わいの令和詩史4か5、3か? 4や!

あさ。しぶんぎ?流星群が見れるというのを昨日の夜Yahoo! ニュースかなんかで見かけて5時半からベランダに椅子設置して眺めてたけどあまりに寒いので体感5分もいなかった。これはアニメのチェンソーマンで早川アキがやってたやつを「かっこいい!」と思って置いてた椅子がたまたま流星群みるのに使えた。
5分でも5〜6個は見れた。なんかその場でシュンと揮発する系のやつが多かったけど、線を引くようなのも1個ぐらいは見えた。あとはチカチカゆるゆるしゅぽ、みたいなやつとか。
ただ惜しむらくはわたしは自信がなさすぎて見えたかどうか確信が持てなくてもしかしたら錯覚かもしれないということ。

昨日のメモに「おおおかにでぃすられはじめている!」と書いてある。寝る直前にウエストランドと『蕩児の家系』の感想がごっちゃになっておもしろいと思って書いたのだろう。

たぶん民衆詩派の赤裸な心情吐露云々みたいな部分にカチンときたものと思われる。なんかそのぶん直観に裏打ちされた緊張感のある感じの詩が減って、だらだら日常とか思いを羅列したようなやつが増えてなんか色々うすまった感があるみたいなことが書かれてる気がしてカチンときたものと思われる。

最近ほんとすぐに記憶がなくなるので殆ど忘れているが、明治終わり〜大正あたりで「文語→口語」への変化と、韻律(定型?)からの解放が同時に起こって、前の流れを汲んだ正統進化みたいなものがなくなった。
そこで直観的な緊張感ある観念をそこそこ短く表すような言葉それ自体で世界を作って閉じるタイプの、個人的にいえば、どこか遠くのほうでは知覚できるような結晶みたいな世界?の「自然」の詩の流れよりは、だらだらと自分の思いの丈を綴ったような「自然」の詩のほうが強くなった。
構築というのか、そういう方向よりはそのままとか剥き出しみたいなほうに「自然」が解釈されて廃仏毀釈って言われて仏像潰すみたいなやつが発動したのかな。この日本の漢字の字面で騙されてやってしまうやつはほんと宿痾すぎるのでやめたほうがいいキリッ
ここで勝手にわたしがいってる自然は、イメージでいうと吉田一穂とか川田絢音の空の時間とかのイメージでいってる。なんかない世界なんだけど言われてみればなんかそういうのがあって、そしてそれは確かにそうなってるような気がします!みたいな納得感のあるキレのいいやつみたいな。あるいは水晶窟でめっちゃ透き通ってて明るくて下が海みたいになってるところを航海してるような世界やその航跡のようなもの。
で後者の自然は端的にいえばイデオロギーによりかかったり、よいどれていて無頼で…みたいな、身上つぶしてなんぼみたいなおまえほんまそれたいがいにせえよみたいな世界観の詩。
これは個人的な問題に引き付けて言えば、自分らしくあろうとするという意味で、水晶(前者の自然)のほうはずっとやってられない、あるていど歳をとったら否が応でも後者に「なるべきだ」という内面化された圧、「らしさ」「かくあるべき」の問題である。
当時も蒲原有明がボコボコにされて病んだりしてたけど、そのときは音楽性の違いみたいな話だったけど、これはおそらくイデオロギーとか姿勢、あるいは年齢の問題にもなって、それは同じ問題を縦にとるか横にとるかの違いでしかない。で、詩を書くにあたってそこは体力というか、題材をどこに見つけ出すかという問題と絡んできて、すごく飛ぶか、すごく飛ばないかの二択になってきて、それと同時に仲間との関係性、思い入れも深まり、仲間に対する言葉の冒険(行き着く先)を見届けるモードになり、だんだんとお年賀のはがきというのか、年頭年始の挨拶みたいな趣になっていって、その人をよく知る人とか追っかけてきた人にはとても感動をうむけど他の人からすると「はぁ…そうですか」みたいな感じになる。「生きてますね」っていうことだけになって詩のよしわるしはあとにくるようになる。それはそれで大事だけどなんかちゃんと審美をもってつらまえたいみたいな願望、これを持ち続けるのはさらに大変であるし、おそらく持ち続けるにはそういう文化圏というか一緒に(年齢)上がっていく仲間内がないと不可能な気がする。で、今読んでるのはそういう仲間内がある人が書いてる本なのだな、という感じ。
話がそれた。
で、緊張感と直観は口語と自由律の中であやういバランスの中で一回きりの詩を書くようなフォロワーの現れないタイプの詩人を生み出した。

読みながら「詩ぃて、大正からNSCやったんか…」みたいなこと思ったりしてた気がする。

まあ実際は書物として先人の文語定型詩を読んではいるものの、師匠筋にあたる表現みたいなものは立ち消えになってたり、師匠筋はいてもその作品がその系譜上にのるかというと全然違う(三好達治と萩原朔太郎)みたいなのが普通になった。
で、そのあぶなっかしいバランスの上で成り立つ詩みたいなやつの片鱗があきらかに見え始めてる例として山村暮鳥が挙げられてる?

