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あさ。195g→192g。りんごの枝を齧るときの耳の立ち方がえぐい。あと丸い。とはいえちょっと元気なさげ。甘噛みはしてくれるが、弱含みというか、なんか哀悼の意を捧げる感がある。歯の入り方によってはまだサクッといきそうな気がして怖いと思ってしまうので、エレン(仮)的にもかわいそうな気もするが、こちらもびびりなのですまんみたいな感じの日々である。

暇と退屈の倫理学増補版?だが、人が定住するようになって人間がごみとかそうじをやるようになり1万年でいろいろありすぎだろになり、また、二十世紀にはフォード的なベルコン流れ作業や効率化や大量生産によって余暇さえ資本主義に組み込まれたが、昨今、少量多品種というかモデルチェンジの世の中で同じものをばかすか作って売る時代はとうに過ぎ、なぜかわからないがとにかく半年に1回ニューモデルを出してそろそろ買い換えるかみたいな感じになってるみたいな話だった。
フォードのところはラーススヴェンセンの働くことの哲学でも読んだ記憶があり、あと働くことの哲学にはイギリス産業革命で都市流入した人の生活の悲惨みたいなのも書いてあった気がするが、そのへんと暇と退屈はどうなってるのかなとはおもった。あとトマスクック、鉄道、ガイドブック、観光、ツーリズムなんかそのへん。もともと貴族のぼんぼんがSP的なものを引き連れて道中盗賊などにやられないように見聞を広げるために旅していたのが観光の起源みたいなのをどっかで読んだ気がするが、それも「品位あふれる閑暇」のひとつだったのかもしれない。
あとは製品はモデルチェンジし続けることが目的化してて消費者もチェンジの実質を問わない(よく見ていない)という話があって、それはあるいみ成果主義というか成長して変わり続けることを前提として人間に強いている現代にも当てはまる気がした。
いっぽうで人間はそんなに変わるもんじゃないといい、まあこれは他人を変えることはできないから自分を変えようという話なのでいいとして、そもそもが自分ですらそんな簡単にしょっちゅうモデルチェンジできるもんじゃないという話である。というか今わたしはもうモデルチェンジにうんざりしている。面従腹背でモデルチェンジしてるふりはしてるというか、牽制球がこない程度にりーりーいってるような状況で、盗塁する姿勢はみせてはいるものの、実際にとる気はまったくない心境です。
これはBI的なもの、わたしが個人的には荘園と荘園のあいだに降ってる雨って言ってるもの、つまり転職のあいだのつなぎ、つまり余暇、レスパイト、要は自分の方向を切り替えるためのよすがというか、離合困難な細い山道で車をわずかなスペースで何度もきりかえして方向転換するようなことを清貧や労働の義務や賛美が強いている。
労働は特に尊くなくてもよく、ただひとが方向転換したいときにできるだけの、すばやく切り返すためのじゅうぶんなスペースを与えるということを日本はとにかくやらない、というイメージがある。とにかく苦しめ、苦労しろ、狭いスペースでキコキコ切り返して方向転換しろ、という発想、スパイトしかできない。
鈍重ですり足でしか歩けないロボットのようなもので、右をちびちびすり足で動かし、次は左をちびちびずって歩かせ、そうやって日本は取り残されていく。なんかそんなイメージ。
個々人はそんなところから逃れたいと思いつつ表面上は合わせている。なので形骸化、空洞化が著しい。
そんなことをときどき思ってた気がする。

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