わいの平成詩史(だだ書き) 2

当時、親父がパソコン雑誌を買ってきてくれた。
「ぱそ」というパソコン初心者のための雑誌である。
記憶では、ターミネーター2のどこらへんにCGが使われてるかとか(T-1000の液体金属のシーンにPhotoshopが使われてるという言葉に興奮して、親父の会社のPhotoshopの雲フィルタ→クロムフィルタで必死こいて液体金属感を出そうとしていた記憶がある)まついなつきのパソコンもうかりまっかという漫画(初回は吉田戦車で、その後も朝倉世界一とかなんかそういう感じのラインナップでつづく)があり、おすすめのパソコンベストテンというのがあったりした。
確か、おすすめパソコンは当時NECのPC9821が1位だった気がする。あとはAppleからはColor Classic 2、富士通はFM-TOWNS、あとはエプソンとかコンパックとかそのへんのパソコンが入ってて、東芝はDynabookがカラーになるかならないかぐらいのあたりで、「これはワープロなのでは…?」みたいなやつもまだランクインしてる状況だった。

あとはMAC LIFEのバックナンバーとかその他のMac関連雑誌や、当時CanonがApple製品の販売代理店をしていたので、Canonが発行していたApple製品の最新情報やレポートが書かれた新聞状の冊子などを大量に持ち帰ってきて、それを見てることが多かった。
あとはMac fanとか、Mac Peopleとかいうのもあったかな。
MAC LIFEと、CanonのMac冊子にはHyperCard講座があって(Canonのやつはほんとにちょびっとだけど)、そこに書かれたプログラムを日曜日に親父の会社のMacで打ち込んでいじるのが楽しかった記憶がある。

こういった状況におかれると、人はMacintoshに憧れるものである。
ただ、親父はどっちかというと「俺はMacを持っているー 俺はMacを使っているー」で終わるタイプのどや顔系の人間であり、子供にもMacを使わせたいとかこいつもMacほしいだろうなという気持ちは基本的になかったのだと思う。あとデザイナーといっても(おそらくは)家計は厳しめだったので、買う金がなかったかもしれない。
今にして思えば、勉強しろとも言われなければ、生き方のロールモデル的なものはまったくなかった。なんかいた。
父も母もほとんど記憶にない。
母はわたしに水泳と英語をやらせた。たぶん「やりたい?」→「やりたい」と言ったのだと思うが、すぐに嫌になってタオルとパンツを鴨川で濡らして帰るようになるが、当時の水泳教室はガラス張りで親が見学できるようになっていたので「見に行ったけどいなかったけど」と言われ、詰んだ。
緑帽になってすぐぐらいにサボり始めたため、数週サボって水泳の世界に戻るとみんなもうコースの壁をクイックターンで蹴っていて、見た目的に「あ、もうこれはついていくの無理」ってなって、そこで水泳の道は挫折した。
英語もなんかだんだん無理になっていった。
英語とか水泳とか以前に、日々の緊張がやばかった。今にして思えば、この緊張のことを自分が訴えれて、且つ親がそういうのを個別具体的に対処していればもうちょっと違う感じだったかも、と思うことはあるけど、まあ40も過ぎたことだし、もういいかと思う。
もう親は、なにひとつ連絡をとらないまま実家を整地して、どこかへ行ってしまった。親からすればわたしは「とにかくわけのわからない迷惑な人間」だったことだろう。
シンプルに言えば、理解する素地と受け取る素地がお互いに双方向的になかった。ただ個人的な欲を言わせていただければ、年長のかたのほうにもう少し理解する素地(観察して個別具体的に接する素地)があってもよかったんじゃないかね? とは思う。いやでも、今にして思えば30そこそこの親にそれをわかってもらうのも無理だったのかもしれないから、むずかしいね

さておき、ここからどうやって詩の話にいくのかね?

そもそも、この話、平成とか関係なくなってきてね?

