ブルーレイへの道のり
1/15
昼すぎ文フリにいった。前日まで行く気まんまんだったが、今朝は眠く、とても寒いので、体の指示に従って寝過ごそうとしていたが、昼、ふと、意思の力で立ち上がり、行った。
入ってすぐの所で手提げの袋をもらって、右のパイプ椅子休憩コーナーで冊子を見て、ブース配置図を総観し、「あ」のブース(詩歌の中でも特に詩ぃが集まってるのは「あ」の30過ぎから)とかを見ていって、ブースをジグザクして行って、
終わった。
見本誌コーナーでいくつか手にとり、いつか自分もするであろう「製本」というものについて「ほぇー」と思ったりした。
で、帰途に着いた
今日はマラソンがあったらしく、どうりでヘリが飛んでるなと思いました。
帰宅。
私の詩論大全。
朔太郎の詩論みたいなやつを読み解いてく章を読んだ。
あと渋沢孝輔という人の本が届いたりした。
最近買ってる本は、思潮社が1970年代ごろに出した、なんか詩論の叢書シリーズみたいなやつ買ってる。
もともとは鈴木志郎康さんの『極私的現代詩入門』の赤瀬川原平表紙の黄色い単行本じゃないバージョンがあって、それは以前からにっぽんのふるほんやさん(日本の古書店?だったか)でサムネで見かけていて、『蕩児の家系』(サムネなし)を買ったら、表紙がその鈴木志郎康さんのやつとおそろだったので、ああそういうシリーズものなんだなと思い、その表紙のやつを揃えていきたい欲に駆られ、蕩児の家系(大岡信)→極私的現代詩入門(鈴木志郎康)→詩の根源を求めて(渋沢孝輔)と買っていってる状況なわけだが、このシリーズが何冊あるのかいまいち把握できない。
例によってまったく頭に入ってこないし、すぐに気が散って ぼっちざろっくの「あのアイドル」の動画を見に行ったり、八十八ケ所巡礼の「紫光」を見に行ってしまう。
もうわたしには読んでるのか読んでないのかすらもうわからないが、なんか読んでる感じだと、昔はまだ新体詩の模索中なので、新体詩とはいえ、口語自由詩ほど奔放ではなく、むしろ昔(俳句とか漢詩)のほうから引っ張られているというのか、要は補助線として俳句っぽさとか漢詩っぽさや文語を使って、欧州で起こった新しい詩の概念を日本にうまく輸入してスライド(移行)させていこうとしたところでなんかごじゃごじゃしてきてその頃の問題は、ふつうに今でもある気がする。
昔の論では、絶対的に言葉の中に何かがあるというふうに策定するために二項対立や概念を作ってドツボにハマりがちっぽいことが書かれてるような気がする。
散文っぽい詩もあるけど、そういうのにも絶対的に有機的な音楽律が存在しているし、口語と文語(文章語)だと文語のほうが締まりがあって音楽的にも優れてていい感じであるし、なんかこう、「あるっぽい感じがする」みたいなことを言いがちなのは時代の制約のせいなのではないかみたいなことが書いてある気がする。
新体詩は欧州の個人主義や自我の中にあって、それを日本になんとかして組み込もうとしたけど今様とかとそう変わらないし口語や散文にも音楽性は宿るかもしれないけれども文語や定型のキレには見劣りするしまだ新体詩もうまく日本に根付いてないっぽいし、というかそもそも日本には個人主義的なものがなくて、相対的なものより絶対的な視点(自然)からものを見がちなので自然主義とかもそういう視点から見がちなのでなんか文化が芸術しか育たないみたいなところを読んでて、今の日本がアニメアニメしてるのもなんかこのへんの事情が絡んでるのかなと思ったり。
またついでにいえば日本の政治とか社会がていたらくなのも、あと詩がなんかポエムって揶揄される状況も、ずっと詩というものが社会というか、個人、あるいは自我といったものと繋がってない、そして朔太郎の詩論もなんかそのへんの日本の現状から世界に羽ばたくというか、日本人の認識が世界的なものになってほしいっていう希望、希求によって書かれてる節があるんじゃないかというふうに書いてあるように私は読んだ。
で、先にも言ったがこれは今でも全く構図的に変わった気がしないとも思う。
新体詩というのがいまいちわかってなかったが、今もわからない。今の認識だと、新体詩というのは欧州で起こった新しい形の詩(の運動?流れ?)を日本にも持ち込もうとして「色々やった」試行錯誤をまるっとひとくくりにした場合の呼称でありかつ実作者側もこれが新体詩だどーんとやったりしてたっぽいけど、これは今見るとなんか率直に行って楽しくないしうまくいってるとも思えないし、ぱっと見なんか「すごいぜなんとか軍将」みたいな感じの詩ばっかりに見えるので、試みや意気込みはすごいけど実作面で微妙だった。で、これは移行段階も意識してあえて昔の詩からのつながりもある程度意識して、昔の詩の形っぽく並べたり仕上げたりしてたようだ。
