メモ
連休二日目。休みの日の一日目は、なんか結局何もやる気がおきないことが多い。二日目になってようやく少しやる気になって、少しやったりする。
最近やってるのは、鈴木志郎康さんの本のあとがきをメモアプリに書き写すこと。心のなかで「写経」と呼んでいる行為である。
最初は、最後の詩集『とがりんぼう、ウフフっちゃ。』から遡っていって、途中から、気分を変えるため、最初の詩集『新生都市』からやって。
『新生都市』に、あとがきはない。ただ、この詩集には簡素な著者略歴があって、それを書き起こしたりしている。
今のメモアプリには、鈴木志郎康さんの本のためのフォルダがいくつかあって、「あとがき」「初出一覧・書誌一覧」「著者略歴・著者紹介」などがある。著書にはすべて番号を振っていて、番号は全部で53まである。
これら53冊のジャンル分けは難しいが、敢えて分類すれば、詩集、小説集、エッセイ集、写真集、絵本、評論集といったところになる。
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なんのためにやっているのかはあまりわからないが、やっているとわかることもあるような気がする。
鈴木志郎康さんのあとがきを読んでいると、時々明らかにわけがわからない箇所がある。書き方として、途中までは論理的に突き詰めてゆくのだが、それが一段、二段と重なってゆくにつれ、だんだんと苦しくなって、言葉が続かなくなっていき、最終的に妙な飛躍を見せたり、短絡したり、変な文章の結び方をしたりする。そういうのを見るにつけ「どういうことやねん」と思いつつ、心情的にわからないではない。
アンソロジーや現代詩文庫の詩人論、あるいは個人のブログで引かれている箇所が、いかに明晰で論理的な部分だけであるか、ということにも気づいたりもする。
これは『日々涙滴』のあとがきである。
「意識の側から問いとして働きかけると、行為はぴたりと止ってしまうのだ」という言葉は、とても面白い。
私が、鈴木志郎康さんのこういう文章を読むたびにいつも思い浮かべるのは、私が独り身で、これからの予定が何もないときお風呂につかったら、すごくよい湯加減で、もうずっと一生入っていられるのに、やはり何かのタイミングでは必ず湯船から上がっているのであるとか、毎日使っている自分のロッカーの位置とか下駄箱の位置、あるいはナンバーロック式の錠などを何も考えずに番号を押してしまっていて、むしろ意識するほど下駄箱の位置が分からなくなったり、ナンバー錠を押せなくであるとか、なんかそういう具体的な行為を思い起こさせる。
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引用の後半部では、自分の趣向と家族のみを拠り所にするか、それをよしとしないのかの揺れ動きが、少しずつ落ち着きつつあるかもしれないという、自身の心情を綴っている。家族を大切にすることと意識と行為の観測を切り離したり諦めたりすることの連関は、正直なところ、この文章からはいまいち摑み切れない。なんとなくはわかる。
個人の意識や行為を観測し続けることを終了するのは、なんだか、コロコロコミックとかコミックボンボンとかを収集するのをいつ辞めるか、みたいなことと、少しだけ似ているような気もする。
ずっとやってきたことを家族のためにやめるのか。まぁそれでいいような気もする。
あるいは、工夫して続けるか。まあ家族からすれば「もっと身を入れて"家族"やれよ!」とキレたくもなるだろうが。そんなこと言っても「私のこの肉体は…」みたいな話になってきて余計むかつくかもしれない。
ただ、『家族の日溜り』所収の「真新しい楔の感情」という詩を読むと、そのような拘り方に打ち込まれつつあるものがあることもわかる。
そういえば、よくアンソロジーに『家族の日溜り』の、鈴木志郎康さんの家族について書かれた詩が載っていることがあるが、それはこの「真新しい楔の感情」とセットで読まれなければならないのでは?と思う。
話が逸れた。もどそう。
そんなことをしていてもしかたがない、埒があかないというようなこと、一括で語ればいいことを拒み続けること。
鈴木志郎康さんは、そういう十把一絡げにしてくる性質のものを「暴力」と言ってるような気がするし、そういうものとは断固としてバトっていかねばならないみたいなことを常に書いている気がする。
そして、こういう暴力は組織の側からの要請だけではなく、個人の側からも発せられるものであるのだけど、もうちょっとその警戒のシグナルを、もういい加減ちょっと、ちょっとぐらい緩めてもいいんじゃないかな、みたいなことを、自分で自分に言い聞かせているようなかんじがするのだ。
執筆当時、鈴木志郎康さんは42歳になったばかり。
詩集『家族の日溜り』と『日々涙滴』の発行日は二週間ほどしか違わないが、あとがきの執筆時期には半年ほどのひらきがある。
『家族の日溜り』発行日1977/6/10 あとがき1976/12/27
『日々涙滴』発行日1977/6/25 あとがき1977/5/24
