メモ 4/2

こないだ先週か
葉ね文庫に行った。前に行ったのが、日記の検索によると、2015年12月30日だったから、およそ8年ぶりぐらい
に行って、「小峰小松」という詩のフリーペーパーが奇跡的に一冊だけ残ってて、すごい嬉しかった。

前もそうだった気がするんだけど、毎回店主さん、後ろにある積読みたいなとこから奇跡的な一冊を出してくるのだが、「それって店主さんが時間あるとき読もうと思ってたやつではないのですか…?」と、毎回思いつつ、恐縮しながら買ったりいただいたりしてしまっている気がする。

探してた小峰小松が無料だったため、それだけで帰るのはあんまりなので、ぐるぐる回り、色々悩んで、最終的に買ったのは「ディオニソスの居場所」という詩集だった。
この作者が書いている、共同詩集のような「過剰」というのもあって、そちらも悩んだ(昔、三月書房(名前あってるか?)にも置いてあって、そのときも悩んでいた)のだが、結局この作者のみの詩集を買った。

この詩集の最後に、「この街の今世紀」という詩が入ってたのが、決めてのひとつだったかもしれない。
これは文学極道に数年前投稿されてて、そのときもいいなぁと思った詩で、なんというか、目線というか、視点の浮遊感(わたし的にはモーレツア太郎の親父みたいな俯瞰視点)が時制に対してもかかっていて、その感じとふざけてるのかまじなのかよくわかんない感じがまたよく、短さもよく、あとなんか、「」つきの文章には句読点が入るのに、それ以外の行は、ダッシュで始まるタイプの文と、
。のつかない文しかなく、
なんかそのへんの使い分けとか、「」内の文章の、妙な笑わせにくるような変な台詞回しもよくって、言ってることじたいはちょっと怖いのだが、実際の怖さとはまたちょっと違うタイプの怖さの感じなので、なんかそのへんの塩梅とかキレがちょうどよくって、なんか読んでて飽きがこない感じになってる。
ついでにいうと私が文学極道で好きだったのが「この街の今世紀」と玄こうさんという人が書いてた「かの花の…真っ赤なダリア…」みたいな感じの短い詩だった。玄こうさんの詩はよくわかんないんだけどそのよくわかんないなりに芯を外さないようなところがあって、なんかすごいなぁと思いながらみてた気がする。
「この街の今世紀」に話をもどすと、
とにかく出てくるものは城と植物(樹々とか茂み)おれと男女と薬研堀という地名と「ケズリ獲ってきただろうお前の体」とか、それが透けて見えるとかである。
あとは年代と季節。装飾物でいえば、句読点のありなし、また、カギカッコのあるなし、ダッシュのありなし。
そういう点でいえば、この詩はダッシュ始まりの年代→季節→謎の口上→謎の一行→謎の「」(句読点がついてくる)→また年代→季節→謎の口上→謎の一行→謎の「」(句読点がついてくる)→句読点のない一行

で終了する構成になっていて、
あとは、茂みにいる男女のうちの片方をおれだとか言ってるのでそのへんで何かいかがわしい感じがしてるのだが、そのあとにまた変な「」つきの呪いの言葉みたいなやつが出てきて、それもなんか文章として矛盾してるような
である。
その前のやつも、なんか変な薬を飲んだ人が言いそうな「」付きの台詞で、ふつうはぜんぶ逆のことを言いそうなことを、違和感なく逆説的に喋ってるようなところがおもしろくって、毎回「こんなのよく出てくるなぁ」と感心したくなる変な台詞であり、キレもある。

で、結局この詩はなんなのかというと
感じ的には「おれ」が意識というか、見当識的なものを取り戻すまでの一瞬(一瞬とは言ってない)みたいなやつなのかなー、などと思う。

また、
「おれ」というのは若干たましい感がある言葉な気がする。
ぼくっぽい人でも、たましいのときぐらいは自分のことを「おれ」って言う気がする。そんな感じ。
そういう感じのおれみを感じる。岡田隆彦とかの「おれ」も、そういう系の、セックスしながら祖霊と通じ合ってしまってるぜー「おれ」みたいな、でも、それよりかは幾分、年代分、醒めたような「おれ」感があったりしていて、でもそれも、本の世界のお約束っぽくて、チューニングが合えばそう読めるという、あくまで本とか言葉の世界で縷々伝わってきたぼんやりしたルール感としての「おれ」であるようにも思う。
そしてまた
おれというのはなんか若干輪郭を抜く効果があるような、ないような気がする。

