0916 (鈴木志郎康さん)
※9月28日に公開
鈴木志郎康さんが亡くなった。
仕事から帰ってきたら
Twitterで流れてきた。
19歳のとき、イメージフォーラムフェスティバルのフライヤーでその名を知った。その後、昭和文学全集の詩歌集にもその名があった。そしてまたその後、たまたま見ていたテレビ(のちに"夢の島少女"というタイトルだと知った)のエンドロールにもその名があった。
たぶん、19歳から2〜3年のあいだの出来事なのだが、自分の中では「立て続けに起こった」かのように記憶している。
正直、何者なのか
というのが最初印象だった。
字面で、なんとなく、つげ義春とか、ガロ、とかそういう感じのを見たときの印象を抱いたような気がする。ちょっとぶきみというか。
イメージフォーラムフェスティバルの作品名も「極私的にEBIZUKA」だったから、なんかいかついというか、おどろおどろしいな…と。
まあでも、これだけ連続(実際には連続ではないのだけど…)で「鈴木志郎康」という名を見かけるのだから、自分にとって、なにかしら意味があるのだろうと思ったような気もする。
わたしはひきこもってた。無理ゲーというか、詰んでた。
もう急に意識がとんで60歳ぐらいになってたらいいな〜とか思っていた。
本(長い文章)も読めなかったので、昼下がりに生姜文学全集の詩歌集の詩だと短いから読みやすいし、若いからエロい単語に惹かれやすかった。それで鈴木志郎康さんの詩はよかった。それに、昭和文学全集には初期(初期とは何か?)の詩から、虹飲み老あたりの詩までが載っていて、その変化も気になったし、その続き(姉暴きとか石の風、胡桃ポインタあたりの詩)は一部だが、ネットで読むこともできた。わーい
3年ぐらい経って、家を出た。きっかけはよくわからない。
いやわかるけど、一応ここではわからないとさせてください。
家を出て働き始めると、ある人間に脆弱性を突かれ、こき使われ、10年を無為に、フイにした。
30も半ばを過ぎてから、やっと自分の時間をもつことができた。
そこから、鈴木志郎康さんの著書や詩集を集め始めた。
わたしは鈴木志郎康さんの書いたものが好きなのであって、蒐集家じゃない!と思いつつ、ずるずる買ってしまうのだった。
それまで自室というものを持ってなかったわたしは、自分の部屋に鈴木志郎康さんの本をどんどこ集めては収納していった。
新生都市も清水から飛び降りて買った。
これを買ったとき完全に一線を越えた感があった。
今の自分の線引きは「ナマ原稿を買わない」というなけなしのポリシーのみ。
会ったことも話したこともなかった。
vimeoに作品が上がってるのもちょくちょく見るようになった。
とはいえ、長いのは見れず、
見たのは日没の印象と極私的にEBIZUKAだけだった。
極私的にEBIZUKAは10数年前にフライヤーで見てからずーーーーーーーーーーっと想像していたものと全然ちがった(当然といえば当然だが)。
日没の印象は好きだ。
なんか、姿見に映ってる、カメラを持った鈴木志郎康さんがが〜まるちょばの如く腕だけが完全に独立してすいーと動くのを見て「プロだ…」と思った。
というか、これがまさしく「自分の姿は見えていないのに自分の位置を完全に知っている」ということの副作用(???)なのだろうか、などとも思ったりした。鈴木志郎康さんは「手ぶれの何が悪いんですか」とNHKの先輩カメラマンとぶつかったりしてるイメージがあったけど、なんかこんだけ腕だけが動くなら、ほとんど手ぶれなんかしないんじゃないかともおもってしまった。
*
南原魚人さんが、南原さんとわたしの鈴木志郎康論(わたしのやつはマジ黒歴史)が載ったりりじゃん(19号あたりか?)を鈴木志郎康さん本人に送ってくれて、そのお礼のはがきを見せてくれたことがあった。
たしか「2つの鈴木志郎康論をありがとう」と、やさしい字で書かれてたと記憶している。
わたしのは、ほんとうにひどいもので、ほんとうにひどいので、いや、ほんとうにあれは…
にったじゅんがどうのこうのとか書いていたと思うのだが、いや、ほんとに若気の至りというか、とはいえ、若気とはいえ、もうあれも30も半ばの頃だから、たいがいにせえよって話だが、いや、もうほんとすいませんて感じで、いや、もうほんとうにあれは…
でも、うれしかった。
あとはネットでシルチョフさんという人のサイト(深夜特急ヒンデンブルク号だったかな?超特急?)に鈴木志郎康さんと会ったときのことが書いてあって、「あの、鈴木志郎康が喋っている…!」みたいな感じに書いてあって、超羨ましかった記憶。
