3/2memo

右手小指の関節のとこが痛い。
冬のひび割れをなんとか乗り越えたものの、なんかコーヒー豆とかお茶をミルや急須にうつすときに使うのがこの右手小指の関節で、
コンコンするのに使ってしまって毎回イテッてなる。
左大丈夫なのに右だけカッサカサ(今見た)
今日は小さいケージをたたんだ。
昨晩は帰宅してすぐに大きいケージのレイアウトをうんこ座りで熟考してああでもないこうでもないとやってたら閃輝暗点が出てきて、とりあえずペットさんを中に入れて休んだ。


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ケージは針金というかワイヤーフレームというのか、格子でできている。
そこにステージを取り付ける。ステージに開いているネジ穴からネジを通して、ケージの格子の隙間から留め具を回して固定する。ネジの先がハマったら、あとは指で勢いをつけて   すると気持ちよく回る(空白部、動詞が思いつかない。蹴ると?漕ぐと?ターンと叩くと?)。
たぶんステージを使うペットさんあるあるで、この留め具がやたら溜まるというのがあると思う。だいたい白か乳白色のプラッチック製で、丸いのと、丸みを帯びた十字型がある。丸いのはにんじんに模したかじり木用の留め具なのだろうが、だんだんごちゃ混ぜになってきて、ネジの径も一緒だから、どれがどれ用だったかなんて分からなくなる。(3/5朝よみなおし中に追記した)===


高さはまだあまり入れないようにした。
今朝はその続きとして、小さいほうのケージを掃除して拭いて畳んだ。
3月半ば、初めて家を一日空けるので、その布石。

Netflixをまたおかえりなさい(メンバーシップ再開)して
ちひろさんを途中までみた。
あとはポストに入ってた書類に目を通した。
ぼっちざらじおの#20を聞いた。
朝、布団から出るまでは、こないだ買ったリエゾン12をよんでいた。
最近はりりじゃんの30号の、思い出した
これの返信をしなきゃいけないのだった
わすれてた

支払った、返信した (お金を払って本に載してもらうのである)
今回の詩は、というか、詩なのか?
まあおいといて。
まあ詩というか生存確認なのだが、
やりたかったこととしては「抄」って言葉を使ってみたかった
語感の悪いものもいいものも含めたかった
ほぼそれだけである

参考文献というか
書いた後に何を思い出して書いてたかと思いかえしてみると
鈴木志郎康さんの初期詩篇になんかプリンばっかり書いてある詩があって、それが面白かったのとか、それとかあとは「抄」で言えば入沢康夫のわが出雲わが鎮魂というやつが昭和文学全集で抄だったり、あとはリサ、リサたち、サキ、サキたちという詩集の抄が載ってる地平線みたいな名前の雑誌、名前わすれた、それとか 子午線か それとか
なんかそれで「抄」っていいよね、みたいな雰囲気になってたのと、あとは中江俊夫?の語彙集とか、那珂太郎の音楽(楽は旧字体?)とか、なんかそういう系のイメージと、藤本哲明さんだと思うんだけど、その人がぶんごくに書いてた年代が出てくる短い詩が好きで、それもちょっとあったのかもしれない、八丁堀の茂みにいるのはなんたら…みたいな詩だったと思う、はっけんぼり?わすれたな

とは思う

そこに自分の癖である「…師匠」とか「…のボーカル」という、ときどきつけてる謎のスマホメモを組み合わせることで今回の作品? 作品なのか? は成立している
成立しているのか?
まあとりあえず提出はしたし、おっけーおっけー

というか、それの初稿?みたいなのが届いて
校正はないか?という
お尋ねがあり、
すると、その初稿には、何人かの人の詩と一緒に並んでる自分の詩をみることになり、なんか集合住宅の住んでる人を垣間見る感がある
つまりこの集団に所属する人たちの表現の一部を見る
そして離れ離れで別々の生活を送って生きている
そう考えた時、跳ね返ってきて自分の充実度とかさみしさのようなものを相対的に捉えたとき、非常に何かまずい、さみしさやイキりがバレるようなものの書き方をしているんじゃないかという恐れが起こることがある。そういうことは含め置いたうえで書いていると思ってるのに、これは何度も覆い被さってきて、脱け切ることができない。ただ、もう「そこ」に行ってしまっている言葉があるから、もうそれでいいですと居直るしかない。
そうやって自分というものが確定していく?のだが、頑なに自分だけが認めない。自分は詩を書いたとか詩を書いているとか詩集のこれを載せようなんてことはどうしても思えない。だからずっと瓦解する感じ、エヴァQで骸骨だらけのセントラルドグマみたいなとこがあったけど、そうじゃなくても貝殻でできてる小高い山みたいな、足場が踏めば踏むほど崩れるような感じがあって、私は詩集にまとめれるような詩を書いている気がいっさいしない。わたしはフローばっかりしてためたりまとめたりすることができない。わたしの心の社内には社史編纂室がないざるをえない(3/5よみなおし中に追記)

ただ、師匠とかボーカルというのは個人的な思いつきをその場で凝集して締めるための言葉であって、本来であればいらないものである。
頭の中にあるしょうもない吐き出しようのない言葉の組み合わせとか塊とかに無理やり体言止めを与えるというのか、そういうために使ってる。昔の文の「ぬ」とかそんな気分で使ってる気はする。
だからわたしてきには俳句に近い。俳句がどんなものなのか、わたしは知らない。個人的俳句の中で、特にコンクリート臭強めなものを集めたものが今回の師匠なのだろうとは思う。

