日記&「自傷的自己愛」の精神分析を読みながら

昨日は元旦なので何かせねばと思い、トイレ、シンク、洗面所、おふろの掃除。あとはWOWOWで録画した映画見ていったり、GRAVITYというSNSアプリにペットの動画アップしたり。
SNS緘黙症みたいなとこがあるので、動画だけ淡々とアップした。意外とトリミングが楽だったので、これなら続くかなー、と思いつつ。
本は『「自傷的自己愛」の精神分析(斎藤環)』『蕩児の家系(大岡信)』。
昨日見てたWOWOWの録画は「あの子は貴族」「アンモナイトの目覚め」。なんか気になってた邦画か、R-15指定とかR-15指定相当みたいなやつばっかり溜め込んでて、これはおそらくわたしが思春期〜ひきこもりの頃、深夜の映画ばかりエロ目当てで見てたときの癖(へき)があるからで、スター・トレックヴォイジャー(当時、関西テレビの深夜2時ごろ、確か毎週火曜に放送してた。DS9は服の色が気に入らなくて見なかった)も、ジェインウェイ艦長とセブンオブナインの関係性で見てたりしてたけど、単純に「セブンの乳かったそうやなぁ…」みたいなふうに見てた部分もあった。時々、毎日放送(MBS)の深夜にくのいち忍法帖とかがやってて、とにかくエロ目当てで見ながらストーリーも一応追うみたいな感じだったけど、もちろんタイトルだけでアタリをつけるから、全然エロくないやつもあったり、期待してなかったやつがエロかったりして、エロさにもなんか健全なエロさとでもいうべきやつと、淫靡なやつもあったりで、ライカ犬の映画、イングマルという少年が出てくる映画(マイライフアズアドッグ?)もよかったけど、あれは健全なエロな感じで、ヌードモデルをやってる女性の上をガラス天井から覗こうとしてイングマルが降ってくるシーンとかをスローにしたりして、ヌードの女性が逃げるシーンを見たりしてた。
「アンモナイトの目覚め」見てるとき、ああなんか昔深夜テレビで映画見てた感覚をとりもどした。体感的にはシッピングニュースとかを見たときの感覚に近かった気がする。感想は日記に書いたけど載せるものじゃない。

そういう意味では、詩に近づいたのも、もとはといえば、鈴木志郎康さんが猥褻な言葉を使ってたからだった。わたしはなんでもエロ基点、エロ基軸でものごとを始めてる気がする。なっさけない…

話を戻すと、スター・トレックヴォイジャーでセブンとジェインウェイ艦長は母娘関係みたいな様相を呈することがたびたびあった。セブンはたしか「ボーグ」とかいう宇宙を漂ってるめちゃやばいやつに取り込まれかけてたのを、がんばって取り返した人で、ちょっとボーグの発想に染まってて、それがちょっとずつ人間に戻ってくというのもドラマの見どころとしてあった。
わたしは毎回それを見ながらなんか思ってた。まあスター・トレックなのでそういうヒューマンドラマと転送がどうのこうのみたいなSFチックな部分が混ざってて面白かった。
そのなかでも特に印象に残ってるのがこのあたりで

「私があなたと同じ考え方をしないから罰するのだろう? あなたのようになろうとしないから。あなたは私の個性を批判するが、それは恐れているからではないのか。」
「そう思ってなさい。」 ジェインウェイは貨物室を出ていった。

http://www.usskyushu.com/ds9/voy84.html

セブンに自我が芽生えてきてジェインウェイの態度を穿った見方で批判してくるところなんかは見てて「ああ…」ってなってた。

で、それを思い出すのは、今読んでる「自傷的自己愛…」とのつながりで、『血の轍』買おうかなーって迷ってるのもある意味それだし、ホライズンブルー(近藤ようこ)とか夕焼けカーニバル(池辺葵)とか、ちひろ、ちひろさんにしろ、何かそういうところとの関係を「晴らす」というよりかは、読みながら「追認」てか、「追想」するために読んでる節がある。

