わいの平成詩史8

※今回の文章はかなり昔に書いてずっと下書きに置いていたものです。内容的には重複する箇所もあると思います。この文章の元のタイトルは「超主観ネット私詩史1」だったそうで、まあ今とあんまり変わらないこと言ってますね。こうやって壊れたラジオみたいに、同じことばかり なぞり直してどうなるのかと思わないわけでもないですが、一回全部棚卸ししたいという気持ちもあるので、もういったん全部出してしまいます(ずっとメモに置いておくと、ふとした時に、こちょこちょ触る(拘う)ことになるので、そんなのがたくさんあると、とにかく くたびれてしまう)


超主観ネット私詩史1


誰に向けてなんのために書いてるかわからない文章は心細い。

自分みたいな人が読むのだろうとなんとなく思いながら書く。

そのほとんどは公開しない。

たまに全部バーっと出してしまおうかとも考える。

今がそれ今がそれと思いながら

すぎていく
きづけばもう40ですよ

ほぼ引用はない。わたしが憶えてるニュアンスや携えたフレーズのみで構成されている。

他者:そんなことは書いてないし言ってない。おまえの記憶違いだ。

オッケーブラザー。

1998年(注:1999年です)。

ネットに繋いだ。専門学校で買えと言われた

東芝のノートブック型パソコンSatelite2520と、家の電話線を繋いだ。

Windowsのフリーソフトを500個ぐらい詰め込んだCD-ROMが付録についてる雑誌を買ったら

その中にぷらら(プロバイダー)のお試し接続用CD-ROMもあった。

昼ごろ壁掛けの電話機のお尻から線を抜いて

ノートパソコンを床に置き、部屋と部屋の敷居の上で

膝をついて前屈みでやってた気がする。

本当に右も左もわからない

とにかくdynabookのどっちかに電話線をさした

プロバイダの接続は無料だったが、電話代はそのままかかって

母に電話代がすごいことになっていると聞いた記憶がある。

当時は友人から借りたバーチャコール3というエロゲをやってた記憶がある。

2001年9月某日

日本WEB詩人会(通称ぽえ会)に入会申し込みメールを発信する。

実際にはこれ以前にもネットで詩をいくらか読んでいるはずだが、

この日をわたしにとってのネット詩スタートと制定する。

その後は、ぽえ会で詩を読み投稿する生活が始まる。

あれは詩投稿用のCGIなのか知らないが

専用のCGIみたいのがあった。

清水鱗造さんのとこでも使ってた気がするのでなんかしら汎用の

投稿用フォームだったのだろう……

リンク貼っとくのでみてみてください(注:貼ってません)

ああ、これねってなる人はなるはず

ぽえ会は自治ができていてこれといって荒らしもなく

水が合わなければ他にもいろんな主旨や雰囲気をもった投稿サイトがあった

土地勘的に、なんか全部の文芸ひっくるめてやってる

プロ詩とか批評求むとかやってる感じの一帯があって

なんかそのへんはあまりみなかった

みなかった、ではないな

あとからそういうのもあると知った

ジャンル分けがされてて、文字ばっかりのとこで

なんかあのへんは「遠いなぁ」って感じだった

Verse-Verge?とかArkとかPoetic Tree? Free?は読まなかったけどまだ近くて 恍惚の宿木とかはすごく後に知った 詩板とかも そういうのとUroko cityは、またちょっと違う感じだった

そして後述するPoeniqueはどっちかというと、Verse-VergeとかArkとかPoetic…Tree?に近い系統のサイトだったかとおもう で、ぽえ会はそういうのともちょっと違う感じだった(まあ、それぞれに所属していた人はそれぞれにそう言うだろう。自分のいたサイトの特色と、それ以外のサイトの同質性)

My Dearとか、あともうひとつそういう感じのがあった気もする(木馬館?違うか…でもわたしの中では同じ引き出しに入れてた気がする)
忘れた
My Dearはなんか「やさしくとおくにある」っていうイメージだった

あとさっき書いたプロ詩がどうこうみたいな地方は、なんか「小説家になろう」っぽい感じだった
だから、わたし的にはなんか「ちがう」って感じがした
治めかたがシステマチックというのか…なんとなくイメージでそういうふうに思ってた気がするし
そのサイトの中で詩というのはあくまでひとつのジャンルであって、詩だけじゃないというのもあったかもしれない

