7/22〜7/29
わたしにとって生きるってのは近づかないってことに
想像の読者共同体(福間良明)
終盤のSNSの話など
また、査読について
権威主義
エリートとノンエリート
反知性主義的知性主義
価値転覆
寄生獣胞子
鈴木謙介の多孔化概念
地方
詩歌句街(月に吠えるらんねえ)
web上の土地勘はどこから生まれるのか
田中修子の学校概念
ためをはる
漫画や音楽
対消滅
文学
「活動」的なものにも慣れていく、という
新しいことにチャレンジしてるぞ! 感と
半閉鎖的なコミュニティに属したぞ、という
ちょっとした、自分の脳とか人生の賦活化
にも期待
わきたち、ひらけ、
なんていうか、
ちょっとでも光明というか、
意外性というか、
うーん、なんか見つかったり、
新しい支流というか、サードプレイスっていうか
なんか、こう生きてますねって
覚えられてて、なんか、
いないっすね?って思われるような
場所?
まあ、一番強いのは物理で近い人間だろうが(救急車よべる看取れる)
物理で近い人間というのは
しんどかったから…わたしには…
だし、それに、今のわたしにとっては
今が一番いいんだな、幸せというか
落ち着く
衰えもするんだけど…
なんかTwitterに
「ひとりが好きな人は誰かといても
ひとりのときより楽しさが超えないと
付き合えないハードルが上がってる」みたいな
ことを見かけて、
まぁ、
そんな気もするけど
そんな話なのか?
もっと根本の問題では?みたいに思ったりもした
スクールカースト?
いや、
ホモソーシャル?
なんかひとりでいたいと思うインセンティブが爆上がりして、
一緒にいたいと思うエンゲージメントがだだ下がりしてる。
シンプルにいえばそうだ。
で、まあ、その、人口問題とかもあるだろうし、実際(その影響をもろに)くらうのだろうけど、それより江戸時代の独身率とか、また、人類の歴史で独り身の人の人生なんて、ずっとそこらじゅうにあったんだから、それを殊更にあげつらうのも、昭和の一瞬の癖みたいなもので、たぶん今のほうが自然な気はする。すくなくとも今のほうが私は好き。私が生きれる。
昔がよかったとは全然思わない。
たとえ思ったとしても、
それ(例えばドラクエ3の発売日とか?)はいいんだけど、それに付随して、あの時代特有の、あれがくっついてくるとかあれもあれもくっついてくると思うと、うんざりする。おもに、暴力的で強引で一方的で、人が行きたい、生きたいと思う方向を妨害したり阻害したり、潰したがったり、足を引っ張りたがったり、対消滅したがる、生産性のない、なんかそういうものが蔓延していたあの時代に戻りたいとはまったく思えない。
人が好きにできる広さのある今、もっとこれから
そうなるような、今が好き。
だから昔は嫌いじゃないけど、
昔はよいとは言えない。
なんの話だったか、まあ寝よう。疲れた。
個人が(主に精神的、人生的に)成長するための曖昧なカリキュラム、修養
不安だけど楽
どうなるかはわからないけれども
現状は不安と共に楽だった
実際、コロナ初期に
世間が
とった体制のおかげで
体は癒えた(胃を痛めていた)
あずまさんのツイートでペイウォールという言葉を知った
すごいしっくりくる(直感的にわかる)言葉だ、支払いの壁、今のインターネットがどういう状況なのか?も
逆説的に
むしろ初期?のネットは
何もないドーム状の空間の任意の位置に小さな穴が開き、降り注ぐようにして、胞子のように人が降り、そして人の存在(書き置き)が点在していた。
今は動的に絡み合って一軸(時間)で
ひしめき合っているのに、
異様なまでの疎を感じる。
だから私はネット(SNS)に書き込みたくない
これだけ人がいるようにみえてまったく反応がないという寂しい思いをしたくない
(そうじゃなくなるためのクエストやリクエストをしたくない)
(それ(これ)が現実じゃないだろう)
その比率(参加率?依存度?)は変えられるだろう
ただ、自身の疎外感は
退屈にも通じていて、そろそろ別の場所を探さないと、いても楽しくない、自身が身体的にあって、話す場でも、自身が解消されないことがある。
そうなるとそれは孤独、孤立とさして変わらない。
あきたらない、満足していない
疎外感とさして変わらない状況において、現実とネット、あるいはその混合(手段として使うか、場として割り切って使うか、そのような意識を全くせずに使い続けるか)によって、自身をよりよい方向に
動かす、動いていこうとする
修養の150年はダスキン(の話)が続いてる
創業者の鈴木清一がアメリカで
フランチャイズを学び
研修など行った話
それから主婦が訪問販売で活躍し始めるフェーズなど
‘合成樹脂製密閉容器(p215)
とあるが、検索してみて、タッパーウェアとかタッパーというのは商標なのだと初めて知った。もう一般名詞化してる。
主婦が電化製品で時間ができて社会進出とか人との関わりや、やりがいを求めてダスキンのぞうきんのレンタルと回収の仕事をやりだす流れの箇所。
この、まず、技術革新で時間ができるというフェーズと、そこで何かしようと考える、その人(この場合は主婦)が昔あるベクトルに向かって勉強してたけど、当時の社会的な規範や時流(結婚、皆婚など)で途絶してしまったもの(昔取った杵柄)を再開できるようになるという流れ、
これはネット詩において、かつて文芸部だった人(この場合はいとうさん)がネットで投稿サイトとか作ろうと思う流れに似てなくもない。
言えば男もなんか「はたらいたら」みたいなやつによって自身の道?を強制的に規範や時流に乗っ取られて、仕事や生活に埋没し、ある日、昔やってたことをふと思い出し、またやろうと思っても「なんか時間ねーな」って感じで諦めて縮退してた領域がある。
というかほぼ全人間には規範とかタイミングとか関係なく、生きてる以上、ある選択によってそれ以前に辿っていた道筋が縮退・後景化し、とりあえず生きていく上で重要とされるものによって時間を延々奪われるフェーズが出てくる。
これは農村の青年たちが経済的な事情によって高校に進めなかったとか。
『働く青年の教養文化史』でいえばそれだし、『修養の日本近代』でいえば「成功青年」になるような気がする。ただこの頃のスポットのあたりかたが男性中心的なのは注意されたしな気はする。
*
というか初期のネット自体が情報(言葉、テキストベース)で自分の昔取った杵柄か、趣味を流し込む媒体になって、公開先も一応、昔に比べたら全然「即世界に公開」と言ってもいいほど(の速さ?)になった。理論上は。
紙の媒体で刷ったり配ったりしていたのが、パソコンで書いたものを操作してサーバーへアップするか、CGIが機能してるサイトで投稿すれば、自身の書いたことを皆が読めるようになった。
おそらく歴史をつぶさに見れば、このようなことは無数に起こっていて、なにも驚くに値しないのかもしれないが、特に私は自身の来歴としてのインターネットと、そのインターネット上における詩の受容とが、それぞれどのように絡み合い、勃興し、そこへ、いつ、どのようにして私が流れつき、また、そして離れていったのか(そしてどのようなとき、ふと戻るのかも含め)
そんなことが書きたいなぁと思った。というか、ずっと思ってる。
いや、ずっと思ってるわけだが。
さらにいえば、
そこと、日記の違い、書くこと、公開することなど。情報通信史、人生雑誌、サラリーマン、仕事、エリートと大衆(ノンエリート)、勤労青年、教養主義、
それとインターネット詩と紙媒体の
敵対構図
*
なんか、構造的にはずっとあると思っていて、端的にいえばこれはエリートの教養主義と、ノンエリートの勤労青年(〜中高年までも含むが、ある程度の年齢になると、おそらく教養主義や詩というものに対する憧れや畏怖があるので、青年的な心性というか野心、福間良明さんの著書にあった”反知性主義的知性主義”なスタンスのネットユーザーに限る、といったほうがいいかも。この「ネットユーザー」は、ネットによって業務外の時間(業余)の使い道が変わった。新しくできた場の管理や交流に労力を使うことになった。書いたことが、地理的(物理的)制約なしに、今までとは比べ物にならない容易い労力で公開できるようになったし、今までとは違う読者と書き手の共同体を想像できるところに可能性を感じた?)の対立構図。
これは「成功青年」と「煩悶青年」、「ネット詩」と「紙媒体」でも、なんでもいい。なんでもいいってことはないが、さまざまなところで繰り返される構図で、近現代、この言葉が何年をさすのかはわからないが、まあ雰囲気的に1970年代以降、場所柄によっては1950年代ごろからでもよいのかもしれない。しらんけど。
最近はほんと場所によってなんか時間(時間による制度や因習の分解速度のようなもの、あるいはある常識の浸透速度)が全然ちがうみたいなことは、ニュースの物騒さとか(刑事事件が減ってるのは知ってるけど)で、なんとなく地域差のようなものを察してしまう。
こういうのは、ある意味で、納言(芸人)の東京ディスに通ずるのかもしれない。
1970年ごろからか知らないが、別にふつうの家に生まれても、その家の趣向というか、ベクトルによって昔のエリート並みの蔵書やなんやが揃ってたり、子の興味の持ちようによっては、急速にそのような世界に近づいたりすることも不可能ではない世の中になった。
なんのこと言ってんのかさっぱりだが、これは書いてみて、たぶん、文庫とか、全集のことを言ってるような気がした。知を網羅的、または体系的に取り揃えることによって地縁や血筋、眷属などの影響が相対的に低くなった
