0903

201→204
まだ市バスである。今日はボサボサではない。

なんか朝Twitter見てると論文には金かかるという漫画が出てきて論文界の構図が描かれてた。論文には査読があり、購読料があり、一流科学雑誌にはようさんお金がかかります。そして、オープンアクセスジャーナルなるものが立ち上がり、誰でも無料に論文が見れるようになったが、それの金を払うのは論文の執筆者自身(または所属する研究機関など)であり、書く人も、購読料のほうに載った論文をネットに無料でアップするとかもしてるらしい。
次に現れるのがハゲタカジャーナルで、怪しい論文をろくに査読もせずにかき集め、執筆者も怪しいジャーナルに載ったという実績を得るという仕組みが勃発し、まあそんなこんなで論文の世界は汲々だけどがんばっていきまっしょい、みたいな感じだった。

なんとなく、鹿島茂さんがシラスで話していたバルザックとジラルダンの話を思い返していた。ハゲタカジャーナルの説明のところで「がめる」という表現を見たときに、なんか思い出した。
ハゲタカジャーナルは、ネイチャーとかより安い掲載料でゆる査読論文を載せてくれるので、怪しい論文がいっぱい載ってて、それを実績として利用する輩もいるとのことだった。
なんか、そのへんのゆる論文をかき集めるところがジラルダン、がめる(がめられているのでは?)と出版の源流まで遡っていったのがバルザック、みたいな感じでたぶん重なったのだと思う。

あとは詩。詩の雑誌の査読ってなんだろうとか、あと詩の雑誌は全部ハゲタカジャーナルなのではないか。というか(詩の)同人誌って全部自分で払ってるし、詩集もほとんど自分で払ってるのである。

ですんで、反知性主義の側面からいえば(論文界の苦悩については)ざまあみろであり、お互いさまというか「やっとそこまできたか」みたいな気持ちもあるような気がする。

この最近の知をおしなべて引き摺り下ろそうとする雰囲気というか、そもそもがそんなものなかったという相対主義的な雰囲気には与したくないけれども、自分の中にそういう側面があることは常に意識しておきたい。
溜飲さげつつ
もやってもいたい。
自分の出自の方角からすれば圧倒的に溜飲をさげていればいいのだろうが、

論文から詩までのグラデーションと、掲載誌(ネイチャーから現代詩手帖)のグラデーション、書く人の意識やスタンスのグラデーション。
つまり、論文を書いている人は絶対にこれが意味があるというか役に立つというか、研究結果だと思って書いている。なんかそれは傲慢だなとおもう。
ちゃんと積んで進んでいく方向と、途中で人の一時の興味や関心を引く記事になる方向、人類?と人生に分かれる。
人生のスパンで考えた場合、ハゲタカだろうがネイチャーだろうが大差ない。人類というスパンで考えたとき、掛け捨て型だったハゲタカの記事は淘汰され、ネイチャーのが残るのだろうが、今の大半の人間にとってそんなことはどうでもいいっちゃどうでもいいのである。そこに金がかかるといわれても、知らんがなとしか言いようがない。そりゃこっちも詩に金かかるんだよという話になる。こういうときに相対主義とかお互い様にならずになんかお互い尊重しながらなんとかなるようにするために話術や信念や人間味みたいなものが重要になってくる気がする。
話術、信念、人間味
わたしからすりゃ霞である。腕の血管、みたいな、パーツ系である。
フェティシズムであーる
そういうのをもたない
ぶっきらぼうな人から見れば、躱してるだけに見えるけど、なんかそれで消える問題というものもあるのである。何もかもが構造的、物理的な障害に還元されるわけではない、そういうのをみるたび、日々臍を噛む。ありていにいって、むかつく。何もかも「本当に」解決しないと認められない爬虫類が笑顔でかわしてる哺乳類をみると「なんだそれ怒 そんなんでいいのか!」とキレそうになるが、その笑顔とか喋りみたいなものが持ってるパワーをみくびっているということになる。でもお互いが補完しているようにはみえず、明らかにこちらがしんどい思いをしている気がする。ドラマ「女子アナ。」の水野美紀とともさかりえを見てたときの感覚と近い。あとは悲しみよこんにちはとか、他にも色々小説でなんかこういう系の話は多い気がする。相手は何も考えてなくて自分だけが苦労してると思ったら相手の方が違う位相でちゃんと苦しんでることに気づく、みたいな話。
その意味でいえば、最初の論文の漫画はよくもまあぬけぬけと自分のことばっかり書いていられるよなあ、という言い方もできる。
で、そういうものに何万もいいねつけてどうするんだと。

