「書かなくてもよくなる状況」について 7/5

「書かなくてもよくなる状況」について



  • 警察庁の「自殺の状況」と厚生労働省の「人口動態統計」の自殺者数の違いについて
    ① 警察庁の警察庁の「自殺の状況」は、日本における日本人及び日本における外国人の自殺者数としているのに対し、厚生労働省の「人口動態統計」は日本における日本人のみの自殺者数としています。
    ② 警察庁の「自殺の状況」は発見地に計上しているに対し、厚生労働省の「人口動態統計」は住所地に計上しています。
    ③ 警察庁の「自殺の状況」は、捜査等により自殺であると判明した時点で自殺統計原票を作成し、計上しているのに対し、厚生労働省の「人口動態統計」は自殺、他殺あるいは事故死のいずれか不明のときには原因不明の死亡等で処理しており、後日原因が判明して死亡診断書等の作成者から自殺の旨訂正報告があった場合には、遡って自殺に計上しています。

  • 自殺に関する統計は、厚生労働省ホームページ「自殺対策(厚生労働省) 」からも調べることができます。


「書かなくなる状況」のなかになぜ死が色濃く感じられたのか
同質性、同世代
私たちは金もなく深夜に(ネットに)繋いでいた。仕事もなく若さで夜更かしばかりして、そんな私たちが忙しくなるには時間が必要だったし、飽きる必要もあったし、もっと大事なものが見つかる必要もあった。ネットに
「帰ってきてはいけない」とは言われないが、自然と集めなくなった漫画雑誌のように、少しずつ、また、ネット環境も。街角でモデム配りまくるYahooBBの人たちとか、懐かしい
常時接続サービスがそこそこの値段で出来るようになった私たちは正規非正規実家ナマポか知らんがなんとかまあ、また現実の他者と絡んで忙しくしたのかもしれない。少し席を離れることがふえていった。そしてインターネットも少し実社会の生活に寄与し始めていた。吉野家オフ、フラッシュモブ、示し合わすこと、俺たち、オフ、祭り、これらとは直接の関わりはなかったが、ポケモンGOでガードレールの隅に溜まってる人たちとかを見ても、情報がいってるのだなとしか思わないし、独り言を言ってる人も電話してるんだなとしか思わないのは、鈴木謙介が言ってた「多孔化」概念が当たり前になってなんとも思わなくなったからだろうか? だから示し合わすための方法や手順(あるいは報酬?)をプラットフォームやコンテンツプロバイダー側が持ってるのか、そこから手作りでやっていくのかみたいな話になっていくとそれはTwitterの告知とか炎上などにすでに溶けてしまったようにも思う。

クレジットカードを躊躇なく、いやそれ以前にクレカを持ったのがいつだ?
支払いをネットに任せてなんとなくいけるような気がしたのはいつ頃からだろうか
音楽からだろうか。iPodとか。
ソニーがいつ楽曲を提供するのかと思ってたなぁ
クレカ
レンタカーも
車を持ったのもいつだ
気づいたら楽天、ヤフオク、それからAmazon
もう今はサブスクで好きに入って解除して、また入って、お帰りなさいませ!みたいなことまで言われる世界
余裕だな
そういや必死だなプッみたいな煽りAAあったな
なんだったんだろう
あの時間

そうこうしてるうちに死ぬとか生きるとかいう感じでもなくなっていた。

さっきから自殺率の統計を探してるのだがノウハウがなく、よくわからない。
厚生省とか警察庁をクリックして、同じようなPDFがたくさんたまっていく

たぶんわたしが知りたいのは平成10年(1998年)〜平成16年(2004年)ごろまでの自殺率で、なんかのPDFのグラフでは、平成2年、平成12年、平成17年、平成22年、平成27年の年齢別自殺率が載っていた。
平成12年(2000年)の55歳〜59歳がめちゃくちゃ高いのがわかる。
これはバブルの不良債権とかのやつだろうか? リストラ?