文芸のくくりでどのジャンルを扱うか
どのように自治を行うか(擬似的に会とするか、単なる投稿場所とするか、現実の知り合いとの交流の場とするか)
自治っていうと、あれだけど、目標というか、要は「どうしたいのか」みたいな話があって、それの濃淡によってさまざまなサイトがあったということになる

Uroko cityはぽえ会と同じCGIで投稿掲示板をもうけていたけど
ほかの詩投稿サイトとは違うというか少し老成した雰囲気を湛えていて
どちらかといえば現実に出版とかいわゆる詩人として活動している中高年の人(いや、当時はまだ若かったのかもしれないが)が集まってしっぽりとした感じのサイトっていうイメージだった
リアルで知り合ってる人がネットでも書いてるみたいな感じ

のちに灰皿町という詩歌句街的なものができて、なんかウェブサイト内の地理感覚をさらに地理化したような感じがおもしろかった。自鯖に人を住まわせるという発想、当時だと、ところどころあったような気がする。

これと寄稿の差はどこにあるのかという点もあるけど、スペースだけ与えられてHTMLなどのアップロードを個人で行えるというのが大きな違いだろう。寄稿であれば、コンテンツとしてのテキストをコピペ(流し込まれる)だけだが、自鯖に人を住まわせると、人はそこにブログを入れてみたり、写真を置いてみたり好きにする。主旨というか、裁量のメタレベルが上がるというのか、そこにあなたを存在させます、という主旨と、ここにあなたの文章を並べます、という主旨では、表示結果として同じでも、なんか違うみたいなことがある気がする。

※ かなり話がずれてきたが、以下は「後述するPoenique…」のあたりからのつづき

Poeniqueもそんな感じ

まあよく知らないけどなんか怖いよねってか

別に外を知る必要を感じなかった
ほかにもぽえ会みたいのがあるのだな
とおもいながらぼんやりすごしていた

あとは個人サイトというのがあった

個人サイトにはバナーという表札みたいなやつ(厳密には全然違う)があって、あ、今おもいついたけど「ワープできる名刺」!

お互いにそれを貼って、リンクをつけて、わたしの家からバナーでお友達の家に飛ぶような交流をしていた

個人サイトにはプロフィールと日記とBBSと趣味の部屋とリンクがあればだいたいオッケーな感じだった

趣味の部屋のとこに詩とか写真とか絵があれば なおオッケー

でも一番おもしろいのはおもしろい人の日記だ

このおもしろさというのにも個人差があるし、おもしろく感じるきっかけというのも千差万別だから、何気ない人の(発表される限りにおいての)日常や思いをなぜか追うことに人は没頭する

詩で「えっ おもろ」ってなった人のエンピツの日記を読んで

時間があれば最初っから全部読んでいくのが楽しかった

ともちゃん9さいの日記もよかったな

日記のタイトルがPPPP Jellyfish badgirlみたいなよくわからん文字列で

未だに思い出せない

検索したら たぶんもう消えてた

たぶんもう消してて、今残ってるのはけっこう最近作ったブログで

そこでも同じような文体で書かれているが

少し丸いというのか優しいけど、なんかもう「その世界のこと」で

書かれてる感じがして、そこがちょっとさびしい

読む人を認識してしまってる文体2.0

そういえばともちゃんはサイトサイトしたサイトは持ってなかったなとふと思う

一時期NAVERとかでカオスな構成なサイトがあった記憶はあるけど
基本的にはエンピツとかブログで、ポータル的なサイトというのがなかった気がする

阿部寛のホームページみたいな最低限の気遣いしかないものにときめく
ゴージャスでリッチな体験は要らない
あまりこっちを意識してないような
その日のことをぐわーっとはきだしたもの
公開する以上、当然読者は意識してるはずだが
案外混濁していて、自分が校閲しきれてない感
逆に「ここまで書いちゃった」感ばかりが
鼻につくものはさめる
吐き出す時にあまり読者を意識してなさそうな地頭のいいクレバーなひとの日記
最初からそういえばよかった

はなしがそれたが、まあ

完全に個として閉じているという実感を持っているときの人が書く文体
それが好きなのだが
人は摩滅していく
人にわかるように書いていく
バンプの声がなんかちょっとふつうっぽくなってきてる? みたいな
みたいな