斎藤環先生は男には身体がないと(ガチじゃなくて、たぶん精神分析的に)仰っていて、まあそこも度合いというか、比喩としての「女」があるように、わたしのなかの男の度合いはどっちかというと女よりなとこがあり、母のケアじゃないけれども、幼い頃、母はなんかもろく見えて、何も頼めなかった。あと、長男だったのもあるのかもしれない。
だから、のち、裏切られたと思ったときの心情を思い返してみると、「強いんかい!」「強かったんかい!」みたいなところがあった。じゃあ甘えたり無茶言ったりしときゃよかったよ!なんて日だ!みたいな憤怒があった気がする。そういう意味では弟はちゃんと男男(おとこおとこ)してて、母に無理難題押し付けて平然としてるようなところがあったし、それはそれでムカついてたなー。
ただし、今にしておもえばだけど、それはそれで、こっちが「ちゃんと母に『お前はものが頼めるのか?』と聞いときゃよかった」「試しときゃよかった」っていう話なんだけど、それも憚られるぐらい初期の母は鬱って曖昧っていたし、わたしも引っ込み思案だったので、まあ組み合わせが良くなかったよね。っていうのがあります。
でもまあ、そういうのももう40こえたらさすがにいいやっていうのもあって、というか、まあそれなりに色々読んでやっといわゆる「相対化」というのができたということになるのかもしれないけれども、いまだに慢性的な空虚感みたいなのはあるっちゃあるよねー、ともおもう。
うーん。どうなんでしょうね。
「昨日何食べた」で親にビタ一文渡したくないカップルが出てきた時とかやっぱり「ッシャー(勝俣)」みたいな、心のどこかが快哉をあげてることとかもあるし、時には逆に、そうじゃないときもあったりする。まあそういう自分をまあそういうもんかーと思うようになった。
あとは福祉の「環境調整」とか「合理的配慮」みたいなやつを転用して考えていって、物理的になんとかして縁を切ろうみたいなのもしてたけど、法律的にはググったら縁切れないみたいなのは書いてあったから、まずは賃貸を借りてそこは保証人として母になんとか書いてもらって、そこから不動産を買って、そこで「保証=親」なのをやめて、住所も何も教えずに離れるみたいな感じでやっていった。距離と連絡、あとうちの親には無理だったんだろうと思うことと、自分もちょっとなんか受け取る手(比喩的な手、ヒドラみたいなもの)が小さかったんだろうな…と思うところである程度相対化はおわった。これは滝川 一廣さんの『子どものための精神医学』で「認識」の発達と「情動」の発達があって、そのふたつがいい感じで育ってるのが定型(発達)というべきもので、「認識」だけが定型並みに発達して「情動」がおくれたりすると…みたいな話を読んでて、「ああ、自分はたぶん『情動』がちょっとおくれてたのかもな」と思ったりして、だから弟は「当たり前」感があるけど自分はちょっとないのかな(けど別の意味での『当たり前』感はもってる気はするけど)みたいなことを考えてるうちになんか親の立場を理解するでもないけれども、エンパシー的な意味合いで、まあ腑に落ちたというかなんというかですね。でも強いて言えばそれは親のほうが年上なんだからもうちょっとちゃんと見て「こいつなんか…ちょっと…」とかおもってくれよ気づいてくれよとは思わんでもないけれども、まあ親もそのへん(教育方針を人を見て変えるのとか)が苦手やったんやろなーみたいな、ほんま組み合わせの妙というか端的にいえばミスマッチによって引き起こされた苦しみみたいなんがお互いにあったのかなー、しらんけど。