…たぶん、そうだとしても、親の振る舞いによってはそのような背伸びはあとで空洞化し、崩落し、祟る部分もあるようには思うが。本人の膂力や資質にも拠って、なんだかんだ成功率(階級上昇率?)的にはあんま変わんないんじゃないかなって気はする。あるいは、本人がもう終わった古いその場所で、それっぽい振る舞いをしたいがために(スタンスを死守するために、そびえたつために)そういった古い世界にあえて飛び込むっていう生き方もある。
そんな気もする。
紙媒体側からのイチャモンは、査読がない玉石混交状況のネットは数が多すぎて、どうみたらいいかわからないので、とりあえず詩で検索して見てみたら、箸にも棒にもかからないダメなやつだった、死刑死刑教育教育…(←ここは7/30追記)
みたいな書き方で、紙幅の限られた紙媒体に書いていた。
ネット側は、ある場所ではちゃんと査読が働いているし、ある場所ではマジでアツいこのバトルも知らず、マジで呑気に自由に書いているものもあるし、ガチでいい詩もあるし、それにキュレーションや批評が作用すれば紙媒体と同じことも全然できっし、紙より早く、紙よりいい詩が、いくらでもあるという優位性を謳っていた、という気がする。
まあ今となってはそんな対立は虚構だったし、当時からある程度虚構と知りつつやってたのだと思うし、そういうところが好きだった。かといって本気じゃなかったわけでもない。
よく考えてみれば、いや考えなくても、ネット、パソコン通信、紙、文学、詩、全部同時にやってやれないことはないわけで、というか、パソコン通信が先でネットが後に来る人は、すでに掛け持ち状態なわけで。
そうやって属性とか所属をつぶさに見ていけば、ふつうに全属性もってる人だって当然いるわけだが、まあ経済力と年齢が上であるほどその可能性は高まり、若いものほど、まだ何もゲットしておらず、紙とネットの対立が、ばちばちの、エリートVSノンエリート、権威主義者VS反知性主義的知性主義者みたいに見える側面もあったんじゃないかとはおもう。
あと、最近になって思うのは、結局人間は地理的な制約から逃れられない、というより、そもそもすべてはローカルなものだったし、どこまでいっても同人なんだ、みたいなことも考えるようになった。
昔はものすごく商業出版のように思えていたものも、最近ではほんとにまじで同人であって、他のものとそう変わらない。変わると思うのは当人の捉え方だけだな。
だから、個人的には、何かひとつぐらいは象牙の塔のように感じる、エリート?っていうべき媒体をひとつぐらいは想定しておいても良いのかもしれない。実態がわかったあとでも。
なんか、それぐらいでいいんじゃないか、気楽にやろうよ
大人というのは総じてそういうとこがあった気がする。わかっててやってた、みたいなこと。そしてバラさない。
これは、レベルが高いとか、商業的とか、マネタイズできているとか、有名で歴史のある、だとか、まあ基準はそのへんでいいだろう。
そういうのを、ひとつこころに抱きつつも、基本はすべてローカルな同人がやってることにすぎないっていう、極度に相対化した姿勢も併せ持っといて損はないと思う。特に今は。もうそういう、エリートとノンエリートみたいな発想は、厳然と、今は個人の能力にすり替わっているけど、しっかりと存在していて、そこにただの精勤賞みたいな人もいたりする。それもいいじゃないかと思う。精勤賞だってすごいことだ。
もっと純粋に実力のみで評価される世界。なんか、そういうのはない。
あるっぽいけど、やっぱないかな。
そういう建て付けのところというか、こだわりの店はあるだろうけど、現実には存在しない。だって起き抜けにすごく心に沁みる詩とかもあるし、疲れてるときに沁みるのもあるし、なんか平然とフラットに読むように自分をチューニングして読んでも、ブレるものはブレるだろう。
ほんとうにいいものって、あるようにみえてないし、ないようにみえてあるみたいな、おそらく有史以来ずっとあるんじゃないかと思うけど、まあ今は淀川の河口まできて、どっちらけになってきてるんじゃないかって気はする。
特に、詩という分野に関しては、エリートっていうものからの流れがほぼ途絶えつつあり、現代詩手帖ももうすでに同人誌のひとつみたいなところがある。継ぎ足しスープでなんとか読める人が続いて保ってはいるような気はするけれども、それがいつまで続くかは定かじゃない。採算のために、いつ編集者がそういうとりかたをやめるかもしれない。というか、もうなってるかもしれない。
だからさっきいった、自分にとっての象牙の塔として掲げるというか、まあ現代詩手帖の作った史観でいくかとか、脱線していって、そこに独自の史観をカスタマイズしていくなどして、もっと自分の住んでる地理的な制約とか、偶然性(出会い)に根ざした詩のなかに何かを見つけだすみたいなこともわるくないな、と思い始めている。個人的には起き抜けにパッと読む詩は一番しゅむ気がする。あとは知ってる人の詩。
*
私の場合、そもそも詩は寄り道というか、文学自体まったく関心のない人間だったから、詩に出会うまでのインターネットでの筋道が気になる。
自分はそもそもどうやって詩のサイトにたどり着いたのか?どういったお考えで?
やはり道具が要らなくて、自分でもなんかやれそうだったからというのはおっきいかもしれない。でもそれだけじゃないような気はしていて。
ただ、こういう話を、人としようと思うと、かなり難しい。どこの角でこう曲がって…みたいな説明をしようとすると、収拾がつかなくなる。同じサイトを見ていても、まったく話が噛み合わないということが起こり得る。
結局、ネット上でも、ある固有名やサイト名などを足がかりにして、ランドマークとか目印になるものを探りつつ、何を見てきたか語るしかない。
そして、そうやって語ると、ネットで初めて見たものの元ネタやインスピレーションが、案外まるのまま転がってたりする。
そういうのを嬉々として拾い読みしながら生きてきたきがする。道を逆に歩いてるみたいで、遅れてるみたいで。見つけると、嬉しいが、そんな人は少ないからさみしい。
*
憧れ(推し?)は持っておきたいけど、上下は持ち込まないほうがいいという話かもしれない。もう、そういう時代じゃないと。憧れはするけど期待はしない。高尚さを求めない。そこには偶然性や、経済的な余裕や時間、同人同士の相互の批評によって話題性や事件性などが作られていたけれども、惹きつけも、すでに相対的になっていて、なんなら他の様々なジャンルともパラレルになっている。
時々、詩の皆勤賞みたいな、ご褒美として何かが(位が?)上がっていくとか、誌面に載るとか、そういう組織があったら嫌だなあって思うけど、たぶん結構あって、というかほとんどがそうなのであって、ほんとにお金が回ってるジャンル、アニメとかと比べたらもうどう考えても実力もないし、
お金が回らないまま褒めるっていうのはどうなのかみたいな、そのへんなんか左翼というのかなんていうのか、そのお金税金ですよね?みたいなこともあるのかもしれないけど、そういう事務仕事とか手弁当でやってるとことかのことをやいやい言っても仕方がない。でも
でも、詩というのはそういうのじゃないから、っていうのも分からなくもない。福祉や左翼的なイデオロギーからは逸れて屹立しつつ、そこまで満ちてるようでもない。かといって、専門的に、それ専門でアカデミックな居場所にいるというのもどうかと思う。飯の種はそれはそれでちゃんと労働の対価として受け取ってほしい。
大学で詩の先生とか、生徒の学費のこと考えると、なんかもっと他のことでガッツリ稼いでほしいとは思う。か、そういう気持ちを凌駕するぐらい圧倒的な専門性というか、人を惹きつけてめっちゃ生きるのに役立つ授業とかできるのだったらいいかもしれない。
昔っからそうだったことが、今は(内輪でなんかやってるだけなのが)バレてペッシャンコになってお金が回らなくなって、そもそも全員が中央に向けて限られた紙幅に向けて作品を投稿してそれを査読して掲載するっていう流れに乗らなくてもよくなった世界でキャンセルカルチャーしていくとすれば、要は現代詩文庫にあるような詩は、すべてパラレルで、当時、自分の地元の詩人によってすべて書かれていた可能性だってある。なんか最近はそういうことをよく思う。
でも、かといって、地元のなんとか詩人会みたいなやつに入ろうとも思わないのだ。そういうのはたまたまの流れで関わりたい気はする。あとネットで身についたこのいやな感じ、これで人を汚すのも嫌だ。地元の会は常に清浄で、真摯であってほしい。というイメージを自分の中に保ちたい。
*
所有したかどうかあやしい感覚
ネットにある詩をコピペして自分のHDDに移したからといって所有したかといえばかなり怪しい。
昔、自分のホームページを作ったとき、一番下のところに(C) 2001-2002 ○○ All Rights Reserved.(綴りあってる?)って書くんだけど、肝心のコンテンツがなかった。
その、オールライツみたいなやつを頑なに守ってたわけではないが、人のものをコピーしたり、自前じゃないものを使うことに抵抗感があった。
もっと単純に、自分がホームページに書いた詩を、誰かのHDDにコピペされたいか、されて嬉しいかといえば、そんなこと、あるわけないだろう。
尊重でもなく、謙遜でもなく、単純に。
自分がバーって書いて(苦心して書いたのかもしれないよ?)バーって投稿したり、アップロードしたやつを、コピペして持っている人がいたとして、あなた、どう反応しますか!?
