0706

あさ。精神分析の歩き方を読了。わたしはほんとうに読了したのだろうか。読了とは何か?
まあそれはいいとして一点。わたしがひきこもりで環アンなのもあるからかもしれないが303ページ。

安心安全が保障された無菌室に暮らしていても、何か物足りなさを感じてしまう。そういうわがままさを抱えているのが「現実の人間」でしょう。斎藤の言う「無駄」なことに悩み面接室を訪れるクライエントと共に、私たちは日々の臨床を営んでいます。その人たちにとって、愛や憎しみの問題はまったくもって「無駄」なことなどではなく、彼らの人生をかけた悩み事なのです。

精神分析の歩き方 p303 山崎孝明 金剛出版

ほとんど頷く箇所しかなかった本書において(ライン工がどこに頷くねんというツッコミは措くとして)ここだけがちょっと引っかかった。
これをそのまま出してきてもわからないので前段、つまり「無駄」についての引用。p302

ODを推進する斎藤環は「個人精神療法は、その構造的必然として権力関係になりやすい。一方は患者、一方は専門家にして治療者。この非対称性を乗り越えるのは、わかっていても容易なことではない。また二者関係は容易に密室化する」と指摘し、「転移感情とは精神療法の副作用にほかならず、生じないにこしたことはない無駄な感情だったのである」(傍点筆者)と述べます。

同 p302

えーと、まず、ODはオープンダイアローグのことです。そして「傍点筆者」は「無駄な感情」に振られています。あとごめんなさい、もしかしたらこれは孫引きなのかもしれない。山崎さんが引用している斎藤環さんの原著は「オープンダイアローグが開く精神医療(日本評論社)」で、わたしは一応この本と、斎藤環さんが監訳してた「オープンダイアローグ」(なんかあの焚き火みたいな表紙のやつ)は読んだ記憶があって、なんか、この「無駄な感情」のくだり、読んだ気がするし、そのときもなんか膝を打つようなところがあって、まあ山崎さんはそういうのは合理的すぎやしないか、人間もっと不合理なものであり、そのへんを扱えるのはやっぱ精神分析でしょ、という感じではあるが、すごくメタに精神分析界隈を取り巻く状況論までいってるところがめちゃくちゃおもしろいわけだが、なんかこの「無駄」に関する部分はちょっと、体感的に躱し切れていないというのか、一瞬くもってるか、ずれたような印象をうけた。

もっかい言っとくと、個人的にはほとんどアグリーであるし、「現実の人間」う〜ん、イマジンフォーザピーポー、コロナのとき(1〜2年前ですかね)、なんか待機してるホテルから抜け出す人とかいてニュースになってたでしょ?コンビニ行きたかった…彼女に会いたかった…みたいな。人間ってそういうとこあんじゃん?みたいな。待 機 し ろ! っつってんのにさ。なんかそう言う意味でもすっごいわかんだよね。
でもさ、斎藤環さんが言ってる無駄はそういうことが無駄だって言ってるんじゃなくて、精神分析医?と差し向かいでやったときに生じる謎の関係性みたいなものが無駄なんじゃないかって言ってるわけであって、なんかそこだけちょっと気になった。

で、p304になると、この続きに対する答えのような感じになってきて、つまり、オープンダイアローグはある意味もう「社会」みたいなもので、クライエントを取り巻く社会を持ってきてうまく回してそこで治す、という感じだが、精神分析は一対一でやるからまた違う、っていう話になって、またここは理解できるようになるというか、むしろすごく腹落ちしやすくなる。それだけに最初に引用した箇所だけがちょっと引っかかった。

つまり、うまく整理できるか自信ないけど、斎藤の言う「無駄」は精神分析の副作用としての転移感情であり、一般的(措く!)な意味での愛や憎しみの問題のことを言っているのではない。
そして、斎藤は愛や憎しみの問題のことを「無駄」と言っているわけでもない。
というか、この話の流れだと、精神分析では、本人がもってる愛や憎しみの問題を、自分たちが関わったあともほとんど質的に何も変えずに保ち続けており、それを転移によって解釈し直して本人に返していく作業、というふうによむことができ、なんかその関わったあとも面接にくる前の愛や憎しみの問題を治療者抜きでそのままもっているかのような…うーんうまく言えないな。

