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あさ。日記の本を買った(この、図書館で借りて読みきれず買う習慣は本当にお財布によくない…)、また続きを読んでいる。あとは磯野真穂さんの「他者と生きる」という本も読んでる。

明治時代、子供が父親に日記を提出して寸評つけてもらったりしている。
日記に「蛇を殺した」と書いて「何故蛇を殺したのか?」と詰められ、今度は「子供が子雀を殺しかけていたので助けて家で水をあげたらけっこういい感じになった」みたいに書いてあって親父は「慈しむ心いいね」みたいに返す。
だんだん規範を内面化してるという話なのだが、原文は「家ニ帰リテトガラシ水ヲ…」と書かれており「雀を尖らすとは何か?」「トガラシとは?」と、とがらすの連用形?かなんかかとおもって調べてみても、これはどう考えても唐辛子水なのだろう。
んなもん飲ますかと思って唐辛子水で調べると鳥は辛味に鈍感であるみたいのが出てきて、まじか…気付け薬みたいなものだろうか…と思いながら読んだ。

あと「内藤半月堂に行った」と書くと「内藤半月堂に行った理由を書け」と詰められたりもしてて、ぼくがおもってる日記じゃない…なんで日記で詰められなきゃならんのかと思ってしまう。

ぼんやり読んでても、このままいくと、品行方正な方向に話を盛る方向に行くし、余計なことは書かないでおこうという流れにはなるだろう。
で、それはそのまま今のネットでの振る舞いにも繋がる気がする。

今こうやって書いてる行為にもこういうラリーはめちゃくちゃ入り込んでいるし、そのラリーのどこからを水位を下げて顕在化させるかという問題、そしてその水位の操作、つまりそもそもの問題として書きたいことが過不足なく書けているのかという話もあり、またそれを見つける目線(の訓練)の問題もある。

よほど意識しないことには、ここからは逃れられないし、逸れられないのだろうとは思う。文体、癖、助詞の使い間違い、文脈の捩れ等でまったく読まれない、お話にならないという意味での逸れ方はいくらでもするだろう。そういう逸し方を潔しとしない気持ちはないでもなくて、ただ、わたしは今生でそれをただせると思っていない。

最終的にはさっき言った書ける範囲の水位の調整も適正に行えず、また目線の特殊さも得られず、そのような書き方によって、自分の身を文章の身近におくことによって適宜補足するような合評的なコミュニティでないと、たぶん私は生きていけないし、読まれる、ということもないのだと思う。だから、本来であれば私は早々に書くなんてことは辞めたほうがよかったのである。

いまだにそこに戻れずにいるということ自体が、自分の弱さというか、人間不信に起因していて、ああもう時間か、しごと

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