「あ、あり」全部言えますか!? ありがとうじゃないだろうそこは!って思いませんか?
だったらBBSに「よかったです〜」って書いてくれよって思いませんか
*
本とかの所有は、やっぱ書いた本人が所収してるから、所有しても違和感ないのかなとは思うが、ネットにベーんと置いてある詩は、そもそものスタンスがわからない事が多いので、その人の行動範囲とか、SNSの「感じ」をだいたい把握して接するというのか、自分のスタンスで相手を推し量って意図を汲んだりするしかない。
昔、田中修子さんがBBSで、ネットの詩を書く人の生態を知ることを学校生活に例えて、「あ、この人はお昼はここで食べてるのか」とか、そういうのを把握していく楽しみがある というふうに書いていた気がして、それは言い得て妙だなと、膝を打つ思いをしたことがある。
書いた本人が、作品スタンスなのか吐露スタンスなのか、吐露みのある作品なのか、作品みのある吐露なのか、そのへんぶっちゃけよくわかんないけど、一応下にオールライツなんちゃら…もついていることだし、たぶん最高裁まで競い合っても「君のやつです」って言ってくれるであろう。
しかし「言われたところで…」みたいな気もする。まあ、書いたものをネットにアップするってことは、「言われたところで…」ってなるようなものを置くってことだと思う。半分読者を意識しつつ、半分あえてその意識を切断したかのように置く(書く)。
ここで脱線すれば、「最初の読者は自分」っていう言葉は、たぶんおそらく人類の共有財産なので、そんな共有財産みたいな言葉は使いたくないのだが、そもそも全言葉は共有財産みたいなものなので、要は、常套句とか当たり前みたいなことは言いたくない(例えば〜、、、えーと、『時間はみんな平等に与えられた〜』云々とか、『働かざる者〜』云々とか、こういうの聞くと、反射的に「嘘つけ!」「疑え!」みたいになる。そういった、もっともらしく聞こえ、誰でも言える、おもしろくない、そういう言葉!)みたいな感じではあるが、これ(最初の読者は自分)も最近実は怪しくなってると思ってて。
(一旦、音声入力とかは除外して考えるとして)最近自分でもテキストフォームに打ってるときに「最初の読者は自分」って思ってるかといえば、全然そんなことはない。何も意識せずにとりあえず書いて、下書き保存する。
後日、時間のあるときとか、気の向いたときに、たくさんの下書きをランダムに選択して読み返し、たいていの場合、余計な追記や補足を行い、最終的にもうこれでいいや、といった感じで投稿する。
この一連の入力と寝かせ、またそれの再編集、投稿の流れによって「最初の読者が自分」になっているのかといえばかなり怪しい。
自分自身から、読者感がかなり流出してしまっていて、信用ならない。
*
もう「最初の読者は自分」とかいう言葉は、ネットリテラシーとか、道徳の警句みたいに成り下がっていて、なんか、あれみたいだ。「玄関に貼ってもいい言葉しか書くな」みたいな、もう、そんな、あれだ。
おそらく本来は、もう少し、感動というか、自身への慰めというか、ハンターハンターで言えば、GI編のニッグとゴレイヌの順番みたいなものに近いと思うのだが、
つまり、
誰も読んでくれない…
いや、もう読んでるじゃない!
えっ 誰が?
あなただよ、あ な た!
…
こうやって書くとてめーなめてんのかと思うが、いややっぱなめてるなこれは。だからなんだよっていう。かといって、内輪ノリで書いててもいいわけじゃない。なんか、そういう文章は、水分が多すぎてすぐ腐るのだと思うし、トピックにぶらさがらないと、おっこちてグジュっと潰れてしまうのだとも思う。やっぱ独立して読める記事がいいなとは思う。
結局、自分自身が読むということは、もうすでに読んでくれてる人がいるよ!っていう「よかったね」的な意味と、もうちょっと(水分)絞れるんじゃない?→普遍性、射程を伸ばせるんじゃね?的な推敲を促す意味、また、トピック(話題、つまり関心)へのぶら下がりから、スタンドアローンできるようにとか、そういった、まだ改善の余地を示唆する(促す)ための言葉でもある。
まあ、なんか、彫刻でいえば、まだ彫れるっていうか、絵で言えば、なんかめっちゃでかい、ほぼ完成してるっぽい絵の端っこに、なんか、まだシャって乾いた絵筆走らせてる奈良美智みたいな感じ?みたいなことを思う。
要は、この急に出てきた奈良美智は、絵を「最初からあったっぽい感じ」にしたくて、大きい絵をじーっと見たあと、脚立か何かに乗って、なんかカンバスの端っこをかすれたブラシでシャッとか、急にやってるわけで、そこらへんの見極めっぷりも含めての「最初の読者は自分」なのであって、この「最初からあったっぽい感じ」を「言葉」で「作る」という矛盾、しかも作るのは「自分の中」で、再生されるときは「他人の中」であるという、当たり前の話なんだけど、なんかそういうことをやれる人だけがものを書いてたのか?というと、そんなわけはなくて、出来る人も出来ない人も昔っから書きまくっていて、でも、やっぱり出来るやつのほうが文庫化されたりして残ってるっていうだけで、書かれた時代にはいろんなやつがいて、いろんなやつが書いていたんだから、ヨッシャ俺らも好きに書こうぜ!みたいな気にもなってくる。
これは先に書いた、結婚してないけど江戸時代の未婚率で全然オッケーなのと似てる。
ただしこれは個々人の生き方の話であって、現代日本の社会保障がこの未婚率、ほぼ出生率に繋がって立ち行かなくなるみたいなことと江戸時代はあんま関係ない。
けれども国の出生率のために結婚するわけでもないというのも憲法がなんかそういう感じのことを言ってる気はするし、そもそも日本社会が人生の前半で大半の人間に嫌〜な思いをさせすぎるのが問題なのだから日本が悪いみたいな気分でもう今日は気分悪いから寝ます。
*
おきました。えっと、「最初の読者は自分」問題でした。そもそもこの言葉はおそらく作品性?みたいなものに根ざしていた言葉のはずなのに、こういう(今、わたしが記事をキーボードで入力して、書いている)フォームに下書きとして入力するときの自分の意識は、そういうもの(最初の読者としての自分の検閲、査読機能)に何ら期待していないし、信用もしていないし、痛感もしていない。
私のそういう機能(検閲、査読だけじゃない、内在律?リズムとかテンポ、書く題材の取捨、取りまとめ、あらゆる機能やノウハウ)について、私は私に信頼を置いていない。
私は、ただ、こういう信頼を置いていない自身の書いたことを公開するかどうかの判断を迫るものであって、なぜ判断を迫るかといえば、もしかすると、私みたいな人がいるかもしれないみたいな期待があるからとしか言いようがない。
でも、私みたいな人は疲れているから絶対全部読めないし、私みたいな文章をいいねする人は江頭ミカ(スキップとローファー)じゃないけれども、「この人見る目ないな」って思ってしまう。自己肯定感が低い。きびしい。世知辛い。
*
やっぱり、最初の読者が自分であるという実感がないし、これが投稿されたあとのアルゴリズムによるソート、浮き沈み、流通の流れについても実感がない。なんか時々排泄に例える人がいるが、いるような気がするが、
なんかそれは違うように思う。
排泄物がどの配管を通って下水に行くかとか、あまり考えない。鈴木志郎康さんの詩には、なんかそういうのがあった気がする。クソが今マンションの配管を通っていってる、みたいなやつ。あれ面白かった。
いや、そうじゃない。
書いて捨てることを排泄に例える人の話だ。それはちがう。
排泄は一週間もかからない(いや、もしかしたら病気とか手術後だと、そういうことがあるのかもしれない)。
ただ、忘れ方に関しては、ちょっと排泄に似ている気はする。
最初の読者が自分であることも忘れ、それからの読者のことも忘れる。書いているときは排泄ではないし、書いたあとも排泄じゃない。
でも、するときの繰り返し感、忘れ方については、そこそこ排泄に似ているように思える。
でも、書くことを忘れるってことは、排泄物が腸から消えるってことだ。それはない(…書くことに対する向き合い方によって、そこも変わってくるのかもしれない。つまり、水準、レベルを自分のなかで上げることによって、書く量を適度にする。余計なことを書かない。読まれることを意識する等)
ただ、私に関して言えば、こういうフォームに向き合って書いている以上、「最初の読者が自分」だという感覚には立ち戻れそうにない。
そして、ここに書いた文章を粘土のようにこねあげて像を立たせるような手順というか、方法論、パターンも持ち合わせていない。
次の日はここ、また次の日はここ、と
ひとつの作品に向き合って、丹念に時間を接いでいくようなことができない。
ここから抜け出すにはどうすればいいか。
ただ抜け出すだけではなく、抜け出しながら、抜け出す前の「立ち戻れそうにない」感覚を持ち込んだまま抜け出すにはどうすればいいか。