それはともちゃんさんがアルバムを出したときにも感じてて

でも本当にApple Musicとかで検索してともちゃんさんが出てきたときは

感慨深かったけど、

なんかそういうのがあった

辿り着くには、少し尖り具合がどうしても摩滅する

そして万人(数人)に伝わりやすくなってる

大抵それはなんか、いいことなんだけどさびしい


世に、うって出るときにちょっとカドが当たってとれてしまうのかな、本番ってそうなってしまうのが世の常なのかな、ひとはひとりではうんぬんという一番嫌いで当たり前なことばがまた出てきて嫌になる
彼らはあんがい本番の緊張によわい、なんかやわらげるために直前によけいなことをしてしまう
わたしは「骸様はこのような場ではマックスの三分の一も力を発揮できないのです」的な幽白の台詞をよくおもいだす。
魔界トーナメントで優勝するのは結局
煙鬼とかいう闘い慣れた魔界の中年のおっさん(鬼)だった
タンクトップとかだったんじゃないか
世界というのは常にそういうものなのかもしれない

でも
そのままはできないのかな、といつも心のどこかで思ってしまってる

思ってしまっているけど
次から次へと人は変わっていくし
それには祝福で応えたりそっと離れたりしながら対応している

それって、
マックスを知ってるから祝いきれないというのかな
外に出て、少し勢いが減衰してしまったものをくやしくかんじてしまうけれども
本人は満足してて、みんなも祝ってて

みたいな

なんか

そんなことない?



それはずっとある

そして当人にも
俺って本チャンでは絶対なんかやらかしてしまうな…って自覚も
うっすらとは

あるのだろう

だから、この家でやってるいつものこれを出したいと思ってるのだと思う

それは分かり合えている

お前ほんとうはそんなもんじゃないだろう?そういうんじゃないだろう?と思ってみんな

芸人やテレビや詩人やメジャーにいったミュージシャンなどを見ているかもしれない

でも
出るってそういうことなんだろうな、とも思ってしまう

わたしだけが知ってる感、知る人ぞ知る感が減って

人はひとりで生きれないって言葉は本当にだいっきらいだけど、

なんかまじでそういう系のやつなんだろうなと思う

それを受け入れちゃうとあのときのあの感じは消えてしまうのだ

百万回生きた猫っぽさは消えてしまうのだ

ともちゃんさんは北海道から東京にきて

なんか書いてたらいとうさんがあなたにはなんかあるみたいなことを言ったらしく

それで詩会(Poeniqueのなんか)でたまに優勝して喜んでるコメントがあった

「あけましてお」で優勝してたのかな

ともちゃんさんの詩のタイトルの付け方は

「あまこえにと」にしろ
なんかデモ音源とかにつけるタイトルみがある

それに、この感じは
私はアスキーの音楽制作ソフト「かなで〜る」というので

昔遊んでて、その曲を保存するときに仮タイトルをつけるのだが、そのときのかんじが
「あまこえにと」とよく似ていて、とりあえず保存するときの「感じ」と「響き」が

非常によくマッチしていて、あまこえにとはなんか起き抜けのふにゃ?感もあって、いい感じである

朝、起きた時横にいるもののようである、身近な存在である
レースのカーテン、晴れである、ワンルーム

対して「あけましてお」は
それとはまた違った、タイトル自体に結構重い意味を持ったもので
緊迫感を表しきれない子供の感覚の緊迫感がある

かつ、ある程度のフィクショナルで作為的なものを感じる(わるいいみではなく)

