0621

あさ。最近やっとチンニングマシン(懸垂器具)に掛けていた洗濯物をしまったので、懸垂と足を後ろに上げるのをやった。
床に落ちているのは剥いた本の包み紙。
ヤンソンの「日本および蝦夷図」1658年
「ヤンソン 日本地図」で検索すると

これがでてくる。
これに書かれている抽象的な山の模様を見ていて、なんだかRPGだなぁ…と、ドラクエみたいだなぁと思っていた。
すると、わたしたちは先に今のリアルな地図のほうを知っていて、この17世紀の地図の山をRPGみたいだなと思うのだが、RPGの山のほうが先で、そのあとに今のような、山のいらない逆に無機質でリアルな地図が出来上がってきたということになり、これは想像力の逆流というのか、リープフロッグの遡上版というのか、ファミコンゲームの「キテレツ大百科」に於いて、重力を反転するアイテムが存外簡単に入手できるため、安易に使用してキテレツ(木手英一)が空に落ちていくミスができるといったような運動。
技術の進歩の初期段階にあった簡易的な表現パターンがまた新たな表示領域を得ると再現されるといったものなのか、むしろこのような地図をイメージあるいは技術との折り合いをつけて、RPGの世界観が組み立てられていたのか。そして、そこをコントローラー持って、簡易的な世界を歩く「わたし」。ただ、その簡易的に思えた世界は17世紀の地図をもモチーフに作られたものだったのかもしれない。そう思えると、わたしはチープだとか簡単になにも言えなくなってしまえばいいのか、むしろ簡単にチープだったと言えばいいのか、これはこれで味があるとでもいえばいいのか、それとも、あのころは表現が追いついてなかったぶん、想像力が膨らんだなどといえばよいのだろうか?

つまり、そこでも、わたしのようなふつうの遊び手はそのような想像力や折り合いといった判断からは疎外されながら、はしゃいでいるしかない、といったような、考えてもしかたのないことを考えていた。

もともとこれ↑は書く予定じゃなかったのだ。

鈴木志郎康さんの詩集「やわらかい闇の夢」から「光」

今日はいいことを聞いた
光は反射物がなければ光らないというのだ
空間が光に満ちていても
反射物がなければ闇なのだ
従って
星空のその又彼方は暗黒に見えるが
実はそこは光に満ちた空間なのだ
なんだそんなことといってはいけない
私は我田引水する
この闇も光に満ちている
おお、反射物、あなた
あなたはいつ
傍に来て光の実在を証してくれるのですか

鈴木志郎康「光」やわらかい闇の夢 p72-p73 青土社

今の最新の科学がどうなのかは知らないが、この詩集にあって、やけに詩のような体裁のなかでもかなり詩のような感じである。詩ぃ度が高めの詩である。

効いていると思うのはやはり冒頭「今日はいいことを聞いた」だろう。
これがなくてもいきなり始められるはずなのだが、この感じ。
ドラえもんで、学校からの帰り道、家の塀を背景にして、ひとりでのび太が空中で両足を開いたまま静止してニコニコ顔で「今日は/いいことを/聞いた」とか言ってそうなシンプルな入り方だけど、こういうのがいいですね。
ラスト敬語になってますからね。
じゃあここで、唐突にマイケルブーブレのまだ見ぬyetを聞きましょうか。

やはりぽっさびりてぃが大事なのでしょうか。

「我田引水」もポイントが高いですね。「わたしの考えに引き寄せる」とかでもいいのに、お、ここで四字熟語いくか!っていうアツい展開ですね。
あえての四字熟語です。
やっぱりガーデン的な感じがいるのでしょうか
そもそもここ「私は我田引水する」がなくても、ちょっと飛ぶけど、なくてもいけなくもない気がするのですが、入るのです。要るんです。
「おお、反射物、あなた」
の一気に具現化していくというか捻転していくように人型になっていくところが感動を憶ええたときもありましたが、今はみえません…残念です
ここからのラスト二行、くるときもあるし、こないときもある
数年前読んだときはきたんですが
今はきません
つまり、エンパシーに留まっている、と言い換えてもいいかもしれません。
ちょっと違うかな?
いや、でも、うん、なんかちょっと距離ができてしまった。
marrishも消してしまった
一昨年?のM-1でウエストランドが言ってて、そんなアプリあるのか?と思って入れたんだけど、急に醒めた日に消しちゃった
だから、その前に読んだときは
とても私はせつなかった
重ねた