要は、自分みたいな人にも読んでもらえるようなサイズ感に、このまとまりのなさを凝集すること。立ち戻れないと自覚しながら、最初の読者が自分であることも忘れながら、メタ過ぎない、自動書記過ぎない、かといって作品過ぎない、個別過ぎないもの。あと、旅過ぎないもの。
*
引用とかは、あまりしたくない。というか、参考文献リストとか、引用文献のページ数とか、
本、ああいうの、よくみんな覚えてるなと思ってて。
すごいな。
引用、複製は私的利用に限るとかもあるし、引用にも主副の関係だったか、なんかそういうのがあった気がする。
時々ブログで詩を鑑賞すると称して「短いので全文引用します」とかいいだすワケのわからない理屈のブログも見かける。
また、Twitterで本のページを載せてバズって作者が「感謝!」ってなってたり、お前らの倫理観は何色だ
そう思うこともある。
ただ、自分がそれをやらかしていないという自信はもうない。なんかどっかでやらかしてる可能性はおおいにある気はする。
ただ、頭の片隅には常に意識している。
*
今、書かれているもののほとんどが、本の論理、本の理屈で通ってるけど(と私は勝手に思ってるけど)、現状を追認する姿勢でいけば、そんなものは、ほぼ罷り通っていない。アイコンは好きなアニメやイラスト、または写真集とか、ネットで拾った画像の人、多い。
引用も、主副関係なく、ツイートで延々本文を引用し続けてもいい。というか事実上そういうものは、まったく取り締まれていない。その人の人生というか、日常が、時間軸に沿ってそのアカウントにあるというならば、その人にとっての引用の主副は満たしているような気もしなくはない。
でも、そこで炎上し、社会的に窮地に立たされる人とかもいっぱいいる。なんか、そのへんがグニョグニョしてて、気味が悪い。
法律ではなく、マナーとか価値観やフォロワー数などによって、見えやすさというのか衆人環視度合いの違いによって、私刑の感じが自由に変化するさまは気味が悪いし、そんなものにたくさんの人間が時間を奪われているのも恐ろしい。
いざとなれば人命よりもマイクロファイバーのぬいぐるみのほうを助けるんじゃないかみたいな、SNSには引用のさまから炎上、かわいいまで、あらゆる差別を、おざなりな感じを受ける。
こういった流れでも、SNSでは、まだ市井で生きてる人のアカウントのほうが普通に本より偉いという気はしてる。尊いというか、そういうものである、というか。
教養主義的なものを微細に帯びている人の倫理観と、そうじゃない人のそれとが入り混じってるとき、そうじゃない人のほうがなんかいい気がする。
要は、引き継ぐ意思があって、衰退しつつある"その世界"にいる人と、たまたまそれの一部を手にとった人とで、それ(ここでは本)への扱いが全然違うのであって、一応、法律では、書物に関する色々な取り決めはあるものの、実際的な、個々人の利用の仕方とか、その人の身の回りにあるツールで出来ることとの隔たりがかなり大きくなってきていて、私は、これはこれで、現行のありかたのほうが現状に即していて、引き継ぐ意思のある人は自分たちはそのルールでやればいいのであって、強要される謂れはないという話である。でも謂れはなくても、内面化された権威というか、そういうのはある気がして、それに微妙に苦しんでる人もいる気がして、そういうのからは解放されたいよね、とも思う。から元気じゃなくて、ほんとうにスッキリしたい。
でも、本の側の訴えも、なんか尊いというのか、自分もそっち側の倫理観で生きてみたかったなぁと思う反面、なんかもっと痩せ細ってほしいとも思ってしまう。図書館の雇用形態とかインボイスとかは、わかろうとしないようにしている。
ちょっとだけかるく「ざまぁ」と思ったり、ときにはちょっとだけ本の世界?を味わったり、それ以外は工場で働いて、ペットと戯れて、寝て起きて、いろいろあって、死んでいく。
*
いろいろあるっていうのは古谷実のグリーンヒルとかあたりのイメージ。この歳になって、それ(いろいろあって死ぬ)がもう少しくっきりしてきたけど、なんか、この歳になると「まだあるんだ…」っていうか、ここからいつ膝がやばくなったり、目がなんか(白内障とか)なったりするんだろう?戦々恐々としている。
鈴木志郎康さんとか、確か攻勢の姿勢の写真かなんかで自転車乗ってたの、あれ60代?70代?すげーな、と。
俺その歳で自転車乗れてんのかな?と、ぶっちゃけ思う。
あと、70歳で学生に請われてパンイチで映像作品に出るとかそういう精神面でもすげーなと。俺70歳でそんなに柔軟に生きていける自信がない。
というか最近、
おそらく、自分は55ぐらいで死ぬんじゃないかと思ってる。
*
本で、人の名前の後に生年月日が書いてあるやつ(一八七七−一九六八)をみると、おー、結構いったなー、90?ぐらいいってんじゃないのこれ?とか思いながら読んでて、そういうのをみながら、自分の寿命を考えると、なんか、55ぐらいなんじゃないか、と思うようになった。
今読んでるのは「修養の150年」みたいな本なんだけど、なんか修養をやりだす人というのか、こう、宗教っぽいこととか、宗教と絡みながら何かをやっていく人(宗教家や実業家)っていうのは妙に長寿で、これは因果が逆で、長寿だから何かをやっているのかもしれないなとも思いつつ、一面で、何かを信じることで無尽蔵に活力というか、エナジーをもらってる側面もあるのかなと思って、まあやりたいこととやってることが合致するから長寿になるのかな、とか、、、そうやって色々考えてみた時、
私は、なんか、やりたいことやれてる感じもしないし、活力もないし、何も信じていないので、なんとなく、早く死にそうだな、、、
みたいなことも思ってみたり。
*
そういや昔、ホームページで右クリック押したら「右クリック禁止です」ってダイアログが出てきてもメニューバーのコピー押せばいけるもんねーへっへーてなもんな時期もあった
冷蔵庫に、野菜生活がちびまる子ちゃんとコラボした時のペットボトルのおまけにマグネットがついてきたらしく、ともぞうが「わしは野菜が大好きじゃ」って主張してるやつがずっと意味もなく貼られていた。
ひとりで虚無の時、それ見るとなんとなく笑えた。貼った理由なんかないだろうな。あったから貼った、剥がす理由もなく、あることすら忘れて生活を送ってる。人。
*
密かに好きな詩とか、好きな書き手のいい詩とか、いつかなくなりそうな詩はコピペして「人の詩」フォルダに入れとくわけである。
それほどでもなければ、
サイト(プラットフォーム)備え付けの「お気に入り」機能や「いいね」で保存した気になる。これは場所というか、位置の保存であって、本人がうんざりしたり、「消えたい…」ってなって、そうなるようにしかるべき操作をしたら、当然、その場所からは消えてなくなるわけである。
とても炎上している出来事なら、「魚拓とっときました」「スクショしました」「保存して」とかいう人が出てくるけれども、細々やってる詩のサイトのだれかの詩は、ホント、前触れもなく消えることのほうが圧倒的に多い(気がする)。気づくとなくなってる。
さらに、それが投稿サイトなどではなく、個人作成のホームページの、サイト構成ややこしめの、細々したページ階層の奥のほうとかだと、WebArchiveでもクロール(ページ巡回)が効いてなくって、収集しきれてなくて、なんか「Urmm...(ちょっと、ないっすねぇ…みたいな意味?)」といったレスポンスが返ってくる。詩のインデックスはあるのに、中身がリンク切れになってるときは、ぬか喜びさせられる。
WebArchiveで、BBSの投稿板の場合だと、表示形式(スレッドか、一覧か)を変更することで、まだログが残ってたりする場合がある。また、ある時期のログの[2]が、別のアーカイブ時期ではログの[3]に流れていたり、そういう流れも意識する。また、この時期の[4]はこれしか残っていないのか…と落胆したり。
色々ある。
もう本人が詩に戻ってきて、ネットで公開するか、書籍化するなどし、更に、それがSNSで情報として流れてこないかぎり、私はもうその詩とは出会えないのだ。
*
(以下、WebArchiveの話ののこり)
もし、仮に、そこで(リンク先が)残っていたりすると、当時、そこそこ参照数があったのかな(読まれていたのかな)と思ったりもする。
そのへんは、WebArchiveの年表みたいなグラフで黒い棒が積み上がってる箇所を見ても、ある程度の予測がつく。その時期(グラフが山なりに積み上がってる時期)、サイトは全体的に活況だったのだなと思う。
でも、そのサイトの構造の隅から隅までが活況だったかは、また別問題である。そのへんは、サイト構成の更新(リニューアル)時期とか、参照の程度などによって、意外と残っていたり、無常にも断絶されていたりなど、さまざまである。
*