これだけみてもともちゃんさんの非常に賢さというかセンスの良さが見てとれる

あと、なんか速さを感じる

文体の表現するものの速さに言葉が間に合うかどうかといった速さが

ちょうどいい具合なのである。

エンピツ日記に、自身の生まれた日に置かれた日記は

何度かリライト(修正)され、現代詩フォーラムと自身のブログに置かれているが

ここに書かれている「やせほそ」やおじいちゃんが病気がうつりそうで

怖くて触れなかった感覚を書き切る速さがすばらしい

痩せ細った、痩身、じゃ遅くなる

子供の感覚を手短に伝わるように過不足なく書くときは

やせほそ、で十分なのである。

じゃあ痩身とか痩せ細ったっていう表現は何かというと、

自分自身の見栄え(こんな言葉知ってるのよ!)であったり

ありもしない他者への敬意(おじいちゃんへの愛、痩せ細っていったおじいちゃんありがとう)みたいなやつである。

なんか、こういう迂回を、とにかく ともちゃんはしなかった。

そのスパッとした感じは、

わたしの感覚だとなんか、サブカル雑誌の写真のキャプションっぽいかんじがする

写真の下に△がついてて二行ぐらいで簡潔にまとめられた過不足ない説明文。

あの的確さ、削ぎ落とし、速さが身についてるというか。

あとは、標準語で言語化するときになにかしらあるのかもしれない。

その可能性はたまにちょっと思うけど、そこはあんまり重要じゃないのかもしれないし
わからない

なんか怒ってくる人とかいそうだから基本考えないけど時々バイク乗ってるときとかにふとよぎったりする。

あとはともちゃんさんは行動力がすごいなと思ったりしてたな

ムーンライダーズの鈴木慶一に電話するとかメールするとか、えーってなる、MOTHERの音楽の人に電話して泣き言言ったりするパワーがすごいなとか

なんか鶴見済の本の紹介みたいのに文章寄せてたり

結構有名人にガンガン絡んで

ビーバップみのるが501作ってるときに動画送ったりとか

なんかいろいろやってて

躁状態で3日で100万円ぐらい使ったりとかしてて
300万か?
あと吉本入りますとか

あとは

頭ぶつけたのくだりとか

たぶん措置入院か検査の時
躁なところをむりやり寝かされて頭のとこにあった器具であたま打ったのだとおもうが
本人のじたばた加減と医者や看護師の押さえ込み加減がなんかこの一文からにじみでていて
大変なことだったはずなのに滑稽にかろやかに、いやそういう価値判断を含まず
ぞんざいにおかれてる
強いて言えばおもしろくなるようにしてある

このそっけなさがいい。ふつうだったらここは書けないというか

なんかこのさくらももこ感というか、さくらももこのコマだったらワーワーなってて

ついでに「ガン」って書いてある感じ。

こういう自分を上げもしない下げもしない滑稽さみたいなものがすごくうまい。

思い出したが、当時穂村弘が詩集を出すとかで

忘れもしない求愛瞳孔反射

ぎぎぎ…ぎずをじよう

みたいなどうしようもない詩が並んでおり

座薬を入れながらカレンダーみながら彼に電話するみたいな感じの詩で

なんかもうふざけんなと思ってた記憶がある

こんなんよりともちゃんさんの詩のほうがよっぽどいいよって

穂村弘の詩はなんかぞんざいふうみの文章を人工的に組み上げたり

人工的に抵触したりするもので、とてもよろしくないものだった

駿的な「極めてなにか生命に対する侮辱を感じます」的なものを感じたのは事実だ

「あんなもの読んでたら…だよ!」と山岡士郎のように啖呵のひとつでもきりたくなる
そういうのだった

というか、十年後ぐらいにどれだけむかつくかと思って買ったら
そんなにむかつかなかった

当時は発売前にちょっとだけお見せします!みたいなノリで

出版社のホームページになんこか詩が載ってて
それがさっきいったやつで

なんでこんなのがご本になってお客様がお金をお支払いして買わなきゃならんのだ!?えっ!?なんでっ なんでなのー

みたいな気分だった。

だからなんか昔はネットにある詩と紙媒体(本とかのことだとおもいます)の対立軸というのが

仮定されていて、臨戦モードというか、毛を逆立てていて、ネットにある詩のほうが実はすごくて、紙の本に載ってるえらそうにしてる(そんなふうに洗脳されてた時期もありました…)詩よりよっぽど良いというイデオロギーに染まってた

紙の本にネットのことが書かれてたぞ!と

村人が言うと、全員が集まってきて「ふん、このじいさん全然わかってねえな」みたいな感じで「解散!」だった。

とはいえ、ソースはなくて、すべて伝聞スタイルだった。わたしはひきこもっていたし、なんか20年ぐらいの人生で、買う(選ぶ)ということをほとんどしてこなかった人生だったので、詩のことが書いてある雑誌とか本を買うという発想じたいがなかった(でもそれについて書かれてるっぽいということだけをなんとなく知っていたというだけの人間)

