0608

あさ。aot 2-6で検索して海外のリアクション動画ばかりみてる気がする。たがためいし(誰がために医師はいる/松本俊彦)はコーヒーカンタータあたりまで読んだ。なんか思ってたより連載を本にした感があって、その中で通底するテーマをタイトルにしたという感じなので、ちょっと手にとった時とはずれてるけど、これはこれでおもしろいみたいな感じで読んでる。
アルファロメオの話のときはちょっとどうしようかと思ったが
なんか小田原の人がいるので今度小田原城についてどう思うか聞いてみようかとか

最近みんなパンツ脱ぐのが流行ってるけど実は肌襦袢、みたいなことおっしゃってた気がするが

私は完璧に松本俊彦さんのことを嘘喰いの立会人だと思ってたので中高さぞかし荒れてたのだろうと思っていつ教師をボコすのかと思ったがついぞボコさなかった。
まあ立会人も必ずしもみな不良出身というわけではなく、いかにも不良で立会人になったのはきゃどくらぐらいであり、みんなそれぞれの理由でめちゃ強くなってるので、そんな理由でそんな強くなれるんだーみたいな、なんかドカベンでいえば殿馬ばっかりみたいな感じ。
嘘喰いの立会人の遍歴には殿馬感があって、王道で強くなってるような人間が少ないのでなんか嬉しかったりする。そういう意味では、松本さんは門倉ではなく殿馬だったということだろうか。
しかし、夜行さんもコーヒー淹れるの得意であり、服装的にもやはり夜行さんみがある。
松本さんには一度でいいから水餃子かなにかを指でつまんで「チャンスとはこれのことですか」と言ってみてほしい。

ここ数十年の「溶け方」、個人的にはこう呼んでいるが、昔、治療はもうすこし他力本願というか、クリニックでしゃべって薬を処方されて効果を確認してまた言葉でしゃべってフィードバックして薬を出して…っていうのを無謬に繰り返していた。
治療がまだ無下に信じられていたし、自分が他者との関係でどうこうみたいなほうはそっちのけで、薬理作用によって自分が体験する世界、薬によって音がしゃりしゃりするーとか、この薬は合うとか、わたしはサンカンケイのほうが合うみたいな話に終始し、他者との確執や軋轢、端的にいえば傷については素直にダメージとして受け止めていたし、逆にいえば全然雑な雰囲気が漂っていた。
そのぶん、他者というものも、今よりもっと別の意味で(SNSの正しさ的な意味ではなく、常識的、規範的な意味で)とりつくしまがなかったし、にべもなく、あたまごなしにぶちぎれていた。今でいうパワハラみたいなものによる、暴力的な「溶け方」があった。まあ、実は、ぜんぜんそれは溶けていなかったんだ、と。そもそも、人間がとけるわきゃないでしょ、エヴァーの見過ぎでは?と。いや、でも厳密にいえば人間は溶けるのかもしれない。でもたぶんそのとけるはおもてたんとちゃう、であろう
そうして今は、個室からSNSでの正しさによるとりつくしまのなさはあるが、それによって、即刻、直接的な暴力を受けるような場面は減った。
あるところにはあって、ないところにはないのだろうし
それってなんなんだろうね
言葉の傷か体の傷のどっちがどっちというのはここではさておく。というか比べる気がしない。
暴力性の濃厚は、遍く偏在している

わたしのおそれとは翻訳するとつまり
「わたしたちはこいつらの合法的な好奇心(やバイタリティ)によって蝕まれやしないか?」
ということ一点のみであり
これはホモソーシャルや暴力性というものにも通じる