これは2000年代の初頭かな。さっきのりりじゃんの件は2010年代なかばとかだと思う。
あとは、灰皿町や、その周辺。わたしにとっては、1996年ごろにリアル詩人(語弊うみそうな書き方だけどゆるして〜)が作ったウェブサイトは感覚的に同じ場所(地方)に固まってるイメージがある。
清水鱗造さん、清水哲男さん、渡辺洋さん、長尾高弘さんなど。
BBSでやりとりしていたり。
詩集100万円問題とかが書いてあったり、なんかこう、きわめて丁寧なやりとりがなされている(インターネットの詩クラスタのとある)いち地方といったおもむき。
出版、詩人、その周辺の、そこそこ年配の方々のコミュニティ。
いい感じの場所。
鈴木志郎康さんのサイトもよかった。
あの青い背景の、ふくろうの、たぶんペイントかなにかで手書きで書かれたバナー。それに曲腰徒歩新聞のロゴ。
いや、ペイントじゃないぞ。ペイントか。いや、、、
鈴木志郎康さんはマカーじゃなかったのか?どうなんだろう。
まあいいか。
なんかペイントっぽいんだよな。
ネット始めたときはWindows95とかだったのかな。
総目次から入るときとなんか違うところから入る場合とで、いける場所が微妙に違うのがややこしかったけれど、それも含めて好きだった。
わたしが鈴木志郎康さんのサイトに辿り着いた頃は、ちょうど胡桃ポインタの時期だったかな。
だから、イメージフォーラムフェスティバルは極私的にEBIZUKAの頃。
(このへん話が重複してますね…)
時期的には、映像の世界?では、セルフドキュメンタリー的なのが多かった記憶。いや、連綿とセルフドキュメンタリー的なのはずっとあったと思うけど。感覚的にはノンリニア編集が個人でできるようになりつつあったけど、今の感覚だとまだまだぶっちゃけしんどい(レンダリングで何時間も放置する)感じだった。記憶なので、ちょっと違うかもしれないけど。
まあこれはネットで重いものを落とすときもそうだったし、それはそれであの時代は当たり前の感覚だったかもしれない。
やる気のある人はローンでG4とか買ってた気がする。
わたしはバイトもせず(視線恐怖でそれどころじゃなかった)とにかく早く卒業することしか考えてなかった。
日々パニクルーだった。
IFFじゃないけど、ひきこもりの兄を撮影したセルフドキュメンタリーみたいなのも当時あった気がする。当時じゃない、もう少しあとかもしんない。わかんない。
鈴木志郎康さんが書く曲腰徒歩新聞、好きだった。
月に記事が数個アップされる。
わたしは遡って読んだり、新しいのを楽しみにしてた。
途中からは灰皿町blogに移行したりして、ちょっとさみしかった。
たぶんそのころからはちょっとプライベートがごたごたしたのもあって、あまり読まなくなった。
大木千恵子さんという人の映像作品「つぶつぶの日々」に対する、鈴木志郎康さんの評が好きだった。納豆工場のアルバイトの人がセスナ機チャーターして自分の工場を空から見たりするというあらすじを読んでるだけでわくわくした。
わたしもちょうどひきこもりをぬけだし、工場勤務だった。
自分が仕事してるとか何かの役に立ってるとか、経済や生産性や時間で測ることもできる。BS(バランスシート)を見たりすることで会社の状況を知ることだってできる。でも、それ以外にも、自分がいつも働いている時間帯に、自分が働いてる工場を空から見てみるっていうのも、会社の状況を知るってことにはかわりないのだ。
なんか働きながら、そういうことをよく考えるようになった。
働いていても、違う時間がどこかで流れてるし、自分の仕事を生産性や時間や賃金で見なくても、建屋を上から見るっていう知り方やわかり方もできるのだ。
生産性はない。ただ、そういう見方もできるっていうこと。そして、その見方はとてもおもしろいし、なんか、わたしの性分に、とてもあっているような気がした。
と、
長々書いたのだが、わたしはこの作品を見ていない。
見たいなーと思いながらずっと見れていない。見れるところを知らないのだ。
上に挙げたJVCのサイトでも、この作品は紹介だけで、アーカイブは公開されていない。
すこし話がそれたが
鈴木志郎康さんが学生の作品や映像を見て、丁寧な感想や評を書いているのを見て、自分も多摩美(注:多摩美生ではない)になりたかった。
あと、曲腰徒歩新聞の記事についている画像の、端に影をつけている加工も好きだった。当時、自分がパソコンでローカルにつけていた日記でも真似していた。
たぶん、曲腰徒歩新聞の画像は、主にビデオからキャプチャーするか、デジカメの画像のどちらかだったと思うが、どちらにも憧れて