で、もうちょっと年上世代は建設的にネットの詩とか未来とか展望を書くコラムとかを

紙に書いたりしてた。

で、これはなんとなく直感的にうすうす感づくのだが

シンプルに言うと

人間はひとりでその人が紙に書いたりネットに書いたりするという、

レジに並んでるひとがフォーク並びになるような感じで、紙にもネットにも書くというだけの話であって、主体がそれぞれに発露されてるだけの話であった。

だから、賎民は地下のレジへ行け、上級国民は上階の豪華レジへ、みたいなことではなかった。でもなんかネット民は鬱屈しがちで紙がネットをよく見ずに総体的な評価を下しやがった!という感じで沸騰していた気がする。
まあそこに、ネットでもやってるけど紙でも書けるよって人が時々ネットのことを冷静に見た文章などを書いてたりした。のだと思うよ。

既得権益を潰そう(この場合は権威主義的な、紙>ネット的な、垂直的な価値観)という機運があった。それとは別にマネタイズしようぜっていう機運もあったように思うし、そんなことは関係ない、俺たちは書き続けるッ…という価値観もあった。まあいろんな思惑の人がいたのだろう。

なんのかんのいったけど、ただ紙のほうがまあ目が肥えてる人が選ぶ分、ちょっとフィルターで濾すけど、ネットは漉されないので、その濾す漉さないでバトッてた気がする。

うちは2回漉しますとかいってるなかで急にうちはまったく濾しませんとかいう店がでてきて
まじっすかじゃあどうやって選別するんですか?うちはぜんぶ載せていいやつは自分で目利きするんですとか言ってるので「まじでいってるんですか」
まああっちには紙幅というものがありサーバーのハードディスクのテキストに比べたら
紙のほうが貴重だし(その貴重な紙で何やっとんねんというツッコミは今回ナシで)
ジオシティーズは確か8メガとか12メガとかのスペースを無料(広告付き)で貸し出してたが、まあ詩を書いて8メガいくというのは相当である。
ただ投稿サイトの場合管理人がサーバー借りてるから無料よりはお金がかかる
じゃあ当時管理人は何をおもってこのマネタイズしようがない空間を借りて毎月金払って維持してたのか?という話になる。
育てるのと発見する、あとガチの天才がくるのをまつ、その瞬間を目撃する、福原愛の通ってた卓球教室の先生みたいな存在になる。メンター的なものになる。
こんなかんじじゃなかろうか。しらんけど

やっぱりお金だと飽きた時、死ぬか払う気がなくなったときに終わるし、個人をなかなか越えるのはむずかしい。かといってネット詩で法人化するのも無理ゲー…
もしかして金鉱脈ほりあてた?

個人がいきなり50万ぐらい賞金にして詩の賞をぶち上げてみるのもいいかもしれない。なんか昔そういうのもやってた気もするけど、というかやっぱりコンクール的なものはずっとなされてきた
インターネットによって時間的距離的制約から比較的自由な人たちで組織された団体の結束みたいなものに対する懸念
結局みんな手弁当で業余でPTAじゃないけど(わたしはPTAがどんなものか知らないけど伝え聞くところによると、ですけど)そういう雑務をこなして詩を読んで選出していくのは継続が難しい。
インターネットは結着しづらいのがいいところでもあるし悪いとこでもある。どっちかというと先に知ってる人がネットでもなんかやるほうがまだ続くような気がする。
しらんけど


(このあたりから読み返せていません。適宜加筆修正していきます)