今はそもそもしゃべって薬を出してもらう流れじたい意味わからんよね、しゃべって出る薬が当たるわけないじゃないかという前提がある。すくなくとも、私は二十年前よりはそう思うようになった。すべてはサジェストで、あとはそれ飲んで世の中や人とどう向かい対するか、その報告行為というか、会話自体に重きがあって、まあどっちかといえばクリニックに行く理由があるうちは10分ぐらい会話が確保されて、一ヶ月分の不安薬をもらう(抗ね)。
薬は行動変容の励みや障壁を下げるために使うものになって、そのフィードバックを語る空間がクリニックで、それ自体もある程度励みになるみたいな、まああくまで、わたし自身の身体への治療というのは、薬ではなく関係性との折り合いみたいなものにあるのであって、薬で頭をぼけーっとさせて乗り切るとか、薬を飲むと人間関係や仕事上の問題が一気にクリアできるというふうにはあんま考えなくなった。
そりゃそうだよねって話だが、二十年前は、薬で世界のほうが治るもんだと思ってた。やばすぎるかもしれないが、結構本気で、無意識に、そんなふうに考えてた気がする。
とはいえ昔は薬もクラスタを移動するためのツールのひとつだったのが、薬さえも全人格的なものに還元されてしまったら、人間は何を手立てに関係を移動(移行)していくのだろう。
年齢も仕事もクラスタに還元しない時代に、それしか手立てがない人に、適度な事故を発生させたり、クラスタを移動させるための内面的な勃発みたいなものさせたりするための手段、方法論みたいなものがあって然るべきで、自分自身、今そういうものを必要としていて、その一助として本を読んでる気がする。
別に、このたがためいしにそれが書いてあるわけではないけれども、覚醒剤が悪いのではなく、覚醒剤を使うような背景や事情というものがあって、一発打ったら依存性で人生が終わるみたいな今の教育は絶対におかしいという考え方には、さっき自分で書いた「溶け方」の話とも付合するし、すごく共感できる。
なんであれ、元を取り除かなければ覚醒剤は使っちゃうし、逆に周りが覚醒剤を使わなくてもいいような環境になれば、自然と使わなくなってしまうものであって、薬よりも環境、環境というのはほぼ現代社会においては人間関係というか、メンタルヘルスケアの教科書にもメンタルの原因第一位は人間関係が君臨し続けているし、まあ結局人間関係の皺寄せの帳尻あわせが個々人の薬物摂取に依っているという話である。普通(電車)の席にどっかと座るものがおれば、身をきゅっとすぼめて座るようにする人が出てきてしまうように、なんかそのへん想像力働かないかなとも思うけれども人間というのは醤油差しを真ん中に戻せない人もいて(そもそも真ん中に戻すっていうルールは誰が決めたんだい、わたしのことがきらいなのね)、もうそれ毎回言うの疲れたっていう人もいるので、結局バイタリティとフーガの問題になってきて、だったらフーガの世界をもっと楽しく生きようっていう発想でやれるようになってきてるはずなのに、なんかわたしにはそれが見えないどころか「暗渠」と表現し、あまつさえ仕事の手を抜いていつかそこに堕ちないだろうかと消極的で甘やかな期待をする始末。とはいえ怖いし一応職業人として手を抜くなんて…みたいなとこもあるので結局はがんばってしまうわけである。サードプレイスもくそもなく、わたしにはプレイスが一個もない。定年で消えるようなプレイスはプレイスじゃない。そういや昔から人の家ってすごい落ち着いたな。自分の家が一番落ち着かなかった。家の習慣はすごい面白いですよね。えー、食卓にマーガリン置きっぱなしですか、あの白い紙は取らないんですねーとか。常温で置くものの違いとか、シャ乱Qの8cmCDの中に猿岩石が入ってたりとか、ああ、いい加減だなぁとか思いながら、なんかすっげー落ち着く…と思いながら生きてた。
冷蔵庫に野菜ジュースとちびまるこがコラボしたマグネットが貼ってあって、友蔵が「わしゃ野菜が大好きじゃ」と言わされてるマグネットがてきとうに貼ってあって、その適当な位置と「わしゃ野菜が大好きじゃ」が相まって妙に笑えてくるとか、そういう
いい加減なところに行きたいっすね
自分もそういう無意識な「わしゃ野菜が大好きじゃ」的な家の習慣みたいなものを身につけて人の心の中で(うわーなにこれまじで?おもろーっっwっw)みたいに思われたい
というのは願望としてある。わたしは極端に秘密主義で、家を買ってやっと好きにものが置けるようになった。
40の手習い
40の涙
泣いてないけど
とはいえ20代から部屋のトーン、俺はこういうんだから、みたいな感じの部屋にはなっておらず、なんだか汁男優みたいな部屋になってる。別にエログッズがいっぱいあるとかではなく、なんか家具や装飾におもしろみがないというか、全ニトリでかつセンスがないというのか。身体的なヌボンバ感が足りないというのか、運動神経がないような雰囲気がある。安物でもいいから「君はこうしたいんだね?」と思われるような意思の表出した品物が見受けられない。安物のドリームキャッチャーを変なとこに立てかけてるとか、百均の置物でもいいから、こ う い う イ メ ー ジ !みたいな気持ちを置くようなことがない。
で死んだろかなとも思わなくもないが、もうここまできたら寿命で逝きたいとも思う。でもそこまで健康寿命がもつのかもわからない。人は怖くなる一方だが、クリニックではうまくいってますって言ってしまう時もある。
いや、人は怖くなる一方というか、笑うことが減って、人を見ることが減り、興味が減り、それのことを、ときどき「うまくいっている」と言うことがある、という感じだろうか。それってうまくいっているのだろうか。
つまり、もう少し総合的に、長期的なスパンでしゃべった場合、わたしは視線恐怖や社会不安を相談したいのではなく、人生において「つんでるっぽいんですけど」ということを相談し、じゃあこのへんにドーン!
ドーン!みたいなことである。
要は、外部リソース然とした、ワンストップな役割を求めているのだが、あくまで個人的な問題として押し留められている。
まあ個人的な問題なのだが、
それは個人が社会生活を送る上での問題ではなく、個人の人生における社会生活を送る上での問題であって、そこの「人生」とかいうやつ、ちょっとあとで職員室に来い。
人生の尺について、具体的な戦略を相談したい。
ぶっちゃけ、
なんかA3ぐらいの紙を置いて相対し
このへんで健康寿命がイッてまいそうなんですわーとか
このへんで女の人のお尻とか無意識で触ってしまわへんか不安なんですわーとか
でもローンがあるんですわーとか
目線でみんなからキモがられて居られへんくなりそうなんですわーとか
なんかそういう話をして
戦略的に人生の肯定的撤退戦を始めつつ、
なんかギリギリまで心の中で思い詰めながら
「…ああ、やっぱりきたか」みたいな門構えを見上げるような
なんかいかにも孤独〜みたいな
わかりきった結末〜みたいな世界線とはおさらばしたくて仕方がないのです。

