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あさ。回し車で機嫌良く走ってるとこにどうしてもくしゃみが出てしまったりするとペットさんは慌てて飛び降りてこっちのほうを見つめる。
こちらもサーセンとか言いながらエン麦のひとつぶでもあげてしまう。
そのうちだんだんケージ入り口のステップで待つようになり、なんか「謝罪(エン麦)を要求する」みたいになってるなーと今朝思った。
ペットさんと暮らしてると習慣の原型というのか、あと謝罪の原型とか楽しいの原型とかのことを考えることがある。
あとたまに風の強い日に橋を渡ると同じ目線ぐらいのとこを鳩が羽ばたかずに翼を広げていぇーって感じでバランス保って浮いてる(飛んでる)ことがあって、そういうのも見てると「これが楽しいとかの原型なのでは?」と思ったりして、じゃあ楽しいってなんなのっていうか、まあ楽しいにもいろいろ方向性はあるだろうから一概にはいえないけど自分の能力と環境によっていぇーってなってる瞬間が楽しいとかなのかなーとは思う。だから会社での自己実現でいぇーってなってるとか、文章書いていぇーってなってるとか、走ってハイになってるとか、まあ人間もいろんなことを楽しんでいぇーってなれる。いぇーってなれる幅みたいなものは人のいぇーっぷりを見てそんなにいぇーなのかな…と思って試してみていぇーが感染して自分もいぇーになったり、いぇーにたどり着くまでが結構難儀なものだと裾野があんまりなくて入り口も見つけにくかったりそんないぇーもある。
わたしのいぇーはやっぱりこうやってほんととりとめなく書いてるときが最もいぇーです。そういや現代詩フォーラムにひろっちさんらしき人(ひろっちは生きてる名のアカウント)が詩を投稿してた。
なんかいいよね。ある場所を知ってて、そこに久しぶりに人が来てるのを気づくとか、こういうのも一種のいぇーかもしれない。せんないいぇーかもしれないが、いぇーは別に何もかも他者の利益と自らの実益に結び付かなきゃならんというわけでもない、そんなのだれも決めてない、いや決めてる人がいても少なくともわたしは守る気はなーい どりゃー いや今日から3月ですよ、どうしますかほんと
また服変えるのめんどくさい、春と秋はほんとぼざろの歌詞じゃないけど服どうすんだって一番迷う季節ですよ、なんか襟のところが迷うんですよ
襟が折れてるやつとボタンのやつは着たくないんですよ、スニーカーもいやなんですよ、すっぽり着れるシャツとスリッポンみたいなやつで年がら年中過ごしたい そして死んでいきたい
襟とボタンのない世界へいきたい…
結婚式も葬式もユニクロのクルーネックTシャツみたいなんで出席したい…
死ぬときも遺言でわしの死体はユニクロのクルーネックで…と指定して死にたい
昔故人の好きなものを棺桶に入れるというのをフックにドリフ的な人たちが死体役の人に生きたうなぎとかを投入していくコントがあったなぁ
それはそうと、おじいさんでも散歩してるおじいさんの服がいつも真新しいのが気になってて、なんか毎回出歩くたびに新品買ってるんじゃないかみたいなおじいさんを結構な頻度で見かける気がしていて、靴(スニーカー)なんか真っ白で、なんかこう、なんかこうすごいおじいさんになるともうええわみたいになるのかと思ったらおじいさんになってもそういうのを気にして毎回新品買うぐらい強迫観念に駆られて自意識に取り憑かれるのかと思ったら一生服のことからは解放されないような気がしておじいさんいったいそのへんどうなのですかと聞いてみたくなるけどバスから見てるし目的地に着くと大抵そんなこと忘れてるから毎回バスの中で「ああ、また新品みたいな服と靴のおじいさんがいる」と思いながら思ってる気はする
あと最近道端に家具が置かれるようになってきましたね
路傍の家具の綻びや
みんななんか決まったり去ったりするのかなと思ったりもします
人生てやっぱ時間が進んでいるのだなとおもいますひしひし

しごと
3/1あさ

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