象徴詩に関してはなんかもう今の詩みたいな感じになってる気がする。WEBアニメスタイルの用語でいえば「うつのみやショック」ぐらい、もう当たり前になってて気づかないぐらい浸透していて、なんか言ってることがいまいちわからないというか、当たり前じゃない?みたいな感じである。みんなが時々ふつうにやってるテクとか発想法の一部みたいになってる気がする。
口語自由詩と民衆詩もまあ今の詩とあまり変わらない気がする。
今なんかふとTOLTAというところが出した現代詩100周年というのを探してきて「はじめに」的な文章を見てたら記憶と全然違って川路虹柳の肥溜め(塵塚をなぜか毎回肥溜めと間違う)のことが書いてあると思ったら山村暮鳥の聖三稜玻璃と朔太郎月に吠えるのことが書いてあってなんか逆に納得した。
読みたいと思うか?というファクターがまずある。そして別に全然読みたいってならないというファクトもある。
目次を見た時そうならない。詩から爪弾きを食らってるとも言えるがふつうにそれでいいしむしろそれがいいまである。
そういう自覚まであって何を未練がましく門前でぐるぐるしてるのだろうかと思わなくもない。そのあいだ自由に生きていればよかったものを。
もったいねぇぇええ、と言わざるを得ない。仲間もなく、作品もなく、まとまりもなく、ただ未練だけがある。もったいぇぇ…
もたいまさこ、片桐はいり
1/16
今日はブルーレイが届いた。レコーダーである。わーい。
やったー。
1/14の日記
昨日は私の詩論大全読んで筋トレしてペット部屋んぽしてスーパーに行こうと思ってたけど行かず(行けず)。部屋で過ごしたということだ。
本が読めなくなった。何ページか読むと何かの旧字体とか難しい熟語?述語?が出てくるのでスマホで調べるでしょ、するとそこからYoutube開いてぼっちの8話の「あのバンド」の動画何回か見て、関連見始めて、見てるうちに「ほしいもの(消臭剤が足りてない気がする…あそこの台がほしい…)」等がぼんやり浮かんできてAmazonみるでしょ、それからなんとなくTwitterみるでしょ、そしたらエヴァの特典の3.0(-46h)のカットが公開されててそれの話題みるでしょ、シンエヴァの予約は以前にすましてるけど、そういやまだBD見る機械もってねえなってなるでしょ。
BDプレイヤー(レコーダー)、たぶん2年以上悩んだ末に未だに買ってない。どうしよう。
Coccoの25周年の金色の缶の中にあるBDも見れてないし…
そもそもなぜBDプレーヤーを買えないのか?
もともとMacで楽にBD見る方法がなかったのが悪い。
プレーヤーさえあれば簡単に見れるもんだと思ってたがなんかそういうことでもないらしい(昔検索したけど忘れた)。じゃあテレビにBDプレーヤーをつけよう、となる。でもテレビに録画機能がついてて外付けHDDくっつけてるので、そこにBDプレーヤーのみを買うか、BD機能付のHDDの入ったプレーヤー(ディーガ?とかレグザ?とか)買うかで悩んで毎回そこで止まって2年ぐらい経ってる。
だから、今回のシンエヴァでそこに終止符を打ちたい。
1/16ということで遂に買った。
早速繋いでBD(Coccoのやつ)を見ようと思ったら、なんかその前にスマホでテレビ見る機能を試したせいで、先にそれを終わらせろ話はそれからだみたいなダイアログが出てきて、「停止」を押すのだが、何回やっても「話はそれからだ」が出てきて停止できない。もうわけがわからなくなって憤死して
1/17
今朝も憤死している。
なんかよくわからんがNHKとMBSしか見れない状況に陥っている。
それ以外を選ぼうとすると「話はそれからだ」が出てきて、停止を押しても全然終わらない。スマホからもテレビ見れなくなってるし、BD見ようとしても「話はそれからだ」になるし、停止しても停止しないし、そもそも何が動いているのかもよくわかってない。ただ明らかなのは、BDが見れないということだ。
とりあえず仕事に行こう。
まだこのBDレコーダーとかスマホ連動機能とかがどういう概念になってるのかが判然としない。意味わからん。
なんとなくあのDで始まる、HDDをメディアサーバーにしてwifiとかで飛ばす機能のやつがわるさしてる感はある。あれが止まってなくて、でもだからといってそれでBDが見れないとかはもう東芝(現レグザ)の怠慢というか、日本の家電の会社はことごとく客のことを考えていないというのか。
「できません」「してください」じゃなくて、しろよ!
