともなると「死…」としか思えない。ですんでひとりでわけのわからない研究をやって時々本を作って全然売れないけど「世界のどっかにはあるんだよな(※全員断捨離で捨ててる)」と思いながら死ぬのである。そういうゼロにならない可能性をずっと散らばらせて死にたいとは常々思う。
電柱のそばに、町内のゴミネット(カラスに突かれないために、収拾がくるまでのあいだゴミを覆い守る青いネット)を入れておくカゴみたいなものがあろう。プラッチック製のやつが地べたに置かれてる場合もあれば、電柱に針金で自転車のカゴとおぼしきものをくくりつけたものなどがある。
あれをやったのは誰だ。
誰かの親父とかおかんとか誰かであろう。ああいうのが何年続いて、何年で更新されているのか。誰にもわからない。ああいうのは正規ルートで仕入れるものではない。たまたまそのへんの要らなくなったもので、誰かがその要に駆られてやるんである。
私がおそらく生涯で作るであろう2、3の本も、そのようであってほしいと願ってる。というかいつも散歩するときにゴミネットのカゴを見るたびにそう思う。寸劇が思い浮かぶ。ゴミネットのいらんチャリのカゴを電柱にくくりつけた親父を自慢する息子の寸劇である。「これやったん俺の親父やで」「まじで」「えっぐ」どういう意味の「えっぐ」なのかは知らんけど、子供とはそういうものだ。「きっしょ」が「エクセレント」の時代もある。ちなみにわたしは「きっしょ」の葉ずれみたいな音が心にズキズキ突き刺さって、サ行の衣擦れ音みたいなのが聞こえるだけで「俺か」みたいに被害妄想みたいになってた時期もあった。でも、いい意味で使われる世界や瞬間があるのも知ってる。
なんの話でしたっけ。あれである。研究がしたいという話だった。
研究がしたいっていうか、本を読んでそういうこともあったのかと思い、この概念とこの概念を渡って自分の考えを補強しつつ、なんか長い文章を書き綴りたいという欲求はある。それは毎回自分の出自の謎を辿り直すようなもので、その出自の開始地点は常に(私にとって)インターネットなのである。
んでから、「ちひろ」あたりに話を戻すと、昨日職場でも、ふと「狂ってなきゃあんたなんか愛せるわけないでしょ」みたいなセリフ、あったよなーと思ってた。で、そこと、今読んでるナンセンス詩人の肖像に出てくるリア・エドワードが重なるのだ。彼は今の言葉でささっといけば醜形恐怖みたいな感じで実際容姿も醜かったらしいのだが、ハイスペなところもあって、なんかやたら絵を描くのが早く、図鑑の図版用のデッサンみたいなやつなら年400枚書けて、人嫌いとかいいつつそこそこ交流もあり、旅行しまくりで六カ国語喋れて、手紙や日記を書きまくってたらしく、ただの現代の尺度でいえば、ただの高学歴ツイ廃イラスト垢じゃないかと言えなくもない。でもこの人学校行ってないのが誇りって書いてたから、独学でへきりんがる?へきさりんがる?わからんけど、いけて、さらにイラストも独学でアニメアイコンでツイ廃? マジで羨ましい。でもなんか生活習慣が祟って早く死にそうな雰囲気も漂う。けど旅行は行きまくってるという、この旅行っていうのが、若干(キャラに)合わない。確か26人きょうだいの末っ子とか書いてあった気がする。すまん21人(p90)だった。あとてんかんの持病もあったとのこと。でもなんなんだろうな。このなんだかんだでサロン感というか、書いたものの生存バイアスっていうのか。別に鼻につくとかじゃないが、要は今の時代の私たちの非リアとかぼっちとはまたニュアンスが全然違う。
ま、そりゃ当然か。時代が違う。人数も違う。SNSもない。