ペットの動画でン十万いいねいったツイートに、うちの子はこんなんですと載っけてくる人が3いいねとかだとあらゆる意味で悲しい。
それでいいのかと思ってしまうけど、それでいいと思いながら生きていける強さがほしい。いや、生きてはいるんだけど。なんか生きていられない、生きるのがやってらんない(といって、酒を飲むわけでもない)なんかやるせないというのか、載り方、タイミングみたいなもので決まってくる世界(というか媒体)はいかがなものかと。
となると、査読が要る。
査読なしで、パッと見た人の直感で押したいいね(これが一応査読済みということになる、…査とは何か?読とは何か? 査読の対義語はパッと見ではないか?)の相乗効果で膨らんでいくSNSの世界。
構造上、起こせるところにはほぼ同じ構造で同じようなことが起こるし、人間はだいたい起こす。煙があればそこには人がいる。でも大抵、火を起こしてるのは「その人」じゃない。煙が火を起こしている。
煙が火を起こすのをやめさせる、すくなくともその構造に陥らないために、知がある。査読があり、それへの信頼がある。
どっかの猫はン万いいねでうちの子は3いいね
まあいいんだけど
なんか、耐えられない
いや、耐えるとかじゃない。生きてはいるんだけど、なんかおかしいなとは思う。むかつく? そうじゃない。不当だ! そうでもない。仕方がない。とは思いたくない。タイミング? それもある。
いいと思った人がいるんだから、それでいいじゃない。
それだけのことじゃない。
どうせすぐ忘れるんだから。見返すこともないんだから。
一年の終わりに「さぁて、今年一年いいねしたものを見返すか」ってならんから。そしてああ、この猫、この猫だけは勝たん、みたいにはならんのだから。
また次の猫動画のときに引用リツイートで「これですね」とかいう時にしか使わんのだから。
ビデオで撮った子供とか、旅行の写真とか、もう現像しないすべてのものは結局ないのと一緒なんだから。
毎年毎年同じようなことが歳月とともにトレンドに上がって振り回されて生きては死んで、死んでは生きて していくだけなんだから。
ありもしなかった世界を(開いた穴から)見て騒いでいるだけなんだから。
それでも




歌いたい…(CR浜崎あゆみ)




にしてもなぜワンピースは夜職の雰囲気があるのだろうか。なんか夜職のイメージがある。全員が裏設定では夜職で、ひどい生い立ちで、がんじがらめに働いているようなふうに勘ぐってしまう。なぜだろうか。ワンピースは夜職用の寅さんみたいなものなのだろうか。

それはそれとして、


奇面組の最終回かどっかで一瞬でもいいから輝きたいみたいなモノローグがあった気がする。作者の新沢基栄は高校か中学で相撲をとったときに腰をいわし、それ以来ずっと腰とたたかってきた。

わたしはあの最終回好き派だ。

まあとはいえ「輝く」とは何か?という話である。猫の奇行に遭遇するのが僥倖か、通過点、シャーマン、メディウム、翻訳者、そも、何でありたいか。
まあ、自分が居るということと、何かが自分を通して現れたということは、わけて考えたいよね、とは思う。そうすればもうちょっと落ち着いて生きれるような(ばーっと書いてきて)気がした。
そうなると、逆に混ぜてみたい、混ぜたほうがなんかいいような気がする、とも言える。それもあると思う。

◆最近あげてるもの(もちろん全部あげてるわけじゃない)

パパイヤの葉、乾燥キャベツ、乳酸菌のタブレット、ベジドロップ(日替わりでビーツ、キャロット、タンポポ/パセリ)、とうふキューブ、ひかりデグデグ、圧ペン(そういう加工法らしい)大麦、バミューダ(三晃の敷き牧草)、チモシー(コジマのロングマット)

一日にあげるもの

乾燥したパパイヤの葉を少しちぎってあげる(500円玉ぐらいのサイズ)
乾燥キャベツをひとかけ
ベジドロップを1粒(2日に1つ)
ひかりデグデグ8g
大麦4〜5粒(コミュニケーション用、人身登山用)
バミューダ(ひとつかみから少し減らしてケージ内に)
チモシー(ひとつかみ)
(ハウスのご褒美として)とうふキューブ2個

夜(18時すぎ)
ひかりデグデグ8g
大麦2〜3粒
(ハウスのご褒美として)とうふキューブ1個

だいたいこんな感じだと思う。
体重は朝に はかり、心配なときは夜も。

お水には時々乳酸菌(液体、一滴)を入れる。ビタミンの黄色い液体もあるが、量の調整がめちゃくちゃ難しいうえ、ペレットで賄えている雰囲気があるので今は入れていない。
入れているときは、コンビニのちっちゃいペットボトルに浄水器の水を入れて、そこに添加して、適度に希釈して冷やしておいて、毎日そこから給水器に移すという作業をしていたが、やめた

◆やめたもの
りんごの枝…なんとなく体に悪そうだったのでやめた。デグーは糖の代謝能力が低いとのことで、素人考えだが、りんごの枝の糖が怖いと思ってしまったため。
食べるからといっていっぱいあげてしまうとすぐに糖尿になってしまいそうで怖い。


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