こんにゃろこんにゃろー!
Youtubeの「あとで見る」なんか何回登録してもおとなしく「登録しました」って言ってくれる優しさがあるけど、もしYoutubeが日本でできてたら「あとで見る」を押したら10秒固まった末に「重複登録はできません、やめてください」とか言ってなぜか画面が真っ白になってトップページに戻されるだろう。
それはできませんとかこれをしてくださいじゃなくて、そうなってくださいとしか思えない。今そうならなくていつなるんですかー!
みたいなことを考えたり書いていたりするとまったく本が読めない。
昔はもっと一直線に周りの情報を無駄にとりに行ったりしなかったし環境的にもできなかったから集中できたんだろうけど、今はもうスマホがないと漢字の手書き検索とかがないと本は読めないし、スマホ触ると誘惑がやばい。
Twitterとか見てしまうと成田さんの集団自決とかcolaboとかになって、あとTwitterもなんかBの中にTwitterの鳥が入ってるマークとか増えてたり、あとなんか急に一番欲しかった純粋にフォローしてる人のタイムラインだけを見せてくれる(けど広告もあほほどついてくる)機能が増えててこれはなんか画面が若干突貫ぽいけどいい感じですね。今までイラッとしてたやつはfor youという隔離機能で分けてくれてるので、これ有料にされるとキツいすね。フォローしてる人のタイムラインだけ見れるようになったからそろそろ色んな人のミュート切ろうかなとも思う。今まではfor youとフォローしてる人がごちゃ混ぜだったからツイ廃の人はミュートしてたけど分離したからこれならたぶんふつうにタイムラインに放流しても見れるんじゃないかな。ひどかったらミュートするとして。
個人的にはリツイートばっかりしてるとミュートしたくなるし、近況報告も個人的な教訓も「○○先生の次回作をご期待ください」とでも言いたくなるような決意表明もミュート対象である。そういうのは勝手にやってくれ、勝手に思っといてくれとしか思わないので書くとしたらもっとだらだら書いて読まれないほうがまだ最終的に自分の日記として差し戻せば懐かしめるけど、公開前提の決意表明みたいなものは自分にとって他者にとってなんの楔になるのかみたいなことを考えたとき、やはり「○○先生の次回作をご期待ください」程度のパワーしかもたない、つまりハッタリというか、生産性がない(別に生産性の信者でもないが)拡散するのがわかってる決意とか思いは要らないと見てて思ってしまう。それを書こうとして何回も取りやめてる人が見てるタイムラインでそれを書くってことはもう筋がバレてるとみてその上で書くことを考えるべきであって、それを何周もしてそこに落ち着いているんだろうけど結局そこに落ち着く前に、自身が何かしらの逃げを打ってないかとか無意識で苦手な何かから身をよじって避けてないかとか、精査したうえで、でも出すっていう選択をしたからそこにあるんだよね?っていうことだけは聞いておきたい気はする。覚悟とかだいそれたものではなく、気軽に書いてもいいんだけど、気軽に書いているにしては変に捻じれてないか?と思わなくない。そしてその内面化されて屈折した部分に対する反省をもった上で書いているのかどうか、その上でどうしようもなくそうであるのかどうか、そういうのがみてとれる文章が一番見ていて心をかきむしるというのか、イラッとくるのでそういうのをいの一番にミュートする。精神衛生に悪い。(このへんは1/13〜1/14に書いた気がする)
1/17
で、まあ今日も結局BDは見れないわけである。
今宵も仕事から帰ったら悪戦苦闘してなんとかしてレコーダーの中で動いているNHKとMBSしか見れない状態を解呪してCoccoのBDを見てやる。
くそー、なんでこんなにBD見るだけで足掛け3年?4年?