でも結構かかったな。足掛け何年なんだろうか。わからん。
でもたしかに本(自傷的自己愛…)よんでておもったのは、男はそこまで母に義務とか負い目を感じないというのはあるかもなとおもった。わたしはもう完全に連絡の取り方も居場所も知らないぐらいに縁を切って向こうもわたしがどういう気持ちかとか聞くこともなく家を更地にして消えていったから、わたしはわたしの人生をチャキーンとやっていくしかない。
いまだに自信はないっちゃないし、対人恐怖かつ目線恐怖いうてやってますけども、まあなんだかんだ40年生きて来れてしまった実績があるので無理というのも無理がある感じがする。個人的に締めくくるとしたら福島敦子さんの「永遠狂い」の一節から。

でも
住処がない住処がないと言い続けることって大切かもね
さも何かありげに見えない永遠を見るふりをして
見続けていくことがお家だなんて

http://www.poetry.ne.jp/select/tera/tera01.html
(ページのなかばにあります)

たぶん「永遠狂い」は、「自傷的自己愛」を読む人なら刺さるものがあるとおもうのでおすすめ?おすすめなのか?です。

わたしはここから「住処→home」とつなげていって、徳弘康代さんの詩「homeについて」に飛んでいきます。
少し長いですがここから引用

  1.  Aの話

homeって何でしょうかとたずねると Aは
人ではないし 物質ではない
人よりは物に近いもの
と言う それにしても
あるかないか分からないし
あるとしても
ひどくさびしいもののような気がする
そう言ってAはまた
鬱の中へ入っていった

Aのhomeについてのイメージ
  深海の魚
  遠ざかる地球
  氷原の一羽のペンギン

2. Bの話

homeがほしい とBが言った
それがひどくさびしいものでも と聞くと
自分は重いから
少し置いておいてもいい
と言ったBは
置き場所のない自分をいつも持って
移動している

Bの移転先
  寺院のある町
  郊外の住宅地
  都市の一階
  港の五階
  浜辺の十一階

徳弘康代『 ライブレッドの重さについて』p50-p52

引用おわり
自分のなかでは、この一連の引用は流れになっていて、別にこれがなにかの解決になっているとはまったく思わないけれども、ときどき読み返してその時々でなにかを思っているような気がします。

わたしの中でこの流れは煉獄(木多康昭の漫画、『喧嘩商売』か『喧嘩稼業』に出てくる技)みたいなもので、たぶんこのnoteでもそうだし、個人的につけてる日記でも何回かでてきてる流れで、これは自分の人格形成のあった20代前後に見つけた自分なりの「作業」「ルーティン」みたいなものになっていて、この流れを書く精度を見て、自分が今晴れてるのか曇ってるのかを見る、頭の中のもや度合いを推し量るようなところがある気がします。

わたしはあんまり好きと言えるものが多くない気はしていて、まあ飽きもせず毎回おんなじ道をとおるよねとはおもうんだけど、この道筋だけはなぜか好きで、飽きもせず何回も歩いている。そういうところを自分ではもっと新しいものを…ッッッ!とも思わなくもないが、「しゃあないやっちゃなぁ」みたいに呆れてるところもあって、もうずっとこれやってんだからこれが自分だよな
みたいなところもありますよね。

なんかそういう気分で最近は生きてる気がする。あと正月の休みのなくなりかた、はやっ!もうあといちんちしかないやん、まじか…
昨日はまだふつかもあるおもってゆったりしてたけど、あっちゅうまにまた仕事かえ…まじか…

とはいえこれからどんどん仕事しなくてもよくなりそうな予感もあるし、どうなるんでしょうねホントこれから。

ああ、そういえば思い出した。「あの子は貴族」見てて「別に異性のぴったりを見つける必要ないよな」って。そしたら次アンモナイトで。
なんか時々いい流れで録画してるときあるよな。

そんなこんなで。

昼から初詣いこうかな

なんか書いてて思ったのは、気になった文章を散歩してるうちに(自身が内面に抱えている問題を)相対化してく、ということがあるのかもなー、みたいなこと。

はつもうでー(行くとは言ってない)




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