口語自由詩になって言葉が型をもたなくなったせいで結構いい感じなのに結構すぐに忘れ去られて風化するようになって、というか、どっちかというと、傍目にはどっちもおんなじふうに見えてくるみたいな問題なのかもしれない。

ほんとにいい、時代を超えて残る詩(なんだそれ)をめききするときの専門性が、ほとんど政治性に取って代わられちゃってる側面とかもあるかもしれない。

あとはもっと相対化していって、常に読み手側の受け取り加減であり、いい悪い(絶対評価)なんかないという考えや、いいものはいいものとして受け継がれるべきとかも、もう読んだ人の伝えたさに任せてやっていきまっしょい! みたいな世界観でもいいのかもしれない。
でも、この本に書いてある流れとか問題意識みたいなのはめっちゃよくわかる気がする。

「民衆詩派亜流」とか「人道詩派亜流」みたいな表現がでてきて、これが結構おもしろい。かなりのディスを感じる。
わたしも分類したら明らかにこの流派になるのだろう。
この、亜って、亜インテリの亜だし、亜に心がついたら悪だし、なんか亜って、消費者のくせにやる人みたいなニュアンスが込められてる気がして、それに対しわたしなんかは好きにさせろよ勝手に消えてくんだからよー、とは思う。だから変に世間の目とか内面化しておずおずするのもなんか人生として勿体無い気もする。とはいえ、今のわたしは明らかにおずおずしてる。
おずおずしてないからといって必ずしもそれがいいというわけでもないのが難しいところ。ときどき。

そういえば、昔、ネットの詩の紹介文とかに、ときどき出てくる表現として「くぐりぬけている」みたいな言い方を見かけることがあった。
具体的には、たもつさんや北川浩二さんの詩の紹介において、なんかそれっぽいのを読んだ記憶がある。

ようは、ぱっと見は「民衆詩派亜流」の詩っぽいけど、実はちゃんと文学の歴史や文脈をうけた上で書かれたような詩である、という事だと思うのだが、そういうのは、確かにぱっと見ではふつうの詩だけど、屈折というか、ぱっと見は簡単に解けそうだけど、いったん手をかけてみると、実際にはかなりややこしく結んであるみたいなところがあって、そういうのを味わいとか奥深さとか真理だというのだとすれば、確かにこの「蕩児の家系」に書かれてるように、「言葉の容器」をうしなったがためにそういった亜流と一緒に音速で風化していくはめになった、という言い方はある程度あたっている。

けれども、まあそこもちゃんと選別してこれはちゃんとねじってあるとかねじる力量がないか、途中でうっちゃったような詩だなとかも読む人が読めば(書いてる人が読めば)わかる世の中になってる気もする。
まあそういうのが選別されずに昔も今も有象無象で、まあ20年前にもネットの詩は玉石混交だと言われ、さらにこの1975年の本にも書かれてる(しかも書かれてる時代状況は100年前)のだとすると、もうこれは筋金入りの慢性的な玉石混交状態であって、固疾を抱え込むことになったと書かれてから、もうかれこれ60年近くずっと抱えたまま詩の世界はあいも変わらず全力疾走中。
というかこれはこれでポリフォニーっちゃポリフォニーであり、それを選別したい人というか箱舟に載せたい人からするとイー!ってなる状況なだけで、まあ、いいじゃん。べつにさぁ。

じゃあさしあたっての問題としては、そこに自分をどう位置付けるのかというか、まあどのへんかなぐらいの気持ちは持ちつつ気楽に好きにやるのがいいのかもしれない。どっかにある世界を活写したいぜみたいなものは無理なので、ほんとうにてきとうに書いてこいつてきとうに書いてんなと思われつつときどきおもしろいみたいな、凝縮しないように、いいやつだけを集めようとしないように、そのへんを逆に注意してやるような、ただそれそのものの選定だけはしてるけれども、してないような(なぜこれを選ぶ?)、スナップショットを机に並べて微妙なやつばかりを選びつつ時々いいやつも選んだりするようなランダムさでやらないといけない気はする。でそれをわたしみたいな人間がやると目も当てられない状況になるんだけど、わたしの人生はずっと目も当てられない感じだったから、それが自分の性質をもっともよくあらわしてる気がするからそれでいい、むしろそれ、という。
どうあっても息切れしてすっぽ抜けるのだから、全力でそれを投げ続けてそれの集まりを形成するしかないのであろうという諦めもある。

(もうこの先の文章はかなり前にどこかにさしはさもうと思って書いたけど、もうどこだったかわかんないので文脈は関係なくなってる)



かといってそれがおおかたの人に受け入れられるのかといえばまず無理だろうというのもわかる。だからるろうに剣心みたいにまずは目の前にいる人たちを守ろうみたいな発想になっていく。

あとだいたいなんか新しいものが生まれるときはセットで新しい言語(というか詩型の変化)が伴うと相場が決まってるというところにきて、口語と韻律の2つが一気にきて新しすぎる状況になっていきなりそれの完成系というか不安定な完成をみせるものが現れて、これからどうするみたいな、潰して潰して潰してみたいな、引き継いで進化発展するのではなく、反動の反動の反動…といった感じで退化していくかのように見えるドツボ感を生み出した。と同時に詩を書く人間の、それらの反動の歴史を引き継ぐ人の蛸壺感も増していった。

もうやだーうぎゃぼうえええ(これはどこで使うつもりだったのかまったくわからん)

宮沢賢治はどうかとなると、なんか違う気がする。実際に手を動かしている、仏教、哲学、なんか主体の置き位置なのかインスピレーションかどうなのかみたいな差なのかもしんないがよくわからないけど

(途絶)(1/4〜1/9?)

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