わいの平成詩史(だだ書き) 4

なかなか詩の話に辿り着かないことが、いかにわたしが詩と関わってないかを証明してるような気がしてきた。

いつも詩との関わりについて考えたとき、詩というのはまず周期のものであって、近いときと遠いときがある。しらけるときもあればしゅむときもある。そういうもんである。
ただ、クラスタとして詩のところにずっと居る、という生き方もあるのだと思う。
けれども、わたしはそうではなかった。
ざっくり言えば、子供のころはコロコロコミックを読んでいて、思春期には芸人のリットン調査団に憧れていて、そのあとに少しだけ詩に惹かれた。
だからわたしの素地にはコロコロコミック的なところとリットン調査団的なところがあるような気がする。

関西のMBSという放送局で毎年年末にオールザッツ漫才という番組が5時間ぐらいぶっ通しでやっている。内容は吉本芸人の無礼講なネタ見せ番組で、ここからブレークしていった芸人や、ネタ、キャラは色々ある。

リットン調査団は90年代後半(もしかしたら前半からかも)〜2000年代初頭のオールザッツ漫才でコントを披露していた。というか、テレビでリットンを見ようと思ったら基本的にはオールザッツで見るしかなかった。

リットンさんのコントの魅力。というか、個人的にすごいと思ったところ。

記憶違いがあれば申し訳ないが、水野扮する少年が藤原扮する親父に「出ていけ!」と家を追い出される。すると水野少年は家を出てすぐ軒先の燕の巣に居候する。雛に「すいません」とか言いながら。そして、燕の巣で「僕もお腹空いたよぅ〜」とか言ってると、親燕になった藤原が巣に帰ってきて「えぇ? おい!お前人間じゃないか!」と驚いてからキレる。

なんか、こんなシーンだったかと思うんだけど、燕の巣に人間がそのままのサイズで入っていて、親燕が巣に帰還して、ヒナに餌を渡す段になるまでまったく気がつかないという場面で、なんかコントの筋がどうこう以前に、論理的に破綻している感じだった。
それを、二人が、その時になるまで、まったく気がつかないところが面白いのだと思う。練習して「ここおかしくないか」と削ったり、整えたりせずに、本番で動揺したり違和感をおぼえながら話を続けていく二人に、「これや!」と思わずにはいられなかった。

また、別の年にはちょんまげ先生というのをやっていたが、ちょんまげ先生がコントの冒頭で吹いている見えないトランペットが、コント終盤に佐渡の金山で花魁姿で座敷牢に入れられていたちょんまげ先生が手に入れたトランペットに毒が塗られていた、という伏線になっているという、全然なんの伏線かわからない伏線が張られていたりもした。

また、別の年にはヤングの歌という歌を歌って、コントに入ったが、コントの後時間が余ったのでヤングの歌リプライズという歌をさらに歌うということをやってのけていた。
そもそもお笑い番組で、こういった、他者に向けたわけのわからないアツい思いのようなものを歌にして歌うということ自体が、他の芸人ではあり得ない話なので、これには非常に心を打たれた。

これらを総合すると、リットンさんは整合性を気にしないし、話を削ったり整えたりしない。そのままやりたいことをやる。リットンさんは誰も気づかない設定や伏線をめちゃくちゃ張る。リットンさんはお笑いのネタと関係なく、他者に向けて熱い思いを歌うことがある。
全体的に、若さとか青春に対して肯定的な雰囲気がある。
ネタは非常にうちに閉じているように見えるのに、おそらく気持ち的にはまったくうちに閉じていないようなところが、他の芸人にはない特質なのだと思う。
そりゃ好きなことやってるうちに閉じているような芸風の芸人でも、ネタが終われば礼儀というか親しみがあったりして、人に好かれたりなんだりしてうまくやっていく、というふうに外部と接するのだが、リットンさんは真逆で、ネタで外部と接しようとする。外部に訴えかける。ネタとして閉じようとしない。
そしてネタが終わったあと、他の芸人がうまくやっているであろう「外部」のほうを失敗し続けている。

これは拘りなのだろうと思う。

リットン軍団と呼ばれてる芸人もネタはきれいに閉じているし、外部に訴えかけようとはしない。ネタが終わったあとの外部とはふつうに接している。

たぶん、わたしが詩に求めているものというのは、なんかこういうもの(どういうもの!?)なのだと思う。
つまり、そこらへんにある詩のように、うまく閉じてあって、それだけでうまく再生できたり、うまく外部のコードを取り入れたりして機能したりするようなものを持たず、それなのに外部には何かを訴えようとしていて、かつ失敗し続けている。
破綻していて、整合性がなく、誰も気づかない伏線を張りまくる。そして、好きに書いている。

もっと簡単にいえば、他者性は意識しているのに、自己の中からそれを見つけ出すようなことをまったくしないし、わかりやすくするために削るとか、整えるとか、推敲するといった概念が存在していない状態。

つまり、破綻だからといって破綻を印象づけるようにものごとを記す、というわけではなく、訴えているのに何を言っているかわからないようにしようと思ってそのように書いているかのように表現する、というのではない仕方で、「そうなってしまう」のを、書けるようになりたい。

リットン調査団の笑いは、どこかに向けて放物線を描いて投げているが、その受け手がキャッチして笑うのではなく、放物線のすっぽ抜け具合を見て笑うのだと思う。「おもしろいなぁ、雨月物語は」などの突飛すぎる発言で虚を突かれて笑ってしまう。

オールザッツ漫才という舞台装置がそもそも、放物線を観測するのに向いているということもある。

オールザッツ漫才は観客席の後ろに出演する芸人も控えている状態で、客席の後ろにいる芸人たちは客のリアクションを感じながら、ネタ見せしている芸人のことを笑うことができる。つまり、滑ったときの裏笑い、すっぽ抜けたときの放物線がよく見える位置関係になっている。そして、それをテレビに乗せることで、わたしたちもなにか芸人側に立っているかのような気分になってくる。

最近は、どういう感情で読んだらいいのかわからない詩が書きたいとは思う。とにかく、まず第一にすっぽ抜けていて、笑っていいのか、よくできているのか、なんなのか、なんのつもりなのか、よくわからないけど、おもしろい、みたいなところ。

(つづく)


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