この詩もやはり連では別れていない。
これは、恐ろしく早い手刀を見逃さない人でもわかる。
だが、素人はたぶんこういう詩でも3つか4つに割るだろう。
割るということは、次のハードルを不用意に上げているのだと思う。大喜利の間のようなもので、次にすごいこと言いますよ
というのをなんとなくでやっちゃってるということなのだ
ひろゆき風に言えば「そんなに場面、変わってないですよね?」「それって、結局あなたの頭の中の話ですよね?」みたいな感じだ。
ようは自分の頭の中にあるそんなに離れてもいない想念を大層に行を開けて語るな、と。
詩がもし嫌われてるとしたらそういうところだろう。緊急車両のふりをしてしょっちゅう意味もなく走りすぎて、みんな狼少年みたいになってしまったのだ。これはおそらく大学とか人文学の凋落的なものとも繋がりそうな気もしなくもないけどここでは措く。
話がそれた
まあとにかく、そんなふうにじぶんでもったいつける様なのは、もったいないっちゃもったいないし、でも、それはそれでしかたがないのかもしれない
もう癖なのだから、しかし
「連、そこまで要るか」というのは本当によく考えてみるべきだとは思う。ほとんどの詩(ほとんどの詩?)は連なんか要らないだろう。
しらんけど

この頃はちょうど、叙情?となんかそのまま?みたいな詩のちょうどあいだぐらいの頃で、その不安定な感じがとても好きである。
この詩集も第二詩集のように4部に割れているが、その割れ方は方法論を後から作者が見て判断して切っていったようにおもわれるが、ここに観念ではなく人生上の生活に入り込んで隈なく詩を探した結果、そのまま人生上の別れや出会いも入り込んでくる構造になっている。
ざくっとみれば、1部はまだ前のカタチの詩を引きずっているというか、観念的、わたしは観念という言葉があまり意味がわからないのだが、自分なりに噛み砕くとしたら「言葉だけでどうにかなる感じ」のこと、というイメージである。だからこの時期の鈴木志郎康さんについてるキャッチコピー「観念からもっと遠くへ」というのは、さらに抽象度あげていきまっせー、という意味ではなく、むしろわたしたちの身近に、簡単にいえば無意識でやっていることに入り込んで、なんかこんなことやってるよな、みたいなところにまで入り込んでそれを書き起こしていくというところに進んでいく。
その1部だから、まだ抽象度が高いというか、誰というのでもない「男」がでてきて、ゴムの長ズボン(ゴム長)を穿けと命令されて履く詩とか、そういうのがあったりする。
2部は、わたしがひとりで通勤途上で思ったこととかが多い感じ。
3部で「マリ」という人が出てくる。
4部も「マリ」も出てくるけど、ちょっとおやすみなさい感がでてきて、夜に思うことが増えてくる。
だいたいぱっと見の流れはこう。感じ的には、4部はなんか深夜にテレビ見ちゃってる感がある。

個人的には、鈴木志郎康さんのこのころのやってること、つまりキャッチコピーを使えば「観念からもっと遠くへ」というのは一体どういうことなのか?と折にふれて、まあ仕事中に一瞬、ふと考えの流れがそこに行き着いて、一瞬考えに耽って、また仕事に戻って、というのを繰り返して自分なりに考えてきたのだが、
なんというか、結論からいえば「お風呂っていつあがるか」みたいなことを詩にしてみるみたいなことかなー、と。
あの、子供の頃の「10数えなさい」とか言われて数えたら上がっていいよ、とか言われていた頃ではなく、おとなになって、ひとりで風呂につかるようになって、好きにつかっていていい、そして特にもう今日は用事もない。
そういったとき、わたしは何をきっかけにして湯船から腰をあげているのか?ということをとにかく見つけまくって、ちゃんと詩になると判断したものだけを今まで培った技術で詩にしていっている、という感じなのだと思う。