『日々涙滴』の二週間前に発行され、その半年前に書かれた『家族の日溜り』のあとがきには、こう書かれている。
この箇所の一部は、私の記憶が間違っていなければ、『現代詩の鑑賞101』で、八木忠栄さんが引いていたはずである。
この箇所と、先に引用した『日々涙滴』のあとがきを併せて読むと、「それのみが私にとって確実なものに思えるようになった(家族の日溜り)」と「自分の家族に対する感情とがいくらか真なるもののように、それだけを大切にする以外にはないという気にもなって来てしまう(日々涙滴)」には隔たりが感じられる。
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鈴木志郎康さんの次の詩集は、2年後の『家の中の殺意』(1979)になる。発行日は5/19となっており、これは鈴木志郎康さんの誕生日である。
『家の中の殺意』における集中の詩の執筆期間は、1977年2月〜1978年9月であるという(あとがきより)。このへん(執筆期間、発表媒体、詩集の発行日との関係)は、もう少し読み解いていく必要があるが、この詩集のあとがきで、1977年12月にNHKを辞めたことと、1978年4月に家を新築し移り住んだことが記されている。
これを『日々涙滴』のあとがきなどと綜合していくと、家族や生活といったものからは離れる代わりに、そこを迂回して事物にこだわりたい気持ちもあるということになる。
そしてその意識は、確かにこれ以降の詩に見て取れるような気もするし、腰砕けになってしまっているようにもみえる。
次の方法論を見つけられないまま、いくらか相対化されてしまったような考えに行き着き、いくらか弛緩してしまったかのようにも感じられる。他者の詩の思想や選び取られた方法論やスタイルについて強く言えない。人それぞれだと思ってしまう。
ここで、もう一度『家族の日溜り』に戻ると、
正直、ここで書かれている「抽象化作用」によって、詩の素材にされた人間が苦しむという理屈はいまいちよくわからないのだが、あえてシンプルに「自分のプライベートを勝手に書かれていい気はしない」ぐらいに捉えてみる。また「自分で管理ができない自身に関する情報の拡散状態のようなもの」などのことを抽象化作用といっているのかもしれない。
また、「もともとものを書き発表する人間は、抽象作用に犯され、不安にさいなまれる生活を送っているが、それは自分のしたことだから、自業自得ということだが」の箇所は、黒田三郎の著書の以下の箇所(太字は引用者による強調)に通ずるものがある。
ちなみに黒田三郎さんもNHKである。おいといて。詩人がこういったことを意識しなかったわけはないだろう。だが、生まれたとき、すでにあった家族と違い、そしてまた、自分がもった家庭とも違う、自分がもった家族と、自分の詩が追い求める興味関心の筋道や方法論がもろにかち合ってしまい、相性が悪かったのだろう、とは思う。それに加え、NHKに勤めながらあのような詩を書きながら生きるのは、なかなかにアクロバティックなことだとも思う。
ただ、このあと、詩人の詩の書き方が、なにかの答えを見つけていったかどうかというのは、正直なところ、非常に微妙である。正直、よくわからない。なので、これから読み進めながら、確かめていきたい。
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私が見始めた頃の鈴木志郎康さんは、多摩美に勤め、インターネットで曲腰徒歩新聞を書いていて、これから『胡桃ポインタ』を出すというような時期だった。そこから20数年経って、ようやく私はそれ以前の鈴木志郎康さんについて、また遡るようなことを始められるほどには恢復し、ひとりになった。
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『家の中の殺意』以降から、『胡桃ポインタ』までの詩や、考え方の変遷をたどることによって、見えてくるものや、感じ方もまた変わってくると思う。
ただ、正直、詩はすべて読もうという気にはなかなかならないので、駆け足的に、あとがきばかりを追ってしまうのは否めないだろう。
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先回りして書くと、1980年〜2001年、鈴木志郎康さんは旺盛な同人活動や映画制作、(大学やカルチャーセンターなどの)講師として、また多数の媒体への執筆によって生活を支えている時期にあたるであろう(推測)わけで、このあたりは調べる側からすると非常に「とっ散らかった」時代にあたる。
活動のすべてを網羅するのはとても不可能なことのように思えるが、わかる範囲で調べていきたい。1980年〜1995年までの著書の数は、全著書のほぼ半分を占めている。
