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本心だから書き込まれたというよりは、書いてもよい本心だからこそ書かれたものと考えられる。

田中祐介[編]『日記文化から近代日本を問う』笠間書院 p66

とりあえずここまで読んだ。もうそろそろ返却しなきゃならないので、買うでせう。

4,800円(税別)。やばいでせう

これは日清戦争の頃小学生が書いた日記(日誌)に対する考察の一文だが、現在のネット上の文章にも響くものが多分にある気がする。この日記は教師の検印が押されていて、戦争ごっこをしたと書いたりすると、それを称揚するようなコメントが付けられたりして、少年が徐々に「書いてもよい本心」や国家観を内面化していく様子が書かれている。

翻って現在インターネットで何かものを書く時に、それとは知らず意識している「書いてもよい本心」、また、それらを称揚し、検印する「教師」は誰にあたるのだろう。

実名で書けないことは書くなとか家の前に貼り出せることしか書いてはいけない、というのは、禁止表現ではあるが実際は世間の忠告や戒めとして、あなたが損をするからやめておけ、という話であって原理でもなければ摂理でもない。「書いてはいけないことはないけれども、もしそれによって自分や他人が傷つく可能性があるのだから、おいそれと書くべきではない」弛緩し放恣に書くことを戒め、書くのならば覚悟を決めて書け、という話。これに対してわたしは反発をおぼえる。反発をおぼえるし、単純に困る。やっぱ書きたい。

「書いてもよい本心」を常に選定し、律するためにSNSでどういった言葉が炎上するかを常に観察し、身の回りの細々したことやとるにたらないことを細々と書くことによって自らを守る。
SNSのタイムラインには文字と同様、動画や画像も埋め込まれる。それらも文字と同様に情報(証拠)として複写され、俎上に上げられる。
専門家による能力がいかんなく発揮され、翻訳、考証、解析、時系列や文脈の整理などが分業で行われ、発信者である個人は窮地に追い込まれる。

まったく知らない人の、まだ見ぬ人の顔色を窺いながら書く、あるいは顔色に抵触しないように書く、そのへんを読めているかのように幾分スリリングに書く、いろんな書き方があるのだと思う。
最終的には自分が書きたいと思ったものが書けているのか。書けたかどうか。

じゃあ自分は排斥されるようなことを書くのかといえば、そういうわけでもない。排斥されるための本心を書くというのも本末転倒な話で、それは「堕ちたい」とか「楽になりたい」という願望と紙一重だろう。生活の維持に対する苦労、人間関係からの解放、息苦しさ、生きづらさへの対処のしかたがわからないからこそ、そのような「本心」を選択的に書こうとしてしまう意識。あるいは好奇心、淵を覗きたいという願望のあらわれ。落ちるかもしれない、という。


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