これ(自分が好きだったもの、この場合だとネットで読んだ詩)を広めようとか、布教しようとか、わけのわからん欲望を煮えたぎらすと、ろくなことにならない気がする。
そもそも、自分がウン十年前に好きだった詩を見るときの目つきは、もう愛でる孫への目つきであり、作品として何がどう良かったというよりも、「この作品はな…わしが昔徘徊していた○○というサイトにあってな、わしがこれこれこうしたときにふとしたはずみで見つけてな…モニョモニョモニョ…だったのさ」みたいなことが付与された上での、美化された状態で好きな俺、が好きなのであって、あのとき、つまり読んだときの感動はもうないというか、自分自身でも再現性がない。
だいたい昔すごく感動した詩を読み返すと、古畑任三郎の石黒賢の回みたいになる。あの頃は確かに光って見えて、なんなら絵が浮かんで…みたいな、共感覚みたいになってた。
あと、今にして思えば「背伸び」というのも感じるし、いろいろ思うところはある。そして、この「背伸び」にすら、今の自分は届いてないと思う。
*
あと、スタイルというか、なんかリズムというのか、言葉運びというのか、なんかよくわからないけど、そこに、当時の「感じ」というのはあって、それが今のとどう違うのかはわからないし、わたしももう、そんなに詩をよろこびいさんで読むこともないので、ほんと、パッと見で、字面というか、全体とか、入りの感じとかで判断してるような、ほんと、いったい何をしているのかよくわからない(いや、ネットでいい詩を探してるのだとは思うが…)のだが、それでも、おそらくこの書き手はかなり昔から書いてる感じがするな…、とか、同じ年代の人かも…みたいのは、時々、なんとなくだけど、わかる気がする。錯覚か しらんけど。
そもそも、名前(やアカウント名)を変えただけの人とかは、書き出しからして、おずおずしていない感じがあって、ほんとに投稿自体が初めての人の場合にある「一番搾り」感がないような気がする。で、この「一番搾り」感はめちゃくちゃ貴重で、なんかほんとに最初に投稿した作品というのは、なんか違うような気がしてしまう。
美味しんぼでいえば、海原雄山の初産の卵、みたいなノリである。山岡が迷信だバカヤローコノヤローと反論すると、初産だとわかるぐらい監視しためっちゃいい卵なのだ、、、と返す。さすがは雄山である。
みたいな感じで、なんか初めて投稿された詩の強度みたいなものは必ず誰もがもっていて、これに関してはおそらく平等であると(今までの経験上)思う。だって、なんか全部いいね押したいもん。そこをグッと堪えるのがまたいいんです。何がいいのか知らないが。なんかそのへんのラインを揃えたいという自分の気持ちによって、自重、制御しているのである。時々ブレる時もあるが。
まあ、初投稿かどうかなんてのも、ベテランかどうかなんてのも、実際のところ真偽不明である。不明ではあるが、なんか、一作目から勝手知ったる感のある詩を見ると、微かに警戒レベルが上がる。まあ警戒レベルが上がっても、別に何も起こらないのだが。それに、そもそも警戒レベルなんてものはない。
*
ネットというのは、何回も引退とか出戻りとか、よくあるものである。まあ、ふつうに社会に生きてて、ちょっと大それたこととか、奮発したことを書こうと思ったら、実名でやるのはリスクでかすぎだし、たとえハンドルネームでも、その名前でなんか、すわりの悪い詩ばっかり書いてきたなーみたいな思いが募ってくると、ある日急に辞めたくなってくるのが人間というものである。
なんかガタガタの、整合性のないものを積み上げてきたように見えて、これを一回チャラにして、次は綺麗に整合性のある、コンセプチュアルな、スタンスのカチッと決まった、方向性のある、自己ブランディングの効きまくった、かっこいいこととキレッキレのことしか言わないアカウントを作るんだ! と何度息巻いても、すぐボロが出て、また初志を忘れた無様な投稿をしてしまい、ああ、またダメだ…と消去を繰り返す。
あるいは、揉めて、「うるせー、こんなくそサイト、こっちからやめてやらー! ばーかばーか!」って去っていって、心機一転してみたものの、やっぱり(主に心の?)居場所がなく、自身の所属するクラスタはやはりここしかなかった…みたいな人もいる。
それ以外にも、馬力や好奇心が強く、色々なこと(他ジャンル、多ジャンル)に手をのばす人もいて、その好奇心の周期の巡りのひとつが詩だった、なんて人もいることでしょう。そういう人はカラッとしていて、なんかいいですね。
あとは、まあ、お盆とか、正月とかで、実家ですることがなくなったりとか、なんかこう、ちょっと妙に暇で、ぽっかりしたとき、人はふとログインするものである。ログインというものをすなるなりなり。
*
なんかそんな感じで、人の詩は、それぞれの人(読者)たちが、密かに「好きだ…」と思いながら、どこにも勝手に公開されることなく、その人の死とともに消えていくのである。
*
ネットに「いる」とか「いない」とかは、別にイコール死、すなわち死、とは限らないのだが、「(この人の詩が)好きだ…」みたいに思いながら、身近な他者や、同好の士にも明かさずに朽ちるのは、やはり自分の体なので、死ぬとやっぱ、その「好きだ…」みたいなやつも消えるのかな、とは思う。だからその密かな「好きだ…」っていうやつが、数十年秘められたまま、消えていくのである。暑い日の夜の室外機みたいな感じで揮発してしまう。
*
おもしろかったり、好きだったりするものを
人、あるいは誰かに教えるというのは、結構重要な指標というか、羅針盤というか、それ(好き)に理由なんかも添えてあると、見るポイントなんかも分かったりして、別にそこが良くなくても、理由を添えた人はこういうのが好きと思う人なんだなーって知れて、今後、この人のすすめる詩はあんまり読まないようにしよう…そっとじ…みたいな事ができ、効率的に詩が読めて嬉しい!のかもしれないが、効率も嬉しいも詩には要らないみたいなロートルも世の中にはたくさんいて、私もたぶんその一人だが、逆にもっと素朴に、詩をシンプルに生活に取り入れている人とかを見ると、なんか羨ましいなと思ったりもする(生成りの無印みたいな人はあんま羨ましくないけど。そういう人は意外と少ない気がする)。イメージはなんとなくだけど、30〜50代の女性というイメージで、内縁とか既婚で一応パートナーがいる感じの人。こういう人の詩に対する接し方が、なんとなくだが一番健全
っていうと語弊があるけど、なんていうのかな、素朴っていうとまた語弊があるんだけど、生活に無理なく、いや無理はあるのかもしれないけれども、詩を取り入れて、なんていうのかね、暴走させずに制御しているというのか。ちゃんと活動に取り入れて、こんなの詩じゃねー!みたいにならずに生きてるっていうのか。逆にこの年代の男性とかはもうびんぼうもびんぼう。独身も独身。もうオール偏見。この差は何?みたいな。まあ勝手なイメージなんだけども。なんか、酔っ払ってこんなの詩じゃねー!詩じゃねーじゃねー!みたいなのを延々やってるイメージなのがこの世代(全年齢)の男である。あくまでこれは「私の中の話」である。イメージである。
まあ、なんか、素直な道のりというのか、適度に社会とネットをいい配分でスーハーしてる感じのアカウントを見かけると、さぞかし私もそれになりたいと思って、沈黙してしまう。
*
こういうこと(どういうこと?)をかなり短い言葉で表している人はネット上にたくさんいるはずだ。
*
所有したか怪しい感覚、それぞれが離れ離れになれる権利みたいなもの、人知れず書ける自由みたいなものを享受して、なんとか生き延びてきた足跡や断片のようなものの緩やかな共有と喪失(忘却)があるのだと思う。
それを、高みの見物はできない。だから所有できない。
*
心情的にはそんな気がする。
*
フォームというか、テキストボックスが「最初の読者は自分」を終わらせたのではないか?ということを、ぼんやり風呂で思ってた。
特に理由があるわけではなく、なんとなくそんな気がしただけ。
自分でこうやって入力欄に文章を打ち込んで、ちゃんと読んでから投稿ボタンを押しているか問われると、なんか怪しいんだよな
毎回下書き保存して、読み返してちょいちょい直してから、もう一回なんか自分の「どうしてもこうしたい欲」みたいなもので崩して投稿、みたいなことは必ずするようにしているが、それをもって「最初の読者」と言えるのかどうか。怪しい。
読者ではあるけど、そのそばから修正を加えているし、修正を加えたからといって、そこをちゃんと読んでいるかと訊かれると、心許ない。
*
経済的、社会的、地理的、運、そして体力の限界まで読めて書ける人が成った時代から、そういうの全部とっぱらった時代へ。
スマホを指でふちふちしてバスの中からでもネットに書き込める時代。声でも書ける時代。botの時代。AIの時代でもある。
これでもまだたぶん「誰でも」じゃないけど、昔に比べたら、もうじゅうぶん、「誰でも」と言っちゃっても差し支えなさげな時代。