そういうかんじの「おれ」が、1999〜2016年、一瞬15年かと思ったけど、ちゃんと計算したら17年かもしれない。で、それぐらいの時間差で出てきて、2016年は茂みでなんかやっとんなーって感じはする。ちちくりあってるのかまじでやってるかはしらん
ただ、でも、その直後になんか変な「」の台詞で呪いの言葉(サザエさんとか出てくるし、矛盾してるような感じの文章なので、そんなにこわくない)みたいな台詞が一発ぶちかまされて、最後に一行ある、そういう詩である。

実感というものについて考える。
この言葉はガチであると信じるに足るにはどうすればいいかとか。
要は、わたしたちはどんなときであっても、
読む前にいくらかチューンナップしてしまっているから、
チューンナップしてない状態で読んでみたいならば、枕元に本を適当に散らしておいて、起き抜けに読むのがよい気がする。
詩集の積読。まあスマホで起き抜けに投稿サイトから適当に読んでみるとかでもいい、そうするととてもしゅむときがある。

あるいはまた、深夜にのぞいてみたとき、一瞬、自分がとちくるって書いてしまったのかと、脳幹から冷たい水が急速に全身に染み渡るような、「おれ、やっちまった?」と焦りたくなるぐらい、自分そっくりなことを、自分そっくりな文体(とはいえ、数年前の自分っぽい)で書く人がいたりする。
ああいうのはびびるのでやめてほしいと思う。ああいうのはなぜ起こるのだろうか。
そういう意味で一番いいのは、読んでるあいだに自然とそういうふうにチューンナップされていくというか、アフォーダンスされてく というか、サービス精神のある詩 であるという気はするが、そもそものサービス精神自体が仇になっていて、ハンバーガーが好きだと公言してる子(そんな子がいるのか知らないが)にキンメの煮付けばかり食べさせようとしてくる人とかになってはいないか、せめて煮込みハンバーグにするとか、そういう感じで寄せていく心も必要な気もする。
煮付けばかり食べさせようとしている時点で「腹が膨れるのは一緒だろ!」と、味わうことの楽しみの根幹や、個々の嗜好への想像力を放棄している野蛮人さんである。
でもなんか書かれ方で入り方もわかる詩というか、読んでるうちに変だなってなってそれがそのままそういうことだと思えるような詩を、まず「読めない」と思ってしまう人にとっては、
いくら詩を自然なかたちにチューンナップしてもリーチしないような気はしていて、むしろ「自然」とか「そのまま」にすればするほど読む気が起きないというふうにもなりかねない。そしてそういう作品ほど、本や細々した約束事の歴史を辿ってきたり、遡って渉猟してきた人たちだけのものになりがちではあるような気がする。
「全然それでよい。むしろガンガンそれを続けるのだ…」って世界があってもいい。そういう世界がなくなってさみしいと思うのもいい。入り口なんかあってないようなもので、人がどこでぐわっ(刮目)となるかどうかなんて誰にもわからない。わたしは結局入り口からちゃんと入れなかった半端者として死ぬんだろうなとは思う。



だから逆に俺より本読んできた人間が貧乏に働いて生活してるのはあまり気分のよいものではない。サラリーマンのほとんどは文学者に対し「もっと俺を楽しませろ」と思っている。何をちょっと本に近いところとかアカデミックの周縁で安月給で働いているのかとおもってしまう。苦しんでるのをみてもとくに「ざまあ」とは思わない。もっとその詳しさを発信して、作品出せとは思う。でも歳とってくると、人間というのは、意外とそこまでいけないものなのだというのも身に染みてわかる。
だから朗らかにいろいろ享受できる性質になりたかったな、とは思う。マジュニア(現ピッコロ)と善戦するクリリンを見て「すげー」を連呼する悟空みたいな、ああいう感じのをみると昔からムカついていた。私が悟空なら「けど結局俺の方が強いねんけどな」って言う。ミスターポポのところで「わーい嬉しいなー俺より強いやつがいるなんてー」とかいってこびへつらって勝手に神殿でトレーニングし始めて神様おびきだすシーンなんか吐き気がする。
とは思う。
ムカつくと色々思い出してくる。