デジカメも買ったし、ソニーのCCDのハンディカムを買ってカノープスのキャプチャーボードも買って、その動画を静止画でキャプチャーして画像に影をつけて日記につけてalign:leftで文字を回り込ませて…。みたいなことをしていた。
年頃的には、CSSでゴッテゴテにしたいお年頃だったけれども、なんかあのベージュとか薄青みたいな背景に、そこそこおっきめの文字で表示されてる淡白なサイト構成は逆にかっこよかった。逆にいけてた。
というか、当時も、テキスト一本でいけて、流し込むコンテンツがじゅうぶんにある人は、大きめの文字で、ごりごり書いて区切り線(HRタグ)で記事を分けていくぐらいでよかったのだ。
流し込むものもないのに、むしろ流し込むものがないから、ずっとガワ(見栄え)がどれだけのブラウザ(当時はブラウザが乱立というほどでもないけど乱立していて、それぞれのブラウザでタグやCSSへの対応状況や解釈が違ったり独自に拡張をつけたりしてたからどのブラウザでも同じに見えないと気になって仕方がなかった)で崩れないか確認して、最後の最後に「言いたいことなんか何もなかった」ことに気づくのも、当時ありがちな流れだったようにおもう。
すくなくとも、わたしはそういう人間だった。
ただ、日記をそのまま出せば、いくらでもあるにはあった。
でもそれを、そのまま出す勇気がなかった。
公開の水位を下げれなかった。
鈴木志郎康さんの詩「住んでる人しか知らない道」にもあるとおり、
語法とは、関係を改める言葉遣いのことであり、言葉との関係を改めるにはまず人間との関係を改めなければならないから、である。
厄介と書かれてるとおり、まじで厄介である。
というか、怖い。
(つまり、
単純にいえば、本当のことを書いて、バレたり、バトらなければならないということだ。)
鈴木志郎康さんはそれをやってるっぽいからかっこよかったし、憧れた。
わたしがインターネットをやってて憧れる人というのは、基本的にそういうのをちゃんとやってた気がする。
ただ、摩擦がかかってくると、どちらかが消えなければならない局面とか、なんかしんどくなってる局面などをみるにつけ、私にはやっぱり書けなかった。それは今も続いているし、それはそれで満足すべきなのかもしれない。
でも、ただ、やっぱり、日記を二個書くのも変な話だというのはつねづねおもっている。
なんかこう、はなから人の目を気にしながら話し始めるような日記は不自然だとおもってる。
すくなくとも、書いているうちにそれが忘れ去られてしまっているところまでいかなければ、さっき言った「語法」とか「関係を改める言葉遣い」にはならないんじゃないか、とはおもう。
話がそれた。
AC部がいて、鈴木志郎康さんがいる多摩美。
ボブネミミッミとプアプア
(これで何か書こうと思ったけど、やめておく。)
鈴木志郎康さんは(多摩美の)最後のほうは、なんかデカパンいっちょで王様の格好になってたりして、なんかすごいなーと思った。極私的ラディカリズムなんだ、あたりのころだろうか。
現代詩文庫の裏表紙みたいなことを定年間際にまたやるんかーい! みたいな感じですごいというか、やれるんかーい! みたいな、そういうことをやれる環境にずっと身を置き続けられることがすごいというか、羨ましかったな。
ほんとすごいと思う
そういうふうに生きてみたかった。
そういうふうに生きてみたいのが俺の人生だった。フルスピードで
(やめておこう)
いちおう思いついたから書いちゃったけど、
ぜんぜん書かなくてよかった。
ついでに書いてしまえば、なんか鈴木志郎康さんはインテリ感がなかった。なんか凶区メンバーの中でもちょっと一人だけ毛色が違うというか、ドンガラガッシャンみたいな感じのことを書くタイプだった。
他の人はなんかちょっぴりオシャンティに決めたがってる印象が拭えないのだが、鈴木志郎康さんだけひとりでドンガラガッシャンな感じになっていた。
まあとはいえ、映画評とかでは別にふつうなのだが。やっぱり凶区の特徴として、全員が全員、あれだけふつうに書ける人たちがあれだけ集まってたっていうのがすごいなと思う。まあ東大とわせだい(なぜか変換できない)の人たちの集まりだから当然なのかもしれないが。
なんかこう、鈴木志郎康さんは、学生運動とかも第二詩集の覚書に書いてるとおり、興味がもてなくてなんかちょっとそれがコンプレックスに感じてたっぽいのだが、それはそれで当然だろうと思うのだ。
そして、それがなんか鈴木志郎康さんの親しみっぽいところにつながってる気がする。ある種の庶民感覚?