で、あと、この本(この章)、鼻関連のナンセンス書くやつは性的未熟っぽいところあるよねみたいなことも書かれてる気がしてて、ナンセンスな詩全般にそういう、今でいうチー牛っぽさが醸し出されてるぐらいの勢いで種村先生、当時の価値観で書かれておられる。「俺のこと言ってんのかこら」と思わなくもないけれども、まあそれは言われてみればそうかもなって納得させられる部分もある。いい歳して暇があって女っけがなかったら、まあそらわけのわからんこと書くよな、と。現代には、わけのわからんことの精鋭がなぜか生き残ってる。残りやすかったり、偶然で残ったりして、捨てたり破棄したはずのものがちゃんと捨て切れてなくて残ってたり、当時は捨てたはずのものが掘り起こされたり見つかったりして、「これは…」と蒸し返される。時々現Xでも昔の人が書いたなんとも間の抜けた絵とかがバズったりしてる。今でもバンバンビガロみたいな名前の昔の魚、あれなんだっけばんぱすぴすぴすみたいな
あれとか、ああいうのが生まれてるし、ああいう系統のやつ、ずっと人間は作り続けてしまうだろう。それがなんかたまたま人々のおかしみの琴線に触れて浮上しては沈みを繰り返している。今はそのスピードがギャンギャンして結局なにも覚えていないに等しい気がする。いや若ければインパクトがずっと余韻するのかもしれないけど、最近私は見ても印象を残さない面白さを見ていると苦痛に感じるようになってきた。それでも指をスマホから離せないから苦痛なのだ。苦痛のループと漫然とした時間を天秤にかけたとき自分の体は漫然とした時間経過を望んでいることが最も苦痛だ。
それは最初に書いた「研究」と、真っ向から対立するから。
だから、今の私の戦いはYoutubeと現Xをいかに見ないか、である。スクエニの業績とかどうでもいいし、五条のこれってまさか…とかもどうでもいい。
そう、ほんとに、アマプラで今期のアニオリ作品を毎週見て、あとは大人しく本を読み、丁寧な文章を書き、それを積み重ねて出版し、なんか世界に散らばって所在が追えない状況になるのが、私の夢なのである。それなのに文章は一向にままならず、まとまらず、本は読まず、あ、でも今InDesignを勉強してます。
なんか2年ぐらい放置して毎年Adobeが今更新するんならちょっと割引が効くかも…?みたいな感じのやつで「ぐぬ…こ、今年こそは、やる!」と思って2年ぐらいサブスク継続してやっと今年、教本読みながらやり始めてますよ。
なんか現Xで仲なんとかさんのポストが偶然流れてきて、その人が「軽出版」という概念を提唱しており、InDesignの基礎さえ覚えればなんとかなるみたいなことを書いておられたんで、そこでなんか知らんけどイグニッション(プラネテス用語)したわけですね。
今まで意味のわからなかった編集画面の意味がやっとわかってきました。
小口とかノドとか天とか地も、判型も、あんま意味わかってなかったけど、手持ちの本とかメジャーで測ったりして、なんかまだ「歯」ってなんやねん「歯姫か」とか思ってる段階ですし、たぶんレイアウトガチ勢からすれば「なってない」のかもしれないけど、やっていけそうな気がしてきました。
マスターページ(親ページ)ってそう使うのねーみたいなこともなんか、ちょっとずつ分かりかけてきました。あとInDesignって参照するサイトがあまり出てこないですね。
なんか「InDesign 重い 軽くする」みたいなワードで検索かけても平気で2008年とかのページが出てきてうーむ、なんでなんだろうと思ったけど、それだけ独学とか実務で使われてるってことなのかなーとか。
あとは内容なんですけど、これ、今書いてるようなこの感じをそのまま流し込んでもなんかうじゃーってなりそうなんですよね。それはなんかわかった。実際流し込んで、えー、これだけでもう18ページいくのー?みたいな。やべぇ。もっと短く、ぎゅっと言葉を詰めないと。いや詰めなくてもいいのかもしれないけど、なんか「絶対詰めたほうがいい」っていう直感は働いたね。
Web上の文章と明らかに感触が違う気がする。
そろそろしごと
(5/29あさ ばーっと)









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