といっても今、詩に仰々しさとか権威や高貴な雰囲気などを求めてる人もいないだろうし、探してて出会ったならそれでもいいけど、街でばったり会えるような詩は、もうそれ自体がブランド化し始めてる場合に限るだろうとも思うから、ナチュラルに素朴なものに出会うのもなかなかハードル高い気がするのだが、なんかこの詩(この街の今世紀)はそういうのを乗り越えれそうな感じがする。



成年漫画の単行本は、後ろにいくほど初期に描いた漫画を載せてることが多い。後ろにいくほど、なんか路線バスで寝ててバスに閉じ込められた男女が…とか、夜の教室に忘れ物をとりにきた男女が…みたいな話が、その作者の初期の描線で描かれることが多い。
なんかそれと近しいものを感じたというか、今は完全にオートパイロット状態で、てきとうに書いている。
全然↑のようなことは感じていないけど、なんか書いてしまった。

この詩集にはあとがきがなく、この詩をもって詩集は終わりをむかえている。


(ここまでが4/2)


9/26
noteの下書きを見ていて、冒頭の「葉ね文庫」という言葉に引っかかって、そこから何か、ぼんやりと思っていた。
こないだ文学フリマの大阪に行って、ちょっとだけ戦利品を買った。
葉ね文庫って言葉というか店を教えてくれたのがその人だった。

それでその年の年末に行ってみたのだった。
夜で、路上にはサンタクロースのかっこうをしたひとが、太極拳みたいにゆっくり動いていて、この街は大丈夫なのか、と思った。
通りに入る手前に一本街路樹の植わっている、ゆるく三角になってるかなっていないかぐらいの緑地帯があって、そこにも豆電球の電飾が散らされて光っていたきがする。

文学フリマでふわっと知ってる人に会えるターンも過ぎた。いつも半分はずしていく気持ちで、でも奇遇みたいな。

小峰小松も終刊してしまったらしい(Twitterでぼんやりそう見かけた気がする)

なぜ小峰小松の8号だったかといえば、鈴木志郎康さんについて書かれてる文章が載ってるという風の噂を聞いたからで、それでわたしはペーパーだと思わず、500〜1000円ぐらいの価格帯のZINEとか小冊子だと思ってもとめにいったらば、じつはそれは無料配布の詩の、フリーペーパー? 雑誌?
なんていうのか、適切な媒体名が思い浮かばないが、その最後の一冊を8年前の感じと変わらず、積読の中から出していただき、いやもうまだ読むんじゃないんですかと思いつつ、私もこの機を逃したら二度と読めないと思って感謝していただいて、いやもうほんとすみませんといった感じで、8年前は何買ったんだろうと思い出そうとすると、あのときはなんかテンションあがっていて荒川洋治の全詩集を買った記憶がある。他にも買ったのかな

今は小田久郎の戦後詩壇詩史とドストエフスキーの地下室の記録(亀山郁夫訳)を読んでいる。
地下室…は、東浩紀「訂正可能性の哲学」の流れから、ここで読むしかないと思って読み始めた。たぶんここで読まないと「なんで今ドストエ」みたいな自意識に押しつぶされて、一生読まないような気がしたから。
戦後詩壇…のほうは、その少し前から積読にあったのだが、なんか今読もうかなという気がした。
そういや最近「インフォメーション」のほうは手が止まっている。

また話は戻るが、そもそもこの「ディオニソスの居場所」の人は、文学極道のコメ欄でMonkさんの話をしてて、文脈的にというか、時系列的には、私が田中修子さんのとこのBBSでMonkさんの紹介をしてちょっとあとぐらいだったから、それでなんか気になっていたのもあった。
わたしが田中さんのとこに書いてて、現実的なリアクションとして確認できたのが、それしかなかった。