だから、1部の「ぐにゃぐにゃ」には、まだ「床抜き」とか「爪剥ぎの五月」的な、謎の第三者からの強迫的なものが見られるが、2部あたりで、かなり本人と近似する「わたし」に変わられ、3部からはその「わたし」がマリと関わるようになり、4部ではマリも寝静まった頃に書いているようになる。違うかもしれないが、イメージとして私はこうおもってる。

で、個人的に好きなのは、2部と4部なのだ。1部の感じも嫌いじゃないし、3部も好きだけど、なんか今は「ひとり」の感じがする章が合う。

1部だと「疲れてしまう」もいい。

男と女の二人連れを見ていると
疲れてしまう
彼らは言葉を交わしている、尚も言葉を交わし続けるだろうと思う
彼らが抱き合っているところを思う
疲れてしまう
あの人たちが歩いて行ったり喋ったりするのを思う
疲れてしまう
あの人たちが気持ちを表したり理解したりするのを思う
疲れてしまう

鈴木志郎康「疲れてしまう」部分(冒頭から)p34

初めて読んだときは笑ってしまったが、笑い事じゃない。
いや、笑い事である。
今は素の顔でこの編集画面を見ている。

ここで重要?なのは、今まで執拗なリフレインというものをなんかキートン山田みたいな第三者に喋らせていたものを、自分のほうに転換させた、ということだ。
というか、前から、第三者に喋らせるように「男」に命令したりしていたのも、観念というか、結局は自分というか、そう安易に自分には還元できないが、まあ自分みたいなもんだった。

あと、単純に、最近なんかカップルの完成度が上がってきていて、昔ほど道端にいろんなカップルがいるようなことはなく、なんとなく「道を歩けるカップル」とそうではないカップルがいるのではないかという気がしてならない。
そして、そうではないカップルはモータリゼーションの発達によって「ワープ」し、アミューズメントな場所を点々としながら生きており、そのへんの道とというのは、すごく自己モニタリング能力のある者同士の披露の場と化していて、ソーシャル視力のすぐれないカップルや質実剛健の角刈りメガネ男と若い中国人女性のカップルは大きめのスーパーにいて、スーパーのような食料確保の場にはさまざまな人が集うが、それは家からの最短ルートで済ませ、なんとなく道を喋りながら歩く、というタイプのデートが可能なのは、かなりのソーキャピやハビトゥスを湛えた、親から溢れ出したハビトゥスを浴びるように浴びたカップル達の公開闊歩の場としてしか機能していない。
まあ、そういうカップルを見ると疲れるという話である。
まじで疲れる。
いや、そうではない。ここでは、もうカップルは目の糸から途切れており、もう文中の話者の脳の中で喋って「ああ、うん、そうね」とか言ったりしながら、結局抱き合ったりしてるところまで行って、
もうええ、もうええんやで
もう考えなさんな
という感じである。そら疲れるわ、といった感じである。
でも、確かにわたしもカップルを見ると疲れるのである。
「わぁ、よかったね」とはならない。
カップルはしんどい。
まだ調剤途中というのか、ちゃんと湧いているカップルならもうある程度無視できるのだが、まだギクシャクしてる感じというか、とりあえず服のレベルを揃えて外を歩いてみました、ぐらいのカップルが一番疲れてしまう。
だから、カップルは先に生活に疲れてくたびれ果てておいてくれたほうがこっちは疲れないという感じはする。
これがひとつふたつ前の詩集やったら、おまえら殺されてたで、という話である。

でも、さっきパラパラめくって、今、自分に一番しゅんだのは
これだった。

上衣のボタンを外して歩いている男に出合った
目に止った
印象もとどまらないままに
思いも浮ばないままに
考えも浮ばないままに
男をやり過してしまった
つまり、人とすれちがうということだった
考えるまでもなく
あの男は他人なのだ
だからやり過すだけなのだ