庶民感覚ではないな。
初期の詩はカチコチッとしてるところがある。もっと初期の詩は濃い青、みたいな雰囲気がある。でもずっと完成度的なやつの水準が保たれてて、なんかその保ち水準が全員そこそこいってるのが凶区メンバーである。
鈴木志郎康さんがもし仮にオシャンティ路線でいけば、権威主義的に、現代詩手帖でずっと「詩に何ができるのか?」「今、詩に何ができるか?」「そしてやっぱり、今、詩とはなにか?」みたいなことを永遠にやりながらえんえんとオシャンティな評論と詩を書いていればいいのだが、まあそういうのはやってられんわーみたいなタイプなのだろうな、ということはよくわかった。
そういうのを延々とやっていられるタイプと、やっていられないタイプがあり、鈴木志郎康さんは後者だった。
と勝手におもってる。
じゃなかったら、わたしが鈴木志郎康さんを好きになってたかも微妙だったかもしれない。
やっぱり、なんか
「早く読め!」ってタイトルで、ページをめくったら「 」みたいなことが書いてあったら笑ってしまう(「」内は消しました。実際に読んでみるのがいいと思った。家庭教訓劇怨恨猥雑篇に入ってるはず)。
オシャンティな詩人にはそれはできない。
オシャンティな詩人は笑われたくないし、いつだって真剣で深刻じゃなければ嫌である。なんかとにかく思い詰めなきゃならない。
いや鈴木志郎康さんも思い詰めてるのだが、なんか暴発する方向性にオシャンティが含まれてない。髪が乱れるとか気にしない。
鈴木志郎康さんも凶区同人と摂取してるものはさほど変わらないのに、なんか思い詰め方というか、ロールモデルというのか、なりたい人物像みたいなものがあまり見えてこないところがおもしろい。フランスの人みたいになりたいとかじゃなくてフィルムの白になりたいみたいなところがあって、ホッチキスになりたいみたいなところがいいのかもしれない。
とはいえ、清水哲男さん的には「痛ましいことだ」と言わしめるほど言葉に真摯に向き合った末の、あのよくわからない状態だった。
鈴木志郎康さんの詩にはふわっとしたところがあまりない。
なんか「誰やねん」みたいなリフレインが初期の初期から使われていて、冒頭の2〜3行はリズムをとることが多い印象がある。このリズムというのも、地口とはちょっと違うけど、なんか内在律とかいうんじゃなくて、もっとシンプルなもので、明白なリズムをまずとろうとしているようにみえる。
わたしなんかはよくわからないけどなんかそのへんに亀戸を感じる。
フランスと亀戸。フランスなのかは知らないが。
詩のノートのタイトルはフランス語でつけてたっぽいし、なんかフランス成分なところもあったのだと思うが、いかんせん亀戸である。
亀戸は何度か歩いたけどいいところである。
NHKに就職して2年でいきなり広島に飛ばされてしまったのもよくなかったのかもしれない。やっぱりみんなで東京でばったりなんとなく出会うみたいなことができなくなって結構キたんじゃないかと思う。
凶区の編集は持ち回り制で、広島のときはまだバッテンの終わりかけぐらいで、そこから同人が合体して凶区になってくわけだが、なんか山崎悟とかいう謎の男がこのへんの同人の人たちの叢書シリーズをもちかけて鈴木志郎康さんもそこで第一詩集を作ったわけだがこの新生都市が稀覯本になってしまった。詩集のつくりがあまりよくなかったらしい。
↑ここに、「見つけたら買え」みたいに書いてあったので、日本の古書店で見かけたら買おうと思ってたけど、出てきた値段が「25万円」で、ざけんなと最初は思って、誰が買うもんか、攻勢の姿勢もあるし、現代詩文庫もあるから読めるから要らん!要らん!俺はそういうタイプじゃない!と思っていたけど、日が経つにつれ、だんだん「…俺か?」「…俺が買うのでは?」「…俺が買う以外ありえないのでは?」などと思い始め、なんか、買ってしまった。その後、数ヶ月のあいだ、生活は非常にカツカツだった。