それで、最近またこの人の新しい詩集の「あっというまに虹」
いや
もとい、attoiumani_niziだったか、Twitterのアカウント名か何かをそのまま詩集名にして、詩文もそういうところから拾い集めているのかな、っていう感じの
そのままの発露のようなもの、
これは、最近わたしがフォローしてる人に多い傾向というのか、もう詩を意識的に(方法論として)作り上げるのではなく、生きる過程としてできるだけそのまま、持ってしまった技術と、暮らしの酩酊のようなもの、滑った筆の跡を極力うまく残して白く残していくような、そういう形の詩集が増えていっているような気がしてて、まあそれもいいのかもと思いつつ、
また私はそういうのとも違うことも思い知らされていく。

なにかをとりにいく詩集という感じではなく、自分にとって大事だから出すという感じ、できればそれもあるかないか、なににとって大事なのかいちおう指定しないと行動ができないから名義人として自分を置いてはいるけれども、本当は自分にとって大事だから、ということでもないような、「この節」というか、「ここで」という感じの切り目というか、続き目というか、ほゃ〜んとやっていく、ゆるやかにカーブがつづいているというか、そういう気持ちのところには自分は憧れても入ってはいけない。

現代詩フォーラムではYoutube配信スレが時々上がっていて、先週末そういやあったのかと思いつつ、ログというか配信動画を見ようとはなかなか思えず。時間がない。

清水亮さんのnoteで、アイデアには価値がないというのがあった。MVPで回すのがいいと書いてあった。MVPてなんやねんと検索してみるとミニマルプロダクト回しみたいな意味で、最低限の機能でやってよかったらスケールするみたいなビジネスで手数を多くして成功するみたいなやつだった。施行回数?試行回数?よくわからないけど、たくさん回転させるとどれかは当たるみたいな。また、会社と顧客の関係というか、境界というか膜がぼやけていくような話だなと思った。

これを自分のやりたいことに当てはめるとどうなるか。
なんか詩や文章をまとめて小冊子にしてBOOTHとかに置くこととかである。で、受注生産の印刷屋(印刷工場?)みたいなとこに委託するとかである。

なぜそれをやらないかである
それはまず第一にまとめれないからである。まとめて一冊にするみたいなノウハウがないである。
まず。やってみよう。みたいなやつが不足している。
詩をすごく崇高にとらえおずおずと書き始める人の年配の方の感じと、私の小冊子ひとつ作れないおずおず感はちょっとだけ似ている気がする。
神聖でおかすべからずな感じである。
本ってななー、そんなかんたんにぽんぽんつくっちゃ、本ってななー
みたいな感じで、KEEP OUTのテープのように
まるで禁止事項であるかのように
私の中で、本ってななー(本ってのはなぁ)が強い呪縛になっている。でも、古書店の目録とか見たり、実際に鈴木志郎康さんと高野民雄さんが高校時代にやってた青鰐という同人誌を見ても、内容はともかく(私がこの二人よりいいものが書けるとは思えない)体裁に関しては別に(センス云々抜きにすれば)やってやれないことはないような気もするのに、
それでもやれない気しかしない。それなのに、InDesignを年額購入してみたりして、一年ほぼ使わなくて、また更新の時期がきて、もうやめよかなと思ったけどちょっと割引される表示がでてきて、結局更新して、まだ使ってない。

PagesとかCanvaとかでも十分だったのでは、最悪メモアプリからの直接印刷でも全然。あとそこにiPadで書いた簡単な表紙絵でもつければ上々だったのでは… いやこだわらなければ文字だけでもいいのだ… なにをこだわるのか

文フリの見本誌コーナーで毎回思う。こういうのでもいいのか。そう思い質感や紙の端から活字までの距離とか、奥付けとか、色々見て、できる、できると暗示をかけても、家に帰るとやっぱり無理である。
まずは自分の書いたものを拾い集めて、読み返して、ちょうどいい具合にして、紙に綴じたりして、、、
まずどこから手をつければいいのかがさっぱりである。

毎年抱負にあがっていて、毎年叶わないのがこれのようにも思う。

(9/26 読み直したり追記)

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