鈴木志郎康「やり過すだけ」p65 全文

これで全文である。つづかない。
あ、気になるかもしれないのが、送り仮名かもしれない。
「止った」「浮ばない」「過す」
これらは多分、多分だよ? 多分だけど、同人活動で活字を節約する文化に馴染んでいたからなのでは、と勝手に思ってるんだけど…どうですか?
誰にきいているのか、という話だが、なんか最近もしかしたら、高校ぐらいから同人活動して活字を節約し、またそういったものをたくさん読んできたからそういう習性が身についているのか、当時の国語の指導要領がそうだったのか、まあおおらかというか、そのへんは自由にしなよって時代だったのである。間違ってる!とかいちいちいうような話じゃなかったのだと思う
今の自由にしなよと自由にしなよの位置が雲みたいに変わってても不思議じゃない。



対人恐怖症のわたしは、このすれ違うというやつが非常に困難であり、ギクシャクして、つらく、生活や仕事に困難を抱え、あきらめたり、あるがままを受け入れたり(森田療法のサイトだけ読んだり、あとは去年から通い出したクリニックの先生も言ってくれる)、まあやってるんだけど、どうしても「考えるまでもなく」が難しい。
いや、ちがう。
「考えるまでもなく」失敗してしまうことや、その恐怖に体が予約されるというのか、先取りされてしまって、それが近づくか、そのようになりそうな曲がり角を見かけると、体がこわばってしまう。
そして、男より、女の方が怖い。
女との目線の交わし方に失敗すると、自分はまじで惨めなところに落とされてしまうと思っている。

だが、「考えるまでもなく」他人とすれ違えていた頃はもう戻ってこない。シャララララエビウォウウォウスティルシャインである。
魔女の宅急便のキキである。
ほうきにも乗れないし、いや乗ることはできるけど、飛べないし、猫も喋らないし、いや、もともと猫は喋らないけど、意思疎通ができないし、だから、つまり、普通になっちゃったというわけで、それでわたしは困っている。
どうすればいいのかと思っている。

ああ、この詩みたいに人とすれ違えたらなぁって思う。
でも、この詩にでてくる男は、ちょっとガラ悪そうではあるが、まあガラが悪い人より、女性である。
女性との離合困難、予期不安による回避行動によるフレイル、死…。

まじでそんなことで死ぬのか、と思われるだろうが、
徐々に死んでしまうのである。

というわけで、今回は鈴木志郎康さんの詩集「やわらかい闇の夢」についてふぁーんと解説しましたー



P.S.

今回の「やり過すだけ」がおもしろかった人は、「家の中の殺意」所収の「粟島行」もきっと良いでしょう。
粟島といえば、最近ではドローンによる食糧移動の実験などが行われているようですが…

岩船から
鉄鋼船に乗る
私は貧しい
粟島に行くともいえずに貧しい
岩壁で釣する人に
言葉を掛けるでもない
船の上でも
海は海で終った
海は広がっているともいえない
魚を獲るものでもない
見ているともいえない

鈴木志郎康「粟島行」p108(部分、冒頭から)『家の中の殺意』思潮社

くっら!
なんでこんなに暗いのかと。
気分が沈みすぎてなんか海が海で終っているが、まあ案外海が海だなーで終わることはある。
だがしかし、なんだか貧しい貧しい連呼してるから、かなり貧しくはあるのだろう。
とはいえ、船に乗って島へと渡れるぐらいにはお金があるのだろうし、
一応あとに「取材」と書かれてるから、貧しいの意味は金銭的なことではなく、自分の中になんか「貧困だなぁ…」っていう感じがあるのかなぁって思う。

で、あと読んでいくとわかるのだが、先のドローンの記事は香川県の粟島の取り組みでしたが、この詩の粟島は新潟県の粟島なので、とんだ粟島ちがいでした。すみません。

でも、先のドローンのニュースをネットで見つけて「あ、粟島行きを読まねば」と思い出したのも確かなのです。
もうそれも去年のことになりますか…

この「…ともいえない」で、何も見ていないし、何も感じていないような状態で粟島を過ごし倒すわけだが、時々ムカついてたりもするようで、基本的にはもうとにかく気乗りのしない旅をそのまま書いていくとこうなるのか…みたいな感じで読んでると深刻にみえるときとめっちゃおもろいってなるときの2パターンがあります。いやなんかこの書いてある人(話者?)からすると何笑ってんだって話なんですが、なんか面白い。徹底的に「見たともいえない」とか言い続けてるところが面白い。

そんなこんなで、唐突ですが、おわります。


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