ふつうにドラム式せんたっきとかが買える値段である。
その数ヶ月前には近代文学館みたいなところに複写依頼を出して、新生都市の表紙とかだけカラーで印刷して送ってもらった(つまり、攻勢の姿勢には収録されていないテキスト以外の部分を補完しようとした)のに、それでは飽き足らず、結局ガチで買ってしまった。
まあ、これもスカジーボードを買ってしまう鈴木志郎康さんと同じような感じかもしれない。
で、結局なにが言いたいのかというとこの新生都市を出版した新芸術社の山崎という人がもうちょっと製本をちゃんとしてくれてたらここまでの値段にならずに済んだのではないか?ということである。
第二詩集の黒いやつ(異装版?)が時々8万ぐらいで売ってることがあるが、これは絶対に買わない!もうお金ない!無理!
あとナマ原稿も時々出回ってるけど絶対買わない!無理!お金ない!
浴室にて鰐が…の原稿っぽいけど、無理買わないお金ない!
…とまあ、今はこう思っているけど、いつかまた不意に「…俺か?」と思って買ってしまうのかもしれない。
でも、これはなんか違う気はしている。
テクストである。テクストを読み解くのに、そこまでモノを愛でたり異様な値段で引き取ったりするのはいかがなものかと思ってるし、思ってたんだけど、なんかやっぱり抗えない魅力があるのである。
やっぱりそれはやっぱり書いたり出した人が売ったりしたのはやっぱり読んでほしいというか、物体としてこう、出したのだから、物体としてこう、引き取るのが筋なのではないかという話である。
ついでに書くと、凶区の創刊号と9号と24号も全然出回らない。もうこの世には存在していないのかもしれない。収蔵しているところとかしかないのかもしれない。
という感じで、ゲイン待ちの世界である。わたしが死んだら鈴木志郎康さんの本のゲイン待ちをしてる人には朗報なのかもしれない。一応エンディングノートには「これはめっちゃ大事なものです」的なことを書いてはいるけれども、身寄りのない一個人のエンディングノートなんか誰が読むのかと正直思う。たぶんガタイのいいにいちゃんとかが総出でほいほいと出して行ってなんか棄てられる気がして怖い。
だから死にたくない。
寄贈先というか、死ぬ時はちゃんと市場に出回らせてから死にたい。
*
いいかげん話をもどそう
*
いや、まだだ
結局隠喩のコードの外部化というところ、情況を使ったジャーゴンというのか、読んでる本や言葉の選びによって人間が選別されるようなところがあるのに、鈴木志郎康さんの詩はまず個人(極私的)を通してから書くので、情況にまず乗れないということから正直に書き始めてしまう。そして自分が実現したい目的や対象に向かうので、他の詩人のように「あの文章はあれ(あの本、あの人、あの映画、あの音楽、あの日)のことですよね」みたいな仲良し感があんまり出てこないので、なんかそういうつながり方をあんまりしない気がする。たぶん、同じように同人仲間たちとジャズとか聞いていたはずなのに、そういうのが表だっては出てこない。道具立てや匂わせがない。
これは谷川俊太郎の感じとはまた違う感じの、ある種のパラレルに漂白されたような感じがある。谷川俊太郎のはなんか生成りコットン的というか、無印っぽい感じの感じだが、鈴木志郎康の漂白はもう少し光学的であるが、そこになんかなぜかドンガラガッシャンが入ってくる。
合わせ鏡というか、リア充と陰キャが背中合わせになったような、ある種の透明性がある。要は保存性というか普遍性、谷川がいうところの「自分の中の他者」獲得のための動きとして、どのように言葉を選択し配置していくかという筋道において、個人的な事情や目撃したものごとをやったらめったら詰め込んでさらに卑語を織りまぜていくようなやり方は、一見して透明性とは程遠いように思える。そういったものを拒絶して、完全に独立した意味体系を作ろうとする、言葉に封をしてその場で切ってしまうと表現していたけれども、実際に読むほうがそれを理解することは不可能に近いし、実際作者もそれを理解しながらそのようなものをなんとか最後まで読み通せるような工夫を施して行った。
