0725
あさ。192→191g。部屋んぽを終えたエレン(仮)は今日もとうふキューブをひとつもらい、回し車で爆走したあとハンモックですわりがよくなるまでもぞもぞして、今は寝言を言っている。
最近は歯ブラシであごのあたりをわしゃわしゃしてるが、まだ慣れていない。
暇と退屈の倫理学は環世界のところ。
わたしの提唱する「内なる奨励会制度」にも通じるものがある。
わたしの提唱するというか、勝手にひとりで言ってるだけというか、言ってもない。
つまり社会人として環世界を送ってたところに情報通信技術の発達によって発生した余暇により、再び「内なる奨励会制度」によって諦めていた文芸活動的なものの萌芽(環世界)を二足のわらじ的に送ることが可能になった。みたいな。
わたしは個人的にインターネット上の詩の散発的な個人の公開から、投稿サイトへ集う流れの中で、投稿サイト側の勃興にはなんかこうした物語を描いている。ある意味、それこそ「退屈」していたのかもしれない。
そこに、「自由」そうなものが見えた。そこに自分が内なる奨励会でいったん離脱した環世界を擬似的に再構築できそうな雰囲気があった。
みたいな。
内なる奨励会制度という環世界から抜け出せないのは、ある意味で、業というか、生活に戻れないという話である。環世界の移動がなんらかの理由によって阻害されているから、インターネットや文芸活動に執着する。
これは「信じているかぎり夢は終わらない」のCMソングにゾッとするような感じにも似てる。
ゾッとしたから就職したんだけど、という人が情報通信技術の発達によりつくった場所があったり、ゾッとしたけど就職できずにそのままゾッとするゾーンでやってる人がいたりする。それは環世界の移動の失敗とも言えるし、ごっこが本気になる過渡期であるし一生内なる奨励会に居座り続けるだけなのかもしれない。
ただ、気づいたら、ふとケージの扉が開いていたみたいに、内なる奨励会に戻れる門戸が空いていたからといって、安易に出て行って良いことがあるとも思わない。自分自身の現状把握が済んでからじゃないと、それ自体が罠である可能性であったり、自分自身が罠だとうっすら気づきながら外に出たことすら気づかなかったり、最後、収束していくときに後悔しそうなにおいがぷんぷんするから、それで残りの人生をその環世界のインデックスでいけるかどうかをよく考えないといけない。
なんかそんなことを考えていたかもしれない、しごと
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