読んだとき、スマホにメモしたときのやつをそのまま載せると

斎藤環さんが言ってるのは
力動的な意味での転移というか
感情を跳ね返すとか
送り込むみたいな

幻想だったんじゃないか
って話で
愛や憎しみを転移という概念で
くくる必要性みたいなもののことを
無駄だったんじゃないか
って仰ってる気がして
山崎孝明さんは
それに対して急に極めて一般的な
意味での愛や憎しみについて
「無駄」に悩むのが人間であり
不合理なことを抱え込むのが
人間のほんとのところだと
仰ってるところが
なんかちょっと
ずらしてる気がした
これは最初の
精神分析を使いたがってる
姿勢が最後の最後に
緩んで出てきてしまったものか
単に息切れしたものか
ロジックとして躱しきれなかったのか
定かじゃないが
ほのかに無理筋じゃないか?
というにおいがした
介在する人数分の転移があればいいし
転移という循環自体が
拘禁反応的に作り出されたもので
あって
山崎孝明さんがいう愛や憎しみをその場でわざわざ新規作成する意味、つまり悩みとしての精神分析をまたそこでやらなきゃならない意味はあるのか、それは
卸、仲買、問屋的発想で
あるいはかつて漫画の版を彫ってた人、あるいは活弁士、あるいは馬車の運転士、
なんかそういう人にも似てくる
ただ、私は精神分析じたいは
というか、このくだり以外は
とくに納得いかない箇所はなかったので、基本肯定的人間捉えているのは付け加えておきたい
彼らの人生をかけた悩みを
かける場所を
その手続きとして相応しい
やりかた
また、半社会的なODか
極めて個人的なセラピーか
という部分では
つまり公共空間か
少し曖昧な場所かといった話ならわからなくもない
一瞬だけロジックが曇る
303
草魚
キノコ帝国
まのみき
カルトとポエム
心理や精神分析はそこまで実際に接したり考えて出した結論だと思われてない
パッと閃いたものだと思われている

わいのスマホのメモ 7/6 3:31

そうそう、斎藤環さんが言ってるのは精神分析の愛や憎しみって「拘禁反応」になってない?みたいなことで、山崎さんはそのカウンセリングの門戸を叩く人が娑婆で抱いた愛や憎しみのことをおっしゃってる。
そこがずれていて、最初に引用した文章のふたつの「無駄」も、厳密には同じ意味ではないであろうってとこが、わたしにはちょっと引っかかった、ということなのだと思う。

メモの後半部分については、少し読み進めるとちゃんと出てきた(ODは社会(私のメモだと半社会)、精神分析は現実の人間の不合理に対応する、という図式)。

ついでにメモの最後の草魚とかのあたりは「信じる」のくだりを読んでいておもいだしたもののメモ。

草魚、まのみき、は詩。きのこ帝国は歌。

すべての部屋には鍵がかかっている
という想像が
現実のすべてのドアを開かなくさせる

chori「ガール」より(草魚じゃなかった)

つまり、どこに惹きつけられたいのか
何を見たいのか
転じて何を信じたいのか
何を信じないって信じているのか

ミキ「5月4日 ジングルジャングル2 奇聞屋 ミキ全朗読詩」より

なぜ疑うことだけ上手になるの
誰かを信じたい それだけなのに

きのこ帝国「ラプス」より



カルトとポエムはそのあとの最終章を読み進めたときのメモ。
最後の2行はわたしが精神分析や心理?や精神医学の本を浅学&管見オブ管見にワンモア管見を架したうえでいえば、要はカルトとか眉唾ではなくて、ああいうのはすごい人をたくさん見てきた人がそれなりの結論を導きだしたものであって、そうそう間違ってるとかいうようなもんでもないってことが言いたかった。わたしは以前もっと発達心理学とかもなんかパッと閃いて赤ちゃんとか幼児のありがちなパターンみたいなのを名付けてるんじゃないか、精神分析もそういうとこがあるんじゃないかと思ってたけど、よく考えたら専門にそればっかり見てるんだからそれなりの裏打ちはあるんだよな…みたいな多少の納得感みたいなものは出てきた。ただそれが定量的にガッツリでてきてエビデンスにならないだけで。まあそういうのもありかな…と思えるようにはなってきた、というのがつい最近。

しごと

精神分析アイドル、精神分析フードコート、精神分析食べ比べセット、精神分析めぐりツアーin白金台、ぶらタモリ精神分析編(受けてる途中にタモリの頭に!とか?が浮かんで「これが転移じゃない?」「さすがですね」とか言われる)

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