で、できることならわたしだけ救われても仕方がないのであなたもどうですかって感じで生きてみたいんですけどね。これがなかなかむずかしい。啓蒙といえば啓蒙だし、嫁といえば嫁だし、友達といえば友達で、知人といえば知人である。

いったん区切る

ずっと書こうと思っててわすれててまた思い出したけど、昔、日本語なるほどなっとく塾みたいな番組をNHKか教育でやってて、確か司会としてアナウンサーの国谷裕子さん(だと思ってたけど、山根基世さんだったらしい)と詩人で小説家のねじめ正一さんが出てる回があって、たまたまみてて椎名林檎の弁解ドビュッシーとかの歌詞をねじめさんが「これすごい」みたいな感じでやってたのだが、確か、ブルーハーツの歌詞の紹介で「なんかの幼虫」というくだりに対し、ねじめさんがやっぱり「これすごい」みたいなことを言ってると、山根さんが「何がすごいんです?」みたいに食い下がってきてねじめさんが「いや、この、ここで「なんか」っていうのがすごいんですよ」と言うと山根さんが「いや、この「なんか」のどこがすごいんですか」ねじめ「いや、すごいんですよ、ここで「なんかの幼虫」ですよ」みたいな感じで軽く揉めるような押し問答みたいになって、変な空気になったのをおぼえている。
なんかここに詩人の弱点がみられる気がした。「ここでこうくるとは…(てんてんてん)」的な、同質性を頼りにした凄みとかインパクトって、人からすればなんら大したことがないのだ。「ここ」で「こう」「くる」「とは」というのは、この言葉の流れの中で、このような形で表現してきやがったな…ということである。
これは同じ業界か、あるいは同じ業界にいると思い込んでるアホな人の受け止め方のひとつのパターンである。
この場合は、完全に詩人の臨戦体制かつ身内の楽屋落ち状態であって「ででたー○○さんの○◯(必殺技名)やー(棒)」みたいな、そりゃ山根さんも「なんかの幼虫」って言っただけですごいんかい、みたいにツッコミたくもなるだろう。
ねじめさん的には「この流れで」「なんかの」って言える度胸的なものが逆にすごいみたいな気持ちでイケると思ったら、山根さんがちゃんと訊いてきたので、言語化する暇もなく「いやいやいやこれはすごいでしょ、ここで「なんか」ってなかなか言えるもんじゃないっすよ」みたいなことに終始して、全然なるほどでも塾でもなかったっていう、そんな記憶。

なんかテレビとしては健全だったなーと思う。あそこでなんかの幼虫を「ほ〜そうなんですね〜」で流してたらテレビまじでくそだなと思ってたかもしれないが、ああいう収録の番組で「なんかの幼虫、アツい」で納得できないから聞き返してごたつく感じまでちゃんと残してたのはよかったなと思う。ねじめさんは「騙されてた」とも言えるし、実際にあの流れで「なんかの幼虫」がくるのは、すごいことなのかもしれないけど、正解はない。そこが言葉の厄介なところで「ここ」で「こうくる」の、どっちも不動のものではないからで、それは受け手の居場所で常に変わってくるものであって、文脈は時代や個々の認識によっても変わる。当たり前の話だが、じゃあどうやってすごいとかすごくないとか言ってるのかって話になる。基準や母体のようなものがあって、そこからいかに突飛で裏をかいたり、思い付かない死角からの発想であるかといったことが「すごさ」になる。ねじめさんの基準やそのころにいた共同体?からの視点からすると「なんか」っていう漠然とした表現を使うのはまったく思い浮かばないような「すごい」表現だった。

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