本来は、このような形で保たせるよりもむしろ当時の情況や道具立てを使用して、年齢と共に推移していくであろう同年代に通じる言葉を使っていれば、そのような仲間ができたのであろうが、鈴木志郎康さんの詩にはむしろそういうとっかかりはあまりないようにおもえる。
要は、セーヌ川(知らんけど)とか、なんかに通じる道具立てっぽいのを使わないというのか、「あの人がこう言った」っぽいのを使わないというのか、スターシステムを自前で作るというのか、なんかそういうところが好きだ。
好きなものや憧れの対象やそれっぽいものを書いて、それになりたいという憧憬ばかりになりそうな感じをよしとしてない。
個人が生きていて、言葉を書いている、なぜかこういう言葉が置かれている、それはなぜか、といったようなこと、あくまで原理的に、立ち戻っているから、いちいち「こう書いたから俺はこれこれこういうものをじつは読んでいるぜ、こういうクラスタの人間だぜ」というような匂わせをするような必然性がない。
なんか書いてて違う気もしてきたけど、まあいいか。
*
なんか話の筋がだんだんわからなくなってきた。
*
鈴木志郎康といえば、みんなの詩を集めてきて、「詩の電子図書室」というのを作ってて、そこに生徒の詩集を作って「遅くなったけど、約束は守ったよ」みたいなことが書いてあるのとかも「いいなー」っておもった。
あとは伊藤聚さんの詩や、清水哲男さんのスピーチバルーンとか、色々置いてる。
このへんは俺の文章なんかより
長尾高弘さんの記事のほうがわかりいいし
こっち↓読むよろし
本人の新しい詩も、いつまで新しいんだよ!って思ってたけど、住んでる人しか知らない道は好きだな。Twitterで「すごいぞ!現代詩」みたいなアカウントが定期的に紹介してる気がする。
チューリングマシーンの詩もいいですね。
「昔の詩」については、ところどころ、たぶん手打ちで写していて、OCR使ってるわけでもなさそうなのに、どうやったらそうなるのかいまいちわからないのだが、「…キキの得意なお遊ぴ」になってるのとかも(好きだった)。
ひきこもってるときは「屑男、夜だけの旅」に勇気づけられてたですね。
わたしは対人恐怖症で、最近絶賛ぶり返してきてるのだが、図書館でやっとの思いで借りた現代詩文庫の裏表紙の鈴木志郎康さんが目を閉じてるのをみたとき「この人も視線恐怖なのか!はいそうですかそうですかーなるほどなるほどー」と勘違いしてた時期があった。それぐらい純真だった。
わたしにとっていまや鈴木志郎康さんはもう「すす」と入力した時点で変換候補に現れるほどである。とにかく、なんでもかんでも「鈴木志郎康さんはこう書いてた」みたいな状態になっていった。しかもソースは記憶だよりである。あぶなっかしくてしかたがない。
まあ、読み違えたり思い違いしてるところもあるだろうが、大筋ではあってるだろう。間違ってたらすみません。個人的には鈴木志郎康さんのソウルを一番受け継いでると勝手に思ってる。これは言い過ぎだと思った。
ああ、そういえば15日間のエキスパンドブックツールキット版をまだ見れてない。
あれのためにQuadra650を起動させたのだが、うまくいかなかったのだ。
それも十数年前の話。
結局Quadraでは「あさってからボクサー」というフリーのゲームで遊んだだけで、ブラウン管に目が疲れて、それ以来触っていない。
あのファイルの開き方がわからないまま。
もうさすがにもう潰れてる気がする。
天井から雨漏りもしていたし、もう機械に染みてるか、基盤がダメになってるだろう。
(追記:こないだ実家を見たら更地になっていた。基盤どころかもう空間がない!当然、Quadraもない!)
