2/22

noteの画面に向かうと日記というより最近やってるくせみたいなものをまとめておこうかなという気持ちになる。
最近は朝起きてペットさんの部屋んぽをする。少し前までは朝ごはんと並行してたけど、今はペットさんの咀嚼音が響く部屋であぐらをかいてそのようすを眺めるのが日課になっている。お腹は減っているが、是が非でも食べようという気にはならなくなった。
ペットさんはつけだしの小鉢みたいなものの縁に手を置いてシャクシャクしてるので人間味があってかわいい。
最近足を怪我したから、足の具合を観察するうちにこのような習慣になった。
最初のうちは怪我をしているので「たんとお食べ」的にやたら小鉢に盛っていたが、ここでたらふく食べさすとケージに戻すときの必殺のおやつで戻らなくなる。
いまはもうほとんど治ってきたから「たんとお食べ」のフェーズから徐々に小盛り程度に移行してきているところ。

部屋んぽのあとは朝ごはんを食べ、したくをすませて20分ぐらい本、最近はずっと「人口減少社会のデザイン」というのを読みながらぼざろのアルバムを聞いて、8時ぐらいになったら家を出て仕事。
仕事が終わったら帰宅。
フレスコのポイントごべえ(5倍)デーとかの時は食材を買い込む。
最近卵は無理なのでそれはいいとして、胸肉も時間帯のせいなのかほとんど見かけなくなった。代わりにハーブ三元豚?かなんかようわからんけどそれのカツステーキ用のロースが安くてそればかり買ってる気がする。
これを一気に4枚ぐらい生姜焼き風の味付けにして焼いて切ってタッパーに詰めて冷凍して一週間分ぐらいの弁当を作る。
あとはもやし。これはラーメンに入れる。
ラーメンは袋麺のラ王か正麺。ノンフライのやつ。脂質を気にする。チャルメラのバリカタとかも安かったら買う。けど最近はどれも値上がりしてて手が伸びない。
米は米で炊いてる。玄米というか、なんかちょっと削ったけど大事なとこは残ってるんで栄養めっちゃあります的な金芽米みたいななんかそんにゃやつだったと思う。
それも2合ぐらい炊いたらタッパーに詰めて冷凍にするやつと茶碗に盛るやつでわける。
んでから なんだったっけ
あれである。豆乳。無調整の紀文の。今はキッコーマンなのか? あの無表情の鳥が飛んでる太陽と木の書いてある抽象的なイカロスみたいなあの有名な感じだけど空気みたいになってるあのパッケージの豆乳。
なんか下の段ににっこりマークの安いやつもあるが、それはなんでか買わない。昔くちに合わなかったのか、もしくは買おうと思った時には無調整がだいたい消えてるからなのか、とにかく手にとらない。
あとは甘いもの。
これはついつい買ってしまうのだが、最近大学いもを大量につくってしまったのでこれは当分買わなくて良い。
家に帰ると動物さんが鳴いてるのでコートやなんやを脱いでケージを開けて撫で倒す。また朝と同じように咀嚼音ASMRを空腹状態で眺める。自由行動を始めたら晩御飯のしたくを軽くして、食べる前にケージに入ってもらう。
最近の自由行動は壁を齧らないように部屋の角に取り付けた段ボールの隙間(「←上から見たらこんな感じで壁の角に貼り付けてある)にわざわざ入り込んでいって抜けるというのを繰り返したり、砂浴びしたり、ターっとキッチンまで走ってきてゴミ箱の陰に隠れひょっこりはんしたり、なんかターっと走ってなんかやってる。時々ズボンの裾あたりで掴まり立ちして見つめてくることもある。
わたしがごはんを食べてるあいだ、動物さんは回し車で走ってることが多い。時々止めて、ゆらゆらする回し車の底でベビーパンサーのポーズでこっちを見てることもある。このベビーパンサーのポーズがわたしのなかでは一番かわいいと思ってる。なんせ前足が小さい、かよわすぎて泣けてきそうなくらいかわいい前足。この手で走ったり、麦を持って齧ったりしてるのをみると「この子は…」と思ってしまう。
で、あんまり寄ると「餌かっ? 餌なのか?」とケージ前に集合(一匹だけど)してしまうので、そのままケージから遠回りして自室に篭り、腹がこなれるまで座椅子で本読んだりスマホでYoutube見たりして過ごす。
気づいたら9時とかになってるので布団に入る。
歯はどっかの時点で磨いてる。
iPhoneの寝ろみたいなやつが21:15にしてあるので、それになるとApple Watchの表示も寝ろみたいな感じになるので、まあそれで寝ていく。
最後に目薬をさして、電気消して、AirPodsで音楽(昔は森林ウェルビーイングみたいなやつだったけど今は音量の小さいぼざろ)を聴きながら寝る。
AirPodsは就寝中にだいたいとれて、朝起きると肩甲骨あたりに移動してる。肩甲骨にない場合は布団の端に落ちてるが、時々めちゃくちゃ見つからない日とかもあって、結構距離が出てる場合もある。毛布や掛け布団の折り目や隙間に入る、というのは意外とない。
起きるのがだいたい5時過ぎ。早いときは4時半とか。
疲れてれば疲れてるほどぐっすみんできる気はする。
起きたら布団の中からリビングの電気とテレビとエアコンをつけて、
「起きるっ」と思ったタイミングで満を持して俺がリビングに登場する。すると動物さんがケージ前に寄りつくから、ケージを開けてわしゃしゃしゃと撫で倒す。テレビは8チャン、カンテレ、フジテレビはめざましテレビである。
めざましテレビはもうずっと見てる。始まったときから見てる。めざましテレビの前にやってたわけわからん番組もオープニングだけ見てた。
めざましテレビで5:58のちいかわ占いでわたしの運勢を見て、6時過ぎに消す。
消し忘れるときもあるし、5:58を見逃した場合は6:58、それをみのがしたら7:58と臨機応変に対応する。昔は土曜日もつけてしまうこともあったが、今はつけない。土曜のめざましは8時半前ぐらいに占いやってるような気もするが、その時間には仕事に出てるから、土曜はめざましは見ない。
最近は昔ほどニュースに興味がなくなった。
もう少しトライブというのか、好きに生きるというのか、少し縮こまった生活圏や生活感覚で生きてもいいのかな?みたいな感覚を持ってきてるのでそういうふうに生きてる。ニュースが公共的なものを知る手掛かりという感覚ではなくなって、もっと入るとしたら身近なものから実際の体を使って入ったほうがまだ実になるというのはあって、ただ遠くの、今だとトルコの地震とかに寄付するとかいう意味での公共というのか、なんか興味の輪・関心の輪の話みたいな感じで、関心の輪はリストラというか再編して、興味の輪に自分を寄せていくことで自身の空洞化を防ぐというのか、まあ死ぬのは死ぬけどなんかうーん、「いい感じに」でもないけど、なんていうのかね、納得…、ちがうな。なーんかあれですよね、こう、やってきて、最後のほうで「ちがうなぁ〜(ちがったなぁ〜)」ってなって「お〜ぅ…」ってならないようにしたいっていうのか。後悔したくないわけじゃないけど、なんか最後のほうで「ちがうなぁ〜」ってなりたくないけど、かといってそうじゃない人をどうこうっていうのもやめたいみたいな。それはつまり関心だから、関心は、カイジで言えば鉄骨渡りのときにいちいち人のこと考えてるみたいな話だから、なんかそうじゃないふうに生きたいけど難しいって話をしてる。難しいというのは人と関わらないといけないからで、具体的にはわたしの場合視線の問題と絡んでいる。だから個人的には目をバトーみたいにしたいというのが本音で、バトー無理でもみうらじゅんみたいに生きれたらグラサンで隠せるのにとは思うけど、じゃあなぜそういうふうに生きれないのかといえばそういうふうに生きてないからであるという話になる。
話を鉄骨にもどすと、鉄骨も渡り終えてしまうと、その能力は一旦かき消えてしまい、またコミュニケーションの世界に戻ってくる。で、このコミュニケーションというのが曲者であり、殴って済む話ではない。
素直に生きたいと思ってやってることが一番素直じゃないみたいな逆説がしょっちゅう発生する。これはNOR(否定論理和)というのか、なんかそんな感じでそうなる気がする。
極端と中庸みたいな話なのかもしれないが、といって中庸よりはややはずれにあるような場所、中庸は息苦しい。そこからの移動手段、どうやって繊毛をなびかせて自分が一番心臓が苦しくない居場所へクラスタへと行くのか。
基本的には最近そればっかり考えていて、なのに動けない。
動き方、動かし方がわからない。
それで、Twitterみても、ヤフコメみても、なんか「ああ、こんなに動けない人たちがたくさんいるのか」と思って見てるところがあって、動くにはどうしたらいいんだろうということばかり思い詰めている。
「動けない」というのは、単純に足腰の話でもあるし、何を引き寄せるかの話でもあって、自分に合ったクラスタを見つけてそこで自分の能力を発揮するまで動き続けることができない社会ってなんなんだろうと考えたときに、これはなんか人が多すぎるのかもしれないとも思わなくもない。
人を減らせとも思わないし、というかもう日本の人口はくだり始めていて当分はくだり続け、高齢化率は2060年で日本の総人口の40%を占める、たしかそんなふうに書いてあった気がするし、ピークでは毎年170万人の人が死ぬ社会にもなると書かれていた気もするが、その中には自分もたぶん入ってるっちゃ入っているのである。