実際の工程でいうと、自分の「(頭の中の)そのへんにあるもの」をポンと投げる姿勢、現実をチャリで走っててパッと思いついた言葉を頭の中でころがしながら走っていき、赤信号で止まったら、ポケットからスマホをとりだしメモに打ち込む、これの繰り返しで師匠のもとを集積し、帰宅してから
語尾を「師匠」にするか「のボーカル」にするか、無添加にするか決める。
今回は、そのうち、語尾を「師匠」で締めているものを集めたということになる。
これらはすべて「日記」に流し込まれているので、
過去の日記を「師匠」で検索し、選定し、実際に並べてみて、物足りなかったので、初出年月を足してみた。ただ紙幅の関係もあるので、年月が入れられないものについては変なカットの仕方をした。

上記のような工程を経ているのだが、これは半分ぐらい実際にそうだけど、ある程度はその場の思いつきで順番を入れ替えたり消したり足したりの編集はしている。そのへんの言葉をパッと入れてる感じ、時期のずれ、語感を悪くするようにいじったりとか、そういうのは無駄に入念にやっている。
詩なんか基本これでいいみたいな感じはないので盆栽いじりみたいなところがある。わたしは盆栽いじりをしたことがない。でもなんか言葉の前後やなんやみたいなものをちまちまやってると盆栽いじりなんじゃないかって思ってしまうことはある。人生の趣味としてはコスパ最高だと思うけど、詩への興味を失う周期がきてしまうと無駄としか思えなくなってしまう。メルカリでこんまりな気分になってしまう。アキラ100%が実はあそこに何もついてなかったと知らされたとしたらとても裏切られた気持ちになるだろう?あのドキドキを返せ!って思うだろう?(後半半分ほどよみかえし中の追記3/5)

めちゃくちゃ簡単に言ってしまえば、個人の感覚やタイミングの偏重ということである。
そして個人の感覚やタイミングの偏重というのは、人生という名詞(代名詞?)に回収されないようにすることで「人生ェ…」ってなるような感じ?にしたいな、っていうか、なってるかな?自分は客観的にみるのが下手だからわかんないけど、、、みたいな感じのつもりではある。

これは色んな感慨で迎えられるのはわかる。無視。唾棄。「ええ歳して何やってんの」「どうしはったんですか」「さみしそうな人生ですね」「ひとりでなんか楽しそうですね」「こわっ」「きもっ」とか、まあさまざまで、当然ほとんどの世界、ページを開かない世界からは完全無視されてるわけであるが、ページを開いて読んだら、読もうとしても、状態や状況によっては、なんかまあ目がさーっと文字の上を、一瞥くれるだけかもしれないけど、まあそれでもいいである。
一個一個「師匠」をみて行ってもいいし、想像を膨らましてもいいけど、そういう想像の膨らむ師匠は少ない。ほとんどないだろう。
イメージというよりかは地口や駄洒落に近い。人がやるとむかつくのに自分はやるである。
しかも、なるべく遠くのものを繋げようとか意外性とかいう意思もない。
はずれるように狙うというのか、
どうせ客観性がないのなら、なるべく悪くなるように整えようみたいな感じが数年前から亢進してきてなかなかやめれない。くせになってる。
できるだけ自分の中で近くを環流していたものをその時に繋げて自分が気に入ったもの、そして気に入らないけれども語感の悪さとして無理にでも突っ込んでおきたいものの並置することを心がけた。

なので、特に意味とかはない。

結局、詩を書こうとした時やっぱり「今」ってことが気になる。今とか昔とか。「今までに」もか。今までに何個こういう感じの詩はあったのだろうとか、そういうことである。考えたところで仕方がないのだが、とりあえずは頭の片隅にいれておく。それからそれを無視する。そして、憧れを思い出していくような気がする。自分はいったい何のどういうところに惹かれて、何がしてみたいかな、と思う。
それから自身の生活実感もないまぜに入れてみる。あとはこれが載ったらどんな感じになるんだろう…キシシシみたいなイタズラ心もあるけど、そんなたいした雑誌じゃないのはわかってるから、まあ生存報告というか、半年賀状みたいなものだと心の隅では思ってる。
ある程度の自覚の環流があっても、最終的には形として決めなければならない。結局そうなる。結局そうなるんだったら、と思う。
要は、今の自分の認識と、今の自分の関係性の中で、今の自分がやりたいようにやれる、紙の場所、見つけた、見つけてもらった?場所である。
大事ではあるけれども認識としてはやはり半年賀状である。

縁とレベルと作品のはざまで揺れてる。その時々で、そのあいだを揺れ動いて、自分を満足させる。縁として大事にして、レベルとして自覚して、作家になったつもりになって書く。そしてまた「もどる」。
そして、この「揺れ動き」が読書や教養主義の生み出した実存みたいなものの余剰なんじゃないかという見立てで今は生きている。
だから、あえて(dare?)そこから離れていく準備をしながら、いつ切り落とされてもいけるように、少しずつ気持ちを切り離している。野生というわけではないけれども、何かに溶けようという気分。ただ、膠着のようでもある。
だからこれからはもっと相対化して引用のルールとか著作権とかはもう少し踏み躙られるべきというか、あるいは階層を設けたほうがいいのかもしれない。労働者がものするとき、全ての人が同じルールで守らなければならない謂れは恐らくない。それに、本のルールを熟知してそうな人が本の文面を写真で上げてバズれば著者がありがとうございます!とかやってたりすると、なんか守る気も失せる。お前らはええんかいみたいな気持ちになる。だからもう律儀に守ったところで、それは憧れの作法を守って作家の真似事をしている私たちが好き、みたいな話だからそれでいいのだと思うけれども、といって、その書き方や読み方や作り方がいくら年月をかけてできたものであろうと、知ったことではないというのが正直なところで、でも、それに則った書面に自分の言葉が載るというのは嬉しい。でも、守ってられないし、守りたくない局面も多々ある。
うんできた(倦んできた 3/5追記)
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(3/2)

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