いやしかし、さすがにきょうびエキスパンドブックツールキットのファイルなんかオンラインで開けるサービスとかあるんじゃないの?
あとで検索してみよう…
鈴木志郎康さんはかなり初期(初期とはなにか?)の段階からインターネットでさまざまな人の詩を許可を得て集めていた人で、こういう試みは鈴木志郎康さんのとことか、POETICA IPSENONぐらいしか、パッと思いつかない。
(そういえば、POETICA IPSENONが許可をとっていたのかは知らない。)
Poetry Japanに巻頭詩コーナーがあった頃とか、あとはミッドナイトプレスとか、そのあたりだろうか。。。
なんというか、鈴木志郎康さんは元々インターネットとかデジタルの理念とか思想(インターネットとかデジタルの理念とか思想とはなにか)と親和性が高かったんじゃなかろうかとは思う。なんかそんな感じしてた。
鈴木志郎康さんの考え方というか、なんか書き方や考え方の筋道が好きで、それを追ってるのも面白かった。
現代詩手帖の選者のときは月300作品読んで、なぜこうも作品に至れないものが多いのかと嘆いたあと、それもそうだ、ふつうに勤めている人が今ある詩の書き方の裏をかくような新しい書き方をしようと思えば時間を切り詰めてものすごく読まなきゃならないのだから。それができないのであればいきおい「詩ぃっぽいもの」を書いてしまうのもいたしかたないのではないか、というようなことを書いていた。
ボンビャク(なぜか変換できない)の選者ならこんなこといちいち書かないし書いたとしても「シャウアプフ的なものとノンシャウアプフ的なものとがせめぎ合っている…」とかわけのわからんこと書いて紙幅を稼ぐか茶を濁しまくるわけなのだが、鈴木志郎康さんは作品が作品に至れない筋道まで探っていくのだった。探らないわけにはいかないのであった。探らないではいられないのであった。
最近の、鼎談「現代詩をもみほぐす」では、詩と、書いた人が目の前にいて質問できるような詩のほうが好きだと言っていた(気がする)。
その数年前のBBSのやりとりでも「詩は、もう、わかっちゃったんですよ」的なことを書いておられた気がする。
詩がわかるといっても、たぶんそれは相手の出方(言葉の使い方)からしておそらく狙いはこういうところにあるのであろうという推測が成り立つから、比喩に何を隠したか、なぜこんなに撹乱させる書き方をしているのかとかいった目的について、正確にはわからないにしろ、ぼんやりと「表現としての戦略」のようなものを理解できるから、つまりそれは、先に述べた「裏をかく」手癖のようなものや意気込み、気炎についてはわかるけれども、結局、それを書いてるあなた何ものなの?という、ある種シンプルだけど究極的で現代社会がぶっちゃけ見えなくさせているほう(見えなくさせているから安心できるところもあるからそれはそれで否定しない)へと、鈴木志郎康さんには昔からその萌芽はあったのだと思うが、舵を切っていき、さらにその側面が年を経るにつれ、だんだん強くなっていったのだと思う。だからこそ、知識人とか、研究者とか、権威とか、そっちのほうにはまったくいかなかったのだという気がする。
で、書いてておもったのはこれはわたしの鈴木志郎康さんのストーリーなので、あなたはあなたの鈴木志郎康さんのストーリーをえがいてくださいということである。というか、ここまで読む人はそれぞれにあると思いますが。逆に、わたしの書いたものが不快だとしたら、申し訳ないと思いつつ、申し開きや訂正をするつもりもない。
なんか、初期の方法論や作品至上主義っぽかったところから、詩とその人のつながり、目の前にいる人とその人が書いたものに興味をもつ道のりが好きだった。
MYBブックレットの「歳をとっては詩作がおすすめ」では、わたしたちが詩と読んでいるものは詩のぬけがらであり、実際の詩は頭の中でクオリアのようなものとして渦巻いているということだった。
正直に述べると、このクオリアへの流れは、少しだけ残念だった。
鈴木志郎康さんの詩作の教室に通ってた人がいうところの鈴木志郎康さんの「厳しさ」と「優しさ」は表裏一体だったと思うから、なんか、クオリアって言って欲しくなかったかな、ってちょっとおもう。