かかりすぎる
もしかしてBDを見てはいけないのか? 見たらなんか発動して死ぬのか? 守護霊獣? え、なんでこんなに見れないのは逆に意味があるとしか思えない。
…まあ仕事いこう
以下は1/16の朝に書いたやつ
わいの令和詩史5か? 6か? 4や!
きのうはリフンマ・ンガブク(ちゃんと逆になってるかな)に行ってきた。
すごいたくさんの人が本を出していた。
見本誌コーナーだけでもすごいもう本やんという本がたくさんあった。
わたしは右のパイプ椅子コーナーで全体を把握して詩のところ
(「あ」のあたり)を歩いて回ったが、なんかめぐってくと、だんだん
外国の料理の本とかに目を惹かれることが多かった。
今朝は頭を洗いながら鈴木志郎康さんの年譜を勝手に頭の中で夢想していた。
そこから、わたしが初めて鈴木志郎康さんの詩を読んだのはネットが先か、昭和文学全集が先かという話題(※ひとりです)になり、文学全集には何が載ってたかなと思い返し、月、プアプアが三十一歳の誕生日を優しく、キキのお遊び(タイトル失念、寄る歳波には勝てない)、見えない隣人、草多という名、仮面の裏で、口に入れてうれしい、モーター、だった気がする。
そして、これを収録詩集の発行年になおしていくとどうなるか。
最初の月がザクっと1968年あたり(H氏賞受賞の前年だから1967年?)と想定し、次に最後に収録されてるモーターが虹飲み老ということは1990年前後になるが、このへんになると鈴木志郎康さんはいろんな同人やなんや活動が手広すぎてよくわからないことになってる気がするし、書いてるものもなんか一歩一歩進んでいく感じではなくなってきてるようなところがあって、詩集という単位で見ていかないとなんか見通せない気はする。一緒に活動していた人は別として。まったくその圏(界隈?)にいない、読む人としては。
となると、都合22〜23年ぐらいのあいだの詩が満遍なく採られていることになってる。選び方からして大岡信さんとか八木忠栄さんとかなのかと思うが、まあそれはいいとして。
で、何が思いたかったのかというと「わたしは最初にこのアンソロジーを読んだとき『なぜこの人はこんなに書くものが変わっていくんだろう?』と思ったかどうか」が気になりはじめたのだ。
最初にどう思ったか。
どうなんしょうね。
現代詩文庫の鈴木志郎康さんの巻(まき)で富岡多恵子さんが書いてる詩人論にそういう変わっていくドラマがおもしろいのだみたいなことを書いてた気がするけれども、それをわたしはアンソロジーを見た時に感じたのだったか。
たぶん感じたのだろうけど、当然のように今のようにではなかった気がしていて、じゃあどんな感じだったのだろうと思うけど、よく覚えていない。
最初はとりあえず全集に目を通して行って、猥褻な言葉が使われている詩に食い入るという入り方をしていたから、その後の変遷、特にプアプア系から、見えない隣人、家の中の殺意、日々涙滴、家族の日溜り、あたりの詩集に至る変わりっぷり、またそこから融点ノ探究、虹飲み老あたりの詩集はちょっと違う。全然違うと言われるのを承知で言えば、雅語感がちょっと強くなるイメージがある。軽やかになるというか、ちょっと道筋を追うことを諦めるかのような、拡散していくようなイメージがある。なんか、言葉遣いが艶々するというのか。それはちょっと進化とか徒歩とかというより、ちょっとわたしにすれば横道のような、足踏み状態のように見えてちょっとう〜んってなる感じだ。そこからまたパソコンやネットの登場によってしゅっと凝集して石の風や胡桃ポインタにいくイメージがある。要は自分の心性に合うものの登場によってまた復活したかのような、ただそこでわたしが鈴木志郎康さんを知ったから勝手にそう思ってるだけかもしれないし、アップル復活の物語と鈴木志郎康さんを重ね合わせてるだけかもしれない。そして晩年は声の生地、ペチャブル詩人、などの詩集を出していき(声の生地からペチャブル詩人はすごい空くけど、ペチャブルからはとんとん、と出て、そこから間が空いて)、現代詩手帖の5つの詩が掲載された最後の詩になった。
というかそもそもネットができた(入れた)ときのうぉーみたいな高揚感は誰しももってたので、それもあったのかもしれない。すごくただで情報が得れる…鈴木志郎康さんは詩の電子図書室を作ったりしていた。あとはたぶん多摩美の生徒の詩を載せたりしてて羨ましかった。
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