*
「最初の読者は自分」説は、今や、自分が打ち込んだことを何度読んでもわからない人でも世界に向けて書けるようになった時代に、あなたが最初に読んだんだから、責任はすべてあなたに帰属します、だから気をつけなさい。みたいな、脅し文句になってしまった気はする。
もうちょっと、ロマンていうか、あなたが書いた詩を最初に読む人は、何よりもまず自分なんだよ!きらきら
だから誰もみてなくてもいいんだよ!きらきら
もう、一人読んだんだよ!きらきら
きらきら
元々の意味は、こんな感じ↑だった気がする、いや、もう少し手厳しい意味も含まれてるかもしらんが
まあどっちでもいいけど
テキストボックス、フォーム、投稿の仕組み、プラットフォーム
すべてが楽というか、インプットとアウトプットの生態系を破壊する方向に作用した、というより、なんか昔は顕微鏡でしか見えなかった菌みたいなものが、ネットの世界でのみ、やたら肥大化したとか、そういう感じかな。
で、その肥大化したもののソートというのか、流通、コンテンツの混雑を避けるために、アルゴリズムによる最適化(リコメンドやサジェスト)が使われ、なんか自分と似た雰囲気のものや、好みそうなものを寄せ集めてくる。そういうものが打ち寄せてくる。
*
でもそれを自分は読まない。自分は自分以外が嫌いで自分もあんま好きじゃないし読むのもあんま好きじゃない。読むパワーが減った。
読むと、読むパワーがつくのがわかるけど、すぐなにかのきっかけでYoutubeばかり見始めて、衰えてしまう。
本を読んで思った事を論理的に展開できないまま、出力を続けるだけ。出力が容易になって、入力のほうも大概怪しいのがバレて、それでも出力の癖はなかなかやめられない。
情けない。
みたいな感情もある。
情けなさに対抗するために、カンフル打つとか自分を奮い立たせるということもない。だいたいこの文章だって、今書いて、いつ公開するのかもよくわからない。
そういうのを繰り返している。
**********************************************
(たぶん家電が作る業余とネットが作るそれとの違いについて書いてる気がする)
家電によって家事時間が短縮されたことと、ネットとの違いといえば、活動する「場」ということになる。短縮された時間によって外に出て何かに出会うのではなく、仮想的な場にアクセスすることで地理的な制約を超える(その代わり、コミュニケーションのための情報は極度に削ぎ落とされる、身体性や経済基盤(金、文化資本?、蔵書)など)
時々日記に「あの日見た、家の太さ」と書くが、最近SNSでかつてのネット詩人らしき人の家の背景がうっすらとでもわかるようになってくると、(以前は詩以外で上京して本名で活動してたひとなどは、実家がどういう経済状況で親がどういう属性だったかまで書いていたが、ほとんどの人はそうではなかった)やっぱりとはいえ、その違いに驚くというか、元々わたしはまったくそういうのと違うところからきてるから、当たり前っちゃ当たり前なんだけど、みたいな思いがあっちゃこっちゃ去来する。蔵書の差とか。
*
時間が短縮されたように見えるが、実際は短縮されたわけではなく、いや、移動時間は圧倒的に短縮された。圧縮された。
家にいて、世界中の人間と情報のやりとりができる、という意味では。
ただし、余った時間によって、自身の身体を何かに向かわせるという出会いではなく、自身の身体を動かさずにインターネット上に情報を置いて読み合うことでやりとりするということは、
のろしや腕木通信のような「合図、通信」が非常に短時間で、複雑で高度な、高密度な内容を含むようになった、と考えた方がよいのかもしれない。
自身の意思を「合図」として、道具を用いて、ある程度の距離(視認できない距離、視認できるのであれば、道具を用いなくても自身の身体や声で伝えることができる)から相手に伝えること。
また、その合図の意味を知っていること。
つまり、のろしの意味、進撃の巨人なら信号弾の煙の色の意味を知っていることで、作戦の「成功」や「失敗」を知るように。
この場合、インターネットというのは
「のろし」を上げる空間そのものが
一般の、インターネットを知らない人(今では考えられない)からは見えないことになる。
さらにそこで交わされる高密度、高度で複雑な内容はさらにマニアックになる。
というか、それを求めて? 単なる好奇心で、そのように集ったのだ。いや、求めていたわけではない。
散歩していたら変な狼煙が上がっていたから、
変な信号が灯っていたから、
とうびんがあったから、拾ってみただけ。
ただ、
あのころは少しは興味を持たないと、
あるいは現実に疎外されていないと、
接続するためのハードルを乗り越えられなかった
そういう意味では、
何かを求めていたのかもしれない。
さらに、時代が遡るほど、その家庭の経済力や、家庭のコンピュータの設置率や家族の理解度などが物をいうようになるのだろう
コンピュータに造詣の深い、濃ゆい人間のみがインターネットに入っていた、ということ。
けれども最初期の人は案外、ただ接続することそのものが目的だったのかもしれず。高い山のようなもので。
それ(個人的動機)以外の要素としては、組織
まず国、大学
それに出版
あとはIT(当時はITといったのだろうか?)、コンピュータ関連の技術者
あとはSF好きや本好き
などなど
なんかそんな感じがする。私がネットに繋いだころも、なんか、人はこういう配分で、ネットに存在していたように思う。
あとは精神分析の人とかも案外早かった気がするけど、それはSFとか本からの流れにまとめれそうな気はする。
*
「働く青年と教養の文化史」では、高校進学率が上がり、また、高度経済成長によって、勤労青年たちが働いて定時制で学ぶような意欲が冷却され、むしろ定時制に行きたくないという人のほうが増えて、人生雑誌というものもその必要をなくしていった
というふうに書いてあった気がする。
いまや「逆張り」的な反知性主義的知性主義的、反エリート的な修養の姿勢も溶けて、エリートという存在自体も溶けてきているように思う。人文社会科学とビジネスが入り混じった動画メディアプラットフォームの乱立も、自己啓発や修養、また教養主義やノンエリートなどの関係で捉え直すことができるかもしれない。
もうそのようなものが完全に河口域、あるいは海へと流れ着き、先後が判然としないものとなってしまったようにも思える。そしてこれがいいことなのか、これからの教養や修養、働きながら自身をよりよい方向に向かわせるための学びのかたちはどこへ向かうのか。
そんなことにも思いを馳せる。
その構造と、社会の要件、人の考え。
*
評価システムの構造的失敗
(Twitter)看板はずしてはるらしい
じゃあこれ以外のやりかた
「修養」の日本近代
自分磨きの150年をたどる
大澤絢子 NHK出版
を読み終えた
現代のオンラインサロンまで通じるところと、
松下幸之助やダスキンの鈴木清一などの企業と宗教っぽいものや宗教との関わり
それから明治維新後、
日清日露戦争後に現れた青年たちに
教えるべきことを考えた人たち
価値観が露頭に迷ってただろうな、とは思う
イギリスの西国立志編のもとが
貧しいリチャードの暦?だったかで
そこはチャップブックと繋がるのかな?と思ったり
チャップブックも成功の秘訣とかハウツー本が
売れてたというし、
そういう意味では、連綿と続く、自分をよりよくしたい、という現れのひとつとしてお金、社会に乗り移っていったり、自分自身の精神性(これは測るものがないので、自助努力もほどほどに)に立ち返ったりする
自分への投資は誰からも奪われない財産になるみたいな話にも通ずるものがある
ただ、シンプルに、
行いが還元されて戻ってくること
そのための心構えや行動の指針
その時代における、必要なそれは
さして変わらない、人間というもの、また人間社会の構造というものの基本はなかなか変わらないものなのかな、という印象。
あとは自分の働き方や、会社の経営方針とかもモロにこういう流れを受けているんだなという実感。
ただ、自分は脇道にそれたいなと思いながら働いている。得たものを還元せず、自分を(会社や社会のためには)高めず、かといって自助努力らしい自助努力もしないように、これもおそらく初期のネットの作法?のようなものから受けている、ちょっと冷笑的ともいえる、自己啓発の一種であるのかもしれない。
ネットによって、「あれもこれも」と、誰かの書いた生き方、日記、はてな、ブログ、SNS、○○するべきこと3選みたいな記事やなんやを読んで組み立てた、その根源のよくわからないものを読み
半年ROMってろの教えを胸に生きてきたわけだが
このオンラインサロンしかり
ペイウォール的なものが増え、フリーですべて公開するはずだったインターネットがセキュアな支払い関連技術の発達によって、制限的な利用が可能になってしまったため、