あと平成2年(1990)年ごろは10歳〜64歳まで、あとの比較年と比べても最も自殺率が低い。でも、70歳以降は最も自殺率が高い。一気に追い抜く感じ。

ぼんやりグラフを見ていると、その2000年の50代後半の自殺率の異常さをのぞくと、基本的には同じような形をしていて、ゆるやかにではあるが2回山があるようにみえる。
最初は20〜24歳のところ、ふたつめは40〜44歳のあたり。
わたしは今ふたつめの山のあたりにいる。

わたしはひとつめの山のところではひきこもって「自分の人生は詰んだ」と思っていたが、死ぬという発想はなかった。今、ふたつめの山にさしかかっているが、やはり今のところ死ぬという発想は出てこない。
でも思いもよらないところでつまずいて、一気に奈落に落ちそうな不安は常にある。怪我や病気で働けなくなって…みたいなイメージ。

ひとつめの山での「生きていけなさ」は、今思い返してもよくわからなくなってしまっている。
ただ、それ(自殺)が「書かなくてよい状況」のひとつであるという予感は、なんとなくだけど共有していた気がする。しかもかなり真っ先に思い浮かぶ可能性として存在していた。
ホームページも少し散策すればやはり手首を切ったりとか薬を飲んであれは効くあれは効かないみたいな日記みたいなのがたくさんあった。
でも自分はそういうのではなかった。
今にして思えば精神分析的心理療法とかドリフ診療みたいなものとドクターショッピングみたいなものと2000年代前後の空気感みたいなものがないまぜいなっていて、効果的なものとか現実的なもの、あるいは建設的なものや生産的なものはなかなか生み出されなかったという印象がある。
いちがいに退廃的とはいえないが、なんか内臓が強そうな人だけが生き残って喋ってるんじゃないかみたいなことはずっと思っていた。要は退廃のなかにも生存バイアスがあるので、これに引っかかると私なんかは一瞬でアウト(死ぬ)だろうと思っていた。
M-1の2001年の空気とか、笑い神という本などを読んでても、なんかあの当時はとにかく氷河期とか以前に、若い人も大概潰し合いというか、こう、物事が前に進まない方向に(無意識的に)尽力していたような気がしてならない。
まだ先輩後輩みたいな、私からすれば日本軍、日本兵としか思えない雰囲気がまだまだあって、みんなその中で人の話を聞かず、心理療法や薬というものの意味というか、いやいやクリニックや薬が解決するんじゃなくて、あなたが現実と接して解決するんですよみたいなシンプルな話がなぜかまったく共有されてなかった印象があり、バブル崩壊で氷河期で世の中が停滞したとか以前に、その時代に生きてた人間のものの考え方自体があまり今に比べると意味のないことでブレーキをかけたりぶつかったりし過ぎていたんじゃないかとは思う。単純に言えばとにかくネガティブだったし、足を引っ張ることしかしてなかったし、理由もないのに強いる人が多かった。そんな印象。
ネットも現実も無駄にギスギスしてて怖いところだった。
わたしが見ていた範囲、クラスタだけがそういう傾向をもっていた可能性はあるとしても。

また、それとはまったく別の極、早熟すぎるというか、早くからいろんなものが読め過ぎて逆に死に近い人みたいな、そういうクラスタもあるような気がした。そういうのはクラスタではなく、時々点として存在しているだけだったが

あとは、思えばトラウマとか、そういうのが流行った?時期でもあったし、人への理解度(解像度?)が低い時期でもあったような気がする。まだ頭ごなしにキレていい時代で、面罵してもいい時代だった気もする。
目の前にいる人を無視して話を進めてもいいような時代だったというか、精神的な傷はもっと固形だと思われてたというのか、そんな感じだった気がする。

この棒(自殺のグラフ)を見ていると、どこで死んでも、、、というのもなんとなくわかるのだ。早計と言われようが、この棒を見る限りでは若い人が死ぬ理由が非合理とも思えない。ただ、途中までくると、いきなりここで思い出したようにそうするのもなんだしな、と思うようになる。
だから次にくる苦しみが引き金になるのではないかと、老い始めた体で怯えているのに、呑気なオートパイロットのようでもある。

(7/5)
(2023/9/18 読み直し、少し修正して投稿)

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