0827

203→201
半分ぐらいまで齧ったベジドロップを部屋の角に置いてフローリングを両手でぴたぴたするエレン(仮)。最近は手首をつたって腕の途中までのぼってくるようになり、首の後ろを掻かせてもらえるようになった。機嫌がいいのかはよくわからない。ピロピロと形容される鳴き声はまだ発しない。鳴き声をあまり知らないのかもしれないなと思う。プー、と言ってるときは基本キレてる。時々ジジ、ジジ、と言ってるときもあるが、これはわからない。なんか回し車で走る→止まってジジ、ジジ→また走る、みたいなことがよくある。時々、日によっては部屋んぽのときにきゅ、きゅと言いながら小刻みに探索モードで床を歩いてるときもある。ぱっと見は機嫌よさそうで「♪」こんなイメージかと思うのだが、ちがうかもしれない。

そのまま残る奇跡みたいなやつが見たいと思ってると思った。
ランジャタイとか、うつのみや理とか、リットン調査団とか、AC部とか、そのままいって、それがテレビに映るのが好きだった。
2ちゃんねる公式ガイドの年譜を見てるとテレビで「2ちゃんねる」と言ったりスラングがテレビに出ると、鯖(サーバー)が落ちたり激重になったりしたことが出来事としてよく書かれていた。
この場合は「想像の共同体(勤労青年の教養文化史、ただしこの「俺たち」は自宅警備員も含まれるのだが…)」としての「俺たち(の使っている顔文字、スラング)」がそのままテレビに映ったり、テレビではしょられて誤解された状態で報道されてふざけんなよと思ったりしていたことと構造としてはよく似ている。
テレビという「蓋が開く」ところに「そのままで」いくことに、わたしは奇跡っぽいものを追い求めて感動したりする。
これは何もキワモノ?だけではない。
日曜の昼下がり、ふと、「えっ、浜ちゃん(みたいな人)がお笑いやってる?」と思ってその奇跡に感動し台所の途中で打ち震えたりしていることもある。
本来なら何らかの自由で弾かれたりして、いわゆる「地下芸人」的に過ごしているものの蓋が開いて、テレビ(「お茶の間、世間」の想像の共同体)に出てくることに対し、奇跡だと思ったり感動したりして、昔なら祭りになって鯖が落ちたりしていたのだ。
M-1でいえば準決勝と決勝の差のようなものに、明らかに「蓋」がある。見る人数の差、準決勝を見てた人たちが押し上げた、「俺たち」が推した彼らのなかに「そのまま」の人が入ってると、まるで奇跡のような気がしてくる。応援したくなる。
環境が追いついてきているし、わたしたちの加齢もある。昔に比べればガバガバの蓋ではある気がする。それでも厳然として蓋は残っていて、蓋が開いたとき、やはりわたしたちは「俺たち」に戻る。
翻って詩にはそもそも蓋もなければ世間もない。出るところがない。いつもそのままで、そのままかと思ったら着飾っていて、どうかと思う。
誰かが選び、GOサインを出したことに感動している。詩にはGOサインを出す人がいない。自分でGOサインを出して自分で出す。そこに蓋はない。蓋がないところにある感動や奇跡は自分で見つけなければならない。共同体を想定し得ないか、共同体を想定するためのルートの複雑化。
海原雄山がカレー対決で言ってた「スーラの点描画」みたいなかたちで想定する共同体?
自分の中の裏口(勝手口)からひとり抜けてひとりで出会う共同体。それは共同体なのか、という。わかりにくい。常に冷やされ続けながら想定しなければならない。
自分たちだけの知るところだったものが公の場に出る興奮。詩は公に出たところで「で?」となる。さらにそこでそこに「なんじゃこりゃ」と興奮して潜り込まなければならない。そしてそうしていられる時間(周期)は短い(わたしは短かった、本を読まない人はとくに、だとおもう)。
なんとなく、真ん中性に抗ってるものがそのまま公の場に出ると嬉しい気がする。
端っこにいると思った人の文章がカドがとれて真ん中性を獲得してしまっているものをみると、それだけでげんなりして読む気をなくす。叙情詩の惑星にはそういう文章が多い気がする。さみしいけどどうしようもない。ぶっちゃけ、フリーに生きて来て結局真ん中かよ、とは思う。
共同体というものはそうだろうがそうじゃなかろうがそういうもんなのかもしれない。
詩はどっちからこようが気にしない。端っこからこようが、真ん中からこようが知ったこっちゃない。詩はどこ発とか気にしない。生活か観念か、どっちでもいい。汚かろうが綺麗(きれ)かろうが、どうでもいい。
どこから来たのか、どうやってきたのか、ま じ で どうでもいい。
真ん中の話をするしかない絶望みたいなものをいつも抱えている。
ということは、それ以外を応援する機運はいつも高まってる。
それが詩に届かないのは、詩が端っこのとき真ん中のことを言うし、真ん中のときに端っこのことを言うからな気がする。別にそれでいい。
ただ困るのはときどき冒頭に挙げたものを応援するような態度で臨んでしまいそうになることがあるから。そういうときは引き返し、入り口から入り直す。
詩はおこぼれにあずかれない。


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