半年ROMるにはまずは(課金して)飛び込め!みたいな世界観になってて、そういった自分を高めるためには必要な課金であるとか自身を納得させて、
「せーの!」どっぼーん
みたいな踏み切りかたをしなくていいのがネットの良さだったのに…とは思う。でもこれは、今までが無料すぎただけであって、今の社会と入り混じったネットにおいては、正当な対価を得るということもかんがえなければならないのかもしれない。
いやー、でもなー
なんかなー
*
今日電車で何気なくKindleアプリを開いて
パソコン通信黎明期の書籍みたいなやつを
買ってたな、みたいなやつを
読み始めた
おもしろい
昔はモジュラージャックなんかなくて
というか法律的にもいじれないし
いじれるようにもなってなかった
電電公社の頃は
それが1985年? 民営化
音響カプラという受話器に被せて
音を拾ってデジタルに変換する機械を使って
通信していたのでノイズを拾わないようにするのが
大変だったと
個人がホストになっていたのだと
この、無料で、草の根で、ホストになる
という流れは
ネットのある種の根幹
というか初期のネットに共通する
「俺たち」、古くはアメリカ西海岸の思想、的な
何か、フリーというか、
インターネットの考え方の一種
そういうのがいつからか消えたというか
知らなくてもいけるようになってきた
当たり前になって
知らなくても使えるんだから、そりゃ使うよね
なんかさびしいけど
叩き込むわけにもいかないから
インターネット老人会とか自虐めいて
言わなきゃいけない
つながるかどうか試す人
トンネル(インフラ)を開通させる人
インフラで走らせる規格を考える人
論文の論理構造を記述するための言語
本来の使われ方ではない
H1タグを見出しに使わない
不埒な不届者
ツールとして
接続そのものを行為、現象として楽しむ
情報として
情報の内容を楽しむ
情報取得のために利用する
黎明期には技術的、法的、経済的なハードルがあった
現在は法律や金銭の支払い処理、帯域、サーバーの問題はクリアされ、ペイウォールが出来上がっている
つまり黎明期自然に発生していたハードルを
進化した(つながりすぎた)ネット上での
切り離しのために
再度、仲間と集まるために金銭を支払って壁を設ける事になった。
(ここでの”仲間”は地縁ではなく、後天的な趣味や嗜好によるもの)
そして、こことオンラインサロンや「修養」という概念はそこそこ近しいようにも思う。
すでに、技術的に「つなぐ(つながる)」行為は当たり前。その先の問題である、どうやって、よりよく?生きるか、自分自身を新しいものと出会わせるのか。
そういった課題のために、
ビジネス系の動画メディアやクローズドな課金システムによる小集団やファンクラブ的な場所が設けられている。
ホストへの対価の不明瞭さ
好きである。応援したい。興味がある。参加したい。
自主性が求められ、かつその対価のゴール設定も自身に求められるため、これも「修養」、いやもう人生といったほうが早いかもしれない。
自分の人生にとって必要とするものを、
取得できる情報の内容によって取捨選択し、
可処分時間にざっくりと当て込んでいく
パッチワーク、この対象が
いくらか対象化(名詞化)できる場合が「推し」な
気がする。
たとえば円盤を買って、推しを生み出すクリエイターの(アニメ制作会社の?)経済基盤(財政基盤?)を支える(とはいえアニメ制作の現場にはお金が降りてこないとも聞くが)
自分の才能(誰にでもあるそれ)と人生(切り分けたとき生活となるそれ)に寄り添った書き方
風呂で頭を洗いながら
音響カプラのことを考えていた
そもそも法律的にモジュラージャックみたいな
電話をいじるようなことが1985年まではできなかった
(民営化まで)
ここからまず考えないといけない
そして音響カプラ
音によって、パソコン同士のデータ通信を行う
送受信を
そしてホスト(サーバー)とクライアント(端末)の関係がある
ただ、この頃(1986年?7年?)のそれは
実験的で草の根的でラフであった
まだ
そこまでホストとクライアントの距離は遠くなかった?
じゃあモジュラージャックから電話の線を差し替えてモデム機能のあるパソコンに繋いでピーガーっとやってたあの頃の自分はなんだろうか
ピーガーは「開けゴマ」だったのだろうか
逆に音響カプラの頃はすべてがピーガーだった?
プッシュホン的な?プッシュホンがもっと細分化された、少なくともキーボードで打てる字(英数字+記号)に対応した音色によって送受信を行っていた?
フロッピー(媒体)との違いは?
その時打ったもの(その時までなかったもの)がデータとして現れ、すぐ別の場所に転送され表示されること。フロッピー(のデータ)は、その場にないとどうあっても現れることはない。
おそらく紙にパンチ穴を開けたものも同じで、データが保存された媒体はその場に既にないと出力できない。
通信はその場で生み出して、ホストに表示したり、残すことが出来る。
その場で生み出す、ということが、おそらくネット詩とか、たくさんのWEB上の日記や、SNS上の投稿の多くが持っている刹那性と関与している。
これに歯止めを掛けるのがその意味内容が現実世界の何らかの常識や法律等に抵触していた時や、自身がピン留め(いいね!やリツイート)したくなる魅力や、示唆に富む場合であろう。
(その対極にあるのが
片や炎上、片やバズである。)
本来であれば、開示請求されない限り、あるいは投稿者が現実の社会的存在と紐付けを示唆している場合を除いては、投稿者というものは見向きもされないものである。
この人は現実社会において誰であるか?を知ろうとする発端。
その発端を表現において掴もうとすることは難しい。というか殆ど無理であろう。
誰しもが自身の日常に折り合いを付ける。
もしそれが嫌なのであれば、
自身の現実の所属集団を、少しずつでも表現の方向へと近づけていくことぐらいではなかろうか。
その場で生み出して通信網に乗せ、インターネット上に表示させるということは、査読や検閲がない、「自由」につながる。
言い換えれば情報の内容(コンテンツ)の品質を担保するものが自分自身以外に存在しないものを公開できるということである。
インターネットが疎だった頃は、その責任を殊更に問う必要がなかった。
…と、思っていたのだが、これはおそらく途中からで、その前、つまりパソコン通信の黎明〜インターネットの最初期などは、逆に、事実上のSNSと変わりなかったのではないか?などとも想像する。
ほぼ研究機関や大学や情報通信に関心があったり、もの好きな人だけがやっていたのだから、誰かわかってしまうし、実名で始めてしまっているのだろうし。ここは完全に想像で書いてる。
で、そこから若〜青年層とWindows95、98あたりがバッティングしてから、まだ何者でもない人間がインターネットに入ってきたことで、匿名性の高い、疎なインターネットが始まった、という見立て。
そして、青年〜中高年層はホストして彼らを迎え入れた(詩の投稿サイトのBBSなど)
彼らは文責を気負うこともでき、また、気ままに書き殴ったりした。
ただ、おそらくだけど、この当時の姿勢によって人生をどう進むかはある程度規定されたのだとは思う。
逆に言えば、ここでの本気度によって、自分が進む道を、自分自身の書いたもの、書いたものを公開するときの姿勢などで気付かされるというのか。
私は、文学にほとんど興味がなくそのクラスタにやってきたから、最初から本気度は低かったが、何者でもなかった。大学にも行ってない、ひきこもり、あるいはニートだった。いや、ニートだ。
私は上京した表現者に目を奪われていた気がする。
彼らは日記をつけていた。
日記も詩のようにみえた。
ただ、日記から垣間見える
彼らの生き様だと、私は早々に死んでしまうので、当時は無意識で離れた(近づいてもいなかった)。今思えば生存者バイアスというものを
感じていたのだと思う
生き残った人だけが語っているのだ、と。
そういうふうに、私は文学に対する素養も真剣さも持ち合わせていなかったし、上京しているわけでもなく、詩のクラスタにいるわけではなかった。
そして私がネットで(主に文字を)見ていた人たちも、
ともちゃん9さいさんは演劇だったし、
ミキさんは音楽だったから、
元々根っからの詩の人という感じではなかった。
だからこそ、細かい詩論?みたいなものとか、これとこれは読んどけ、みたいな雰囲気よりも、まずパンチの効いた詩を読んでおもしろいとかすごいとか思って興味を惹かれたのだった。(気がする)
この頃の私は、自分は一生家から出られないのではないか、と焦燥にかられながら、ほぼ一日中ネットしてた気がする。交流はなく、ただ一方的に読むだけであった。
*
思ったことをすぐ世界に発信する
ではなく
論文を世界で共有する
でも最初はハローワールドだった?