しかし、その後の書籍の刊行間隔をみると、1996年の『石の風』から2001年の『胡桃ポインタ』、その後の『声の生地』(2008年)と、12年の間に詩集3冊しか出ていない時期というのがあり、ここが鈴木志郎康さんの人生において最も本を発表しなかった期間になる。そして、2009年に自身の初期詩集成である『攻勢の姿勢1958-1971』、2年後に評論、エッセー集(表現論集?)極私的ラディカリズムなんだ、そのまた2年後にペチャブル詩人、また2年後からは1年ペースで、どんどん書いちゃえ、化石詩人、とがりんぼう、と3冊の詩集を出し、2021年7月号の現代詩手帖に寄稿した「五つの詩」が最期の詩となった。
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アサヒグラフのH氏賞受賞時の写真入りの記事を読んでいたら、授賞式の会場に、母親と並んで向かっている鈴木志郎康さんがいて、「強い…」と思ってしまった。
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今年(2024年)の春アニメでガールズバンドクライにハマった。円盤全巻予約した。2ndライブの抽選外れた。手島nariさんのガルクラ本は9月の再販分でなんとか買えた。2期待ってます。
アニメに登場するバンド「トゲナシトゲアリ」は、アニメに先行する形でリアルバンドとしても活動していて、昨年末にはシングル「極私的極彩色アンサー」を発売していた。
「極私的」という語彙が、極彩色と肩を並べるまでになったことはとても感慨深い。
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先のアサヒグラフからの引用では、鈴木志郎康さんは「極私」について、こう語っている。
「雑踏、僕らの街」である(何が?)
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鈴木志郎康さんのキャッチフレーズに「観念から遠くへ」というのがある。ある気がする。わたしら世代でいえば、「すごいぞくるり」みたいなものである。ただ、最近よく思うのは、観念から遠くなり、生活の細部にくまなく意識をめぐらせて書いた詩のなかの「わたし」は、それ以前に書かれた観念上の「男」や「わたし」と、そこまで違うものだったのか?という疑問である。鈴木志郎康の最初期の詩から、ずっと発話者のわからないナレーションのような声がリフレインで差し挟まれることがあって、ときにはその声は丁寧調の告発のようなものであったり、命令であったり、連を切らない詩のなかにおいて器用な場面転換(カット)の作用をもたらしたりしていた。
結局のところ、その冷静なナレーションを、「わたし」という、ある都市生活者の目線にあてがっただけなのでは?という疑念も拭えないのだ。
そう考えると、本質的に鈴木志郎康の詩が変わるのは、むしろそれよりさらに後年の詩である、とも言えるのかもしれない。なんてことをときどき思う。
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トゲナシトゲアリに「極私的極彩色アンサー」という曲ができたことで、「極私的」という言葉はこれからも当分は生き残るだろう。カラオケで歌う人もいるだろうし、歌ってみたとかカバー動画も増えるだろう。その中の数名は鈴木志郎康にたどり着くかもしれない。
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「極私的」という言葉は、こんな感じで語彙として生き永らえていく。まあ何を飲むかはこの際いいじゃないっすか。
牛乳といえばMyGO!!!!!の燈な気もするが、そういえば燈も朗読というかリーディングしてたので、なんかガールズバンドと詩がきてる気がする。
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にしても、今の時代ほど極私的っていう言葉が使いやすい時代もないよなって気はする。でも鈴木志郎康さんの極私的はたぶん使ってる本人のなかでも少しずつ意味合いが変遷していってるような気もしなくもない。元々は、ふつうに極私すれば極私いけるだろ?みたいな感じだったのが、一緒に極私しようよ!みたいな感じになって、メンターっぽくなっていく感じ(しかも理詰めでそこにたどり着いていく)がして、その感じが他の詩人?とちょっと違う気がする。
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以下のガルクラ関連記事で、トゲトゲメンバーが、はじめてトゲトゲに触れる曲として「極私的極彩色アンサー」をおすすめしているので、ぜひとも聞いてみてほしい。
最後に、凶区のメンバーをガルクラのトゲトゲメンバーに割り当てるとしたら、どうなるか考えてみよう。ただし、凶区の同人10名に対し、トゲトゲメンバーは5人であるので、メンバー1人につき凶区同人2名ということになる。
桃香…天沢・渡辺
すばる…山本・藤田
ルパ…野沢・菅谷
智…高野・彦坂
ニナイセリ…鈴木・秋元
こんな感じだろうか。
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