まあなんにせよ、
無料だと「あ、いたんすかw」みたいなかんじになりがちである(今、これ読み返してるけど、なんのことを言っているのか、さっぱり意味がわからない)。
あと、無料と言いつつあのうざいバナー広告と引き換えに場所を借りてたのであるし、そういうのはサ終により跡形なく消される運命である。
あんがいネットは残る残るいわれるもののインパクトのあるエロとか犯罪とか炎上の決定的瞬間以外はあんまりみんなコピーとらない。
証拠をおさえる意味での保存はするけど
無料のホームページに書いてた詩というのは誰も保存しない。ほとんど誰も、本人さえも手元にのこさなかったりすることはままあるだろう。
(昨日仕事してて思ったのが、投稿するときに手元にコピーをとっておいてから投稿するタイプの人と、もういきなり原文が投稿しかないっていうタイプの人っているよね。そういうスタンスの違いとかもネット詩の面白いところなのかもしれないですね)
紙はそのへんの希望が少しちがう、たまに今どのへんにいるんだろうな…というロマンがある。たぶんだいたいは押し入れに段ボールとかで在庫を抱えていて、ほとんどは自分ちにあり、それ以外は身内や同人や界隈の詩人に送ったり。まあそれ以外の販路でガチで売れた場合にのみ、さっき述べた「誰か」「どこか」へのロマンが成立する。
となると、紙もネットも、詩の場合絶望しかないような気もするが、まあ気の問題なら気にしないのがいちばんである。
だが当時はそこを気にして、紙媒体を目の敵にしてこれからはネットでいくぜ!という気運が一時期かんじとれたのも確かだった。
ただ今読み返してみるとけっこう思い出補正がかかってるのもあって、紙は紙でなんだかんだ紙幅の限界や購読者のお布施で作れる範囲に収めないといけないからそこそこ選別がかかり、そこで掲載される作品のクオリティが一定(一定?)に保たれる構造ではあるが、今はそこまで目利きがいるのかみたいな、サラリーマン詩人みたいのが幅をきかせて、よいものではなく律儀なひととか真面目な人のものとか頑張ってるものとかを載せたりしてないか。まあそんな疑念もなくはない。
まだ選者が選んでるうしろのほうのコーナーとかのほうがましな場合まであり得る。血気盛んである。
つまり最近の雑誌は老境がトップにきて、真ん中に頑張ってる人とか真面目な人のやつが載って、最後のほうに血気盛んな人のやつが載る、みたいな構成になってる感じがする。そしてずっと同じようなことを手を変え品を変え座談会している。
弛緩した言葉遊びというか延命措置みたいなやつは、あれはなんかの成れの果てである。日本の暗澹たる未来を、雑誌全体をつかっていきいきと表現してるのだと思う。けどそういうものでも廃刊になったら投稿する場所、登竜門、目指すべきものを見失ってしまう。だから大事なのである。

漉す機能を個々が担当して無料に近いスペースに膨大な作品が玉石混淆であるか、
漉す機能を誰かが担当して編集し、紙幅(予算)におさめるか
前者はボランティアの域であり、後者は腐っても経済活動である
経済活動であるからこその引き締まり具合、というのもあるはずである。
ネットという、とくに寝巻きでだらーっとしてても誰にも文句いわれないところでも、いつもピチッとシャツに着替えてシュッとしてるひともいる。

まあシュッとしたひとが増えたなあ、アルゴリズム(見え方)のせいなのかもしれないが。サジェストやリコメンドがうるさい。
多分、アルゴリズムが承認欲求を満たしたくなるように2日ぐらいで目につかない場所に下がるようにしてあるとか、なんかそういう私たちをうまく駆動するノウハウや仕組みがあるのだろう。
noteの明朝体にするかどうかしか選べないというのもそこそこディストピアである。文字(の形)に本人が出ない時代というのは絶賛続いてるが、とはいえ少し前までは自分がHTMLを書いて、HTMLファイルのリンクやフォルダの構成を自分で決めて、FTPでサーバーに上げてたわけである。あの更新という、増改築の作業は、今思えばとても人間のでる行為だったんじゃないかとは思う。テキストに集中できると言えば聞こえはいいが、みんな同じ土俵に立たされるのは、なんか影のない世界、影のようにいちいち演じないといけない世界なので、必然的に明るかろうが暗かろうが、ふざけてようが真面目だろうが、演じるのがうまいひとが勝つという身も蓋もなさを感じる。
こういうのがまっぴらでインターネットにきたはずなのに、こういうのに追いつかれてしまった。制服、学校、先生、個別具体的に取り扱ってもらえないし、自分で表現することもできない感じ。font-size:8ptもIFRAMEも使えないしカーソルを注射器にしたりカーソルのお尻からキラキラしたものが溢れたり、文字がついてきたりもしない。あの、読ませる気があるのか?みたいな演出と自己表現のごちゃ混ぜ感とサイト構成にでてきているものこそが自分、ずっと工事中のまま飽きていくのが自分、じゃあやっぱりこういうサービスが最強なのだろうか。
なんか。だだっぴろい河口を眺めてるかんじがする。
たしかに楽だし、でもたまにこってりで体を汚したいというか。あとは距離感をもう少しとるために、マイナーだったり新興のサービスを利用するとか。
書くことがなかった人たちがこぞって行ってみた世界、インターネット。まあみるだけ、のっけるだけでもいいのだ。書くことがなくたって何の問題もない。習慣のために更新のために日記は選ばれた。だれでも、死なない限り一日は過ぎるから。


(えらく中途半端に終わった… つづく)






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