致富とは関係ない世界であった
いやまた他方では大量のお金が注ぎ込まれる
軍事や大学といった世界から始まったものでもあった
ただその技術が民間に開かれるにあたっては
高度経済成長を終えた先進国の中間層が
興味本位で接続することで
「成功」や採算性、マネタイズを度外視した
ビジョンのない純粋な行為として
接続や交流が行われていた
その同質性や共犯性?
西海岸思想?
とはまた違う、マニアック
ホビイスト
成功や自己啓発が持ち込まれない空間としての
初期インターネット
こないだの大阪行きの時ふと読み出した
Kindleの「日本ネット前史」最近
仕事のお昼休みとかに読んでると
元々マイコンとかハムの人が接続を試すところから
(ネットではなく、パソコン通信ではあるけれども)
始まってるのだなぁ、と
なんかインターネットの思想とか西海岸とかフリーとか
そういうのもあるのかもしれないが
むしろそういうのは後景になって
家の電話を一時間空けて
とか
秋葉原で留守電を取る機械を買ってきて改造して…
とか
なんかこうマニアというか、
和室界隈というとよくないかもだが
なんか日本の家でマニアやホビイストが
試してたり活動していた
のがインターネットの前の、
個人がホストもするパソコン通信の
技術的なテストの段階だったのかと
ただ、ネットとかパソコン通信の
接続のハードル、容量の制限などが
なくなってくると汎用性が広がって
つまり、
一部の人のテストという段階を超えてくると
情報の内容、コンテンツそのものの
多様性や、その場所(?)の意味や利用法についての
考え方が古今(インターネット前から考えられてきたこと、インターネットがあるからこそ考えられることなど)東西(西海岸から極東まで)から蒸し返され
原理的な主義思想も現れてくるのかも
つまり画像が十全に転送できる帯域を
送受信者双方が確保することによって
イラストのアップロードと閲覧による表現が
標準(デファクトスタンダード)化する
当たり前の行為となる。
そのとき、ホビイストやマニアでもなく
何者でもなかった人間こそは嫉妬するだろう。
私たちのインターネットの使い方、触り方
つまり作法によって制限されていた自由を大きく越権した素晴らしさをのびのびやっている。
才能と嫉妬(スパイト)の関係と
エリートとノンエリートの関係
権威性と反権威主義
知性主義と反知性的知性主義
多少の異同はあれど、構造としては似たものを感じる
人間の常?
さらに、この構造を生み出す構造は
「生まれ」と、どう生きてきたかによる
気がする。
どこにどう生まれ、どう生きてきたか、によって。
それから「会う」ことによって。
そのように別々に生きてきた者同士が
どちらか一方が、実体、集団、もしくは彼らの表現媒体に会うことによって、始まる。
現代では、実体(街ですれ違うこと)によっては
なかなか発生する頻度は減ったのではないかと思うが、
少し遡れば、制服によって、人種によって、そのような構造に「会う」ことは多かったんじゃなかろうか。
これは完全に想像だけど。
ここで見落としてはいけないのは、
たぶん、すべてのものごとは時代によって、頻度や目にすること(機会)は減ったりするけど、完全にゼロになったり、なくなったりはしてないということ。つまり今だって制服を見て傷つく人もいるだろうし。
(これは「働く青年の教養文化史」の、人生雑誌が廃れたからといって、そのようなものが必要な境遇の人がゼロになったかといえばけしてそんなことはないのと同じように。ただ、時代の趨勢によって、社会構造が変化することで、母数(つまり社会的な必要性)が減少し、立ち行かなくなっていくということ。)
そして、この「減少する母数」を
極小にしたところでも、その機能を信じることが「詩」に近いようにも思う。つまり詩は社会的機能を「もつこともあるが」それは必要条件(必須条件?)ではない。
他者の表現するものごとや見て取れる境遇から想像することと、自身のそれを照合することで生まれる差について考えること。
あの日みた、家の太さ
(あの日みた、雪の白さ。 るろ剣の何話かのタイトルだったはず、うろ覚え)
ネット上では、家の太さはわからない。最近Twitterのおすすめのタイムラインでチアーヌさんの家の断捨離の写真が出てたけど、蔵書の量が半端なかった。
要不要関係なく、体系的に、全集のような本が揃っているのを見て、ああ、書き手はこういう境遇を
隠し持っているのかもしれない
昔から思ってたけど、やっぱり、、、みたいな気持ちにもなった。
嫉妬とかはないけど、ネットだと、詩からは家の太さは微塵もみえない。
「家の太さ」は比喩であって、バイタリティと人的リソース、社会的資本によって、それ(実家?の経済基盤)を凌駕してサバイブしている人もいるが、それも生存バイアスが掛かっていると考えた方がよいように思う。
その上で、自身のそれを照合し、自身の生きる道を算定する。なんかそういうのが大事なように思う。というか、結果的に、わたしはそうして生きてきてしまったし、生きてる。
*
おすすめのタイムラインで、たまたま腕木通信の画像を見て、添えられた文章も見たけど、思ってたよりめちゃくちゃ動きが速いっぽい。
もっとのっそり動くものかと思ってた
あとそこに書いてあったのが、手旗信号より…
という文章があって、ああそうか
人間、生身でも旗さえ持ってりゃ信号は送れるのか…と。発見(盲点?)
接続のハードルが低くなることによって
内容の多様性は担保され
インフラとして設備、プラットフォームは後景(当たり前)化する
そこで何を(表現)するかが全(前?)景化してくるとき、
特殊な履歴がない、あるいは自身の水準からそれを見つけられない人は
意外とコンテンツをリスト化し、それは平準化しやすい。これは昔から人間がやってきた分類に近い。
自己紹介
趣味の部屋
日記
掲示板
リンク集
PROFILE
WORKS
BBS
LINKS
とかでもよいのかもしれない
媒体のガワのデザインや導線やユーザビリティ
UX?
アフォーダンスまで自身でコントロールできる
コントロール、または管理したいがために
ブラウザ毎に異なるHTMLの解釈に苦しめられつつ
OperaとNN(NC?)とIEを開いて
コンテンツそっちのけで
同じ表示になることに躍起になってた
創造性を発揮できる範囲が予め決められている時
ヘッダー、アイコン、
フォロワーとフォロー、つぶやき(コンテンツ)とリツイートといいねの
有機的な絡み合いと裏で取り交わされるDM
これでも十分すぎるほど豊富で
何もない自分に気付かされることもない
等身大のまま
日常がつぶやける(し、盛ってもいいし嘘松でもいい)
新しい場所をもらって何か構築するときと、初めから関係がガヤガヤしている場所にアカウントを取得するときの違い
更地を目の前に腕組みしてうーん…と考える(夢も広がる)のと
渋谷スクランブル雑踏にえいやで飛び込むのと
どっちが好き?
母ヒス構文
概念の発明、発見
多への貢献
詩は対象が1人以下でもあり得る
むしろ対象が1人以下〜1人でもよいぐらい
というか、よいとかわるいとかの話ではないぐらい
日記と似るのはその性質だろうか?
(7/30 下書き保存)
(9/18 読み直して追記、添削、修正などして
もう疲れてきたから投稿)
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