話は変わるがこの「人口減少社会のデザイン」2019年の本だが、シンギュラリティには懐疑的で、かつBIも懐疑的という話がされている。
確か、人間の発展の路線が3つぐらいあって、ひとつは人工光合成、ひとつは宇宙開拓、ひとつはシンギュラリティ。要は、今まで人間は新しいどこかを開拓してそこからエネルギーや資源を引っ張ってきて発展してきた。新しいフロンティアがどこにあるのかということで、光合成で引っ張ってくるのか、宇宙で引っ張ってくるのか、シンギュラリティで引っ張ってくるのかの話なのだが、著者はそのどれにも懐疑的で、理由は私の理解では「結局それって人間ひとりひとりの幸せとどう関係があるの?」みたいなことだった気がする。このへんはある意味東浩紀さんのゲンロン13の話とも少しかぶる気もしていて、人間がシンギュラリティでほわぁ〜っとサロンパスのCGみたな人が光に包まれて電子回路みたいなやつとほわぁ〜ってなって光っていくみたいなビジョンと個々人がよく生きることとは直接的にはなんの関わりもないというか、まあ何をやっても、どれだけ発展してももうそれ自体が直接人の幸せと関係するような地点はとうに過ぎて頭打ちになっている、みたいなグラフもあった気がする。
BIについては、おそらく人が減って人と人が接して色々する仕事が増える流れになり人手がまったく足りなくなるのでBI的なものは極めて限定的になるだろう、というふうにも書いてあった気がする。そこは「ああ、そうなのか」と思った。で、この著者的にはBIは限定的にして、若者(人生の早期)の支援を手厚くすることを書いていた。
でかける
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