どうやって生きていけばいいのか

あさ。昨日は頭の中で、藤井隆"ナンダカンダ"と、渡辺美里"マイレボリューション"が混ざって
「♪なんだかんだ叫んだって、やりたいーことやるべーきでーしたー タタータタータ/タッターン タタータタータ/タッターン〈完〉NHK 著作・権利 NHK」
「べきでした」からは"マイレボリューション"のメロディ。

繰り返し、頭の中で流れた。右折待ちのバスの車内で、見るとも言えない景色をみながら。

この「なんだかんだ叫んだってやりたいーことやるべーきでーしたータタータタータ/タッターン タタータタータ/タッターン」問題について。
どうするか。

吊り革を握りながら
(ああ、今日はなんだか、てつとちんこしか触らなかったな…)と
おもうことがあるます

ちゃんと思い起こせば、紙だって触ったし、布(化繊)だってプラッチックだって触ったのだろうし、そうなんだろうけどさ、今実際握ってる吊り革だってプラッチックだし…、でもダイヤモンドジュレちょ 病原菌、ちんこ、てつ、といった感じであり、やはりわたしは今日も結局病原菌とてつとちんこ以外なにも触ってない気がする。

じゃあ、なぜてつとちんこなのかというと、これはおそらく、ドアとちんこ、という意味なのだとおもう。

玄関あけたら二分でごはん、というかつて一世を風靡した謳い文句がありました。われわれは玄関をあけた瞬間から意識がトンでもうてるんやとおもう

で、総論として、帰りには「ああ、俺は玄関を出るときのドアノブ(鉄)とおしっこするときに確かに触ってるちんこしか触ってない」つまり生理的な、自分だと確実に言えるシーンをピックアップしていったとき、われわれには「てつとちんこ」という概念が勃発するというわけです

じゃあどうやって生きていけばいいのか。バスを降りておもむろにバス停の横の街路樹の樹皮を触って手ぇかいかい(かゆいかゆい)なったらいいのか?そうではあるまい。

自身が主体的に動き「生きて、るぅー⤴︎」というシーンを増やしていくことにほかなりません。生きるためにわざわざ樹皮を触るのではありません。夜中にコンビニの上のマンションを見上げて「ああ、この中にもたくさんの人々の人生が…」とか思うことでもありません。そういうのは無理やりです。

やっぱりやりたいことじゃないと、やりたいことで意識を飛ばさないとてつとちんこからは逃れられない。ズボンのファスナーのことを社会の窓とはうまくいったもので、あそこから出てくるのは社会以外であり、玄関のドアノブも治外法権から社会への侵入であり、抵抗があります。

VS社会なのかといえば、やっぱそうだとおもます。おもます。社会に勝つのはかなりむつかしいので、自分だけで満足するものを見つけるというのも何か閉じていていやぁんって感じがするので、できるだけ社会に馴染むかたちで自分がてつとちんこ以外にも「がっつり触った」といえるものを増やしていきたいものですね。あとは名詞でいくのではなく動詞でいくとか、形容詞でいくとかもあります。
たぶんてつは握ります。ちんこはつまみます。でかい人は握るかもしれませんけどぼくはつまみます。揉むっていうことはあんまり出社して帰宅するまでありませんけど、あるといいっすね。今日は握って揉んでつまんだなーと思えるか。あとは形容詞だと楽しいうれしいきれい。うれしはずかし朝帰りとかいうドリカムの歌もありましたね、そういうのです。

洗いざらしで男ものの長財布を手に巻くようにして持ってコンビニを闊歩する自信満々の女とかがいたとして「あー! お客様ー そういうのは3回ぐらいで飽きるのがよいです」と思ったりもしますね。

やっぱり人をみても「どう生きていけばいいのか」という問題は深刻です。それは3回ぐらいでやめておいたほうがいいと思うような「感じ」や「雰囲気」があるのも事実です。ですが私たちは渦中においてそれをやり続けてしまいがちなのも事実です。気づけばもう18年ぐらいやってたりして「ああ、もう小中高全部合わせてもこっち(仕事)のほうが長ぇな…」などと何度も思うことになります。折り返してみて、まじでこっちのほうが長ぇ、やべぇ、何がやばいのかわからんがとにかくやっべぇと思います。

いやほんとまじでどうやって生きていけばいいんでしょうかね。雨でいくらか緑が濃くみえます。ロードノイズが水を牽いています。雨季ってやつですかね、みなさまもご自愛を、とにかくご自愛、ワンモアご自愛、しごと

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