とはいえ、わたしの10代〜30代はほぼ平成なので、俺イコール平成。

そういう気持ちで書き進めていく。

2001年に日本WEB詩人会に入った。なぜ入ったのかは覚えていない。当時の日記をそのままコピペすると、こうである。

20010923
寒いなぁ~ さみしいなぁ~ 冷蔵庫のハンバーグは食べてええんかなぁ~ 腹へったなぁ~ さみしさのあまり 日本WEB詩人会という会にメールを送ってました。 か、会員。 き、緊張する・・・ぐは

わいの日記

全文である。当時の日記はもしかしたらネットで公開するかも、という前提で書かれており、かつ知り合いも読むかもしれないという前提で書かれているため、なんか日記というより、ひとりごちている性質が強い。

「さみしさのあまり」と書かれているが、わたしはそんなにさみしさを感じれる素地がないので、これは端的に嘘であろう。

焦燥に駆られてメールを送ったのだと思う。

日本WEB詩人会(以下ぽえ会)は確か「なんちゃって詩人でつくる」と冠されたように、まあ最初からある程度詩人というものを相対化したうえで、詩を核として自治を行いながらコミュニケーションをとるみたいな和やかな雰囲気のサイトであった。

わたしが入会希望のメールを送ったのもそういった全体的に和やかな雰囲気を感じ取ったのかもしれないし。サイト構成的に見た場合、ぽえ会はサイト上部にまず入会した人の名前を更新するようになっていたから、それを見て勢いを感じたのかもしれない。

この頃は記憶が前後していてなかなか整理が難しいのだが、当時は(今もあるのかもしれないが)芸術系サーチエンジンというのがあったり、Webringというシステムがあった。これはバナーを置くことによって、同じ趣向をもつサイト同士を数珠繋ぎするものであった。
サイト作成者が同好の志をもとめる場合、まずはサイトのコンテンツや総合的な雰囲気を見て、気が合いそうかどうかをみるわけである。
ここにはサイトの構造や構成、背景色などといったものも含まれるのだと思う。
ただ、それが欠けたり(リンクが切れたり)、ずっと工事中だからといっても、BBSだけはちゃんと機能(活動?)しているサイトなどもあったりするから、やはり総合的に判断するということになるのだろう。

WebRingというのは、飛び方の一種であると思う。
同好を探すためにコンテンツを見るためには、まずはどこかから入らなければならない。入るには、同好のサイトのリンク集から辿るのがもっともサジェストと偶然性が効いているのだとは思うが、それをもう少し機械的に、登録者全体をランダムに、前後に巡回するといった場合にWebRingを使用することになる。

わたしはWebRingをつかなかった記憶がある。ただ、リンクのページは作っていた。

20020114
初めて家に電気が通ったような気分。 相互リンクってこういう気分なんかぁ。うれしい。

わいの日記

相互リンクはしている。
ただ、うれしいという感情はわたしにはないので、ここに書かれてるのも嘘ということである。

かように当時から、わたしは関係性というものに非常に消極的だったから、非常に相互リンクするのにも、向こうから「しませんか」と言われるのを待つ人間だった。
当時、相互リンクしてもらっていたのは、詩群 呆夢頁(あってると思うが…)の中村トクシさんとNasty My Honeyの踏切つやこさんだけだったのではないか。
二人とも優しいかただった。つやこさんからは「わたしは自分が好きな人間だけど自分が嫌いな人がいることもわかります…」というような返事をもらった記憶がある。トクシさんからは日活ロマンポルノのポスターみたいな画像をもらった。

これはたまたまわたしの消極的なスタンスが、仲良くなることに懐疑的な人と時折なぜかニアミスすることがあるような感じ(惡の花の第二部のような?)によるものだと思う。わたしはずっとそれを頼りにして生きてきたようにおもう。

あとはmotokoとあげはのイブニング娘(いぶむす)があったり、なんかいろいろあった。

ぽえまがだったか、メールマガジンもやっていた。

あれは今にして思えばすごくDAOであったし、心理的安全性だった。

みんながぽえ会を核にして自律的に何かをやっていくのを見ているのがおもしろかった。


そーこーに、2002年4月のネット詩爆撃プロジェクトである。


(つづく)

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