↑今読み返すと、何を言っているかさっぱりわからない。
これ、どういう意味なのか。
クオリアというのはあれである。脳の中にある像の物質性?実感性?みたいなイメージでわたしは捉えているが、それを文字にするときに捨象したり添加したり工夫する必要が出てくる。そのまま書いたつもりでも、それは多分というか絶対そのままじゃない。脳に置き去りにされたものが出てくる。その置き去りを補完するのが、作者とともに詩をなぞるといった行為である。
合評というものの効能?はこのような作者とともに他者が詩をなぞりあうことによって、脳に置き去りにされたクオリア的なものへのヒントが継ぎ足されていくことにあるのかもしれない。
「向上」ではなく、作者が脳に置き去りにしてしまうクオリアやイメージが、どれだけ紙に置かれた言葉によって実現されているか。この割合を少しでも上げていく作業。これを言葉だけの独立性によって成し得るか、機会を得て人と話すことによって補完することによって再現はできないけれども、一回性のなかで実現させるか。これをセラピーとかいって揶揄するのは簡単だけれども、それはそれでとても大事なことであるとも思うし、この「実現割合」をどうしたいかは人によるので、どこまでもスタンドアローンで駆動する言葉を実現したいか、あるいは人によって支えられて、自分でも喋りながら実現したかった表現を補完していくかはそれぞれである。
多摩美のパンフレットに書いているのは詩的ラディカリズムについてだっただろうか。「結局、極私的ラディカリズムなんだ」という本もある。
鈴木志郎康さんが、突如、浜風文庫で急に語尾がラムちゃんみたいになってきて、その一節を引用したらリツイートでお礼をもらって、そんなこともあった。
うえはらんどの前まで言ったけど勇気がでなかったこともあった。なんか玄関にあったパンフレットみたいなやつだけ持って帰った。
鈴木志郎康さんが至った詩の肯定の仕方がとても好きで、その流れを著作を読みながらちょっとずつ紐解いていくのはとても楽しい。
(ここから先は読み返せていない 9月28日付記)
最初(初期)はちょっと狭量にもおもえるんだけど、実はとても言葉に対し誠実で方法論的なところがわたしなんかと全然ちがってすごい執念だし、自分ができないからあえていじわるく言えばねちっこい。それを人の詩に対しても向けることができるところが優しいしパワフルだなとも思う。人となりをしらないから、たぶんだけど。
なんか、浪人中に近所の私塾みたいなところに通ったらそこの先生が教えてくれた思考法がとても自分に合っていたのでそれをやるようになったみたいなことをどこかに書かれていた気がするが、なんかデカルトっぽいというか、一歩一歩、それこそ、のてのてに歩くところなんかが、とくに連載などをまとめた本の文章などには色濃くあらわれている。当たり前のことを当たり前に書いていって、どこかでひっくり返る。
言葉を書くということは社会を転覆させようとしているということだ、みたいなことを一個一個何気ないところから書いて納得させていくところがある。ときどき忙しすぎたのか、文意があっちゃこっちゃいって曲がりきれていないところもあったりなんかするけど、それはそれでおもしろい。
参加した同人誌はいくらあるかわからない。淼とか徒歩新聞とか、なんかいっぱいありすぎて把握しきれない。
手元にあるのは壱拾壱と凶区と飾粽しかない。
凶区はべつにして、このあたり(どのあたり?1980〜1996あたりまで?なのか?)の作品となると、すべてが詩集に収録されているのかわからないので、個人的にはとても気になるところなのだ。
鈴木志郎康さんの詩集のあとがきは次の行き先が書いてあることがあったりする。その行き先が少しぼやけてくるのがこの同人に多数参加しているこの時期あたりなのではないかと思っているのだが、よくわからない。
鈴木志郎康さんの小説の表現で好きなのは
なんかこれ読んだときは痺れた。そういや亀戸にも行ったが、結局よくわからなかった。
浜風文庫の更新がどんどんなくなっていって、現代詩手帖に、ふと、詩が載ったりして、それまでは、どこだったかな灰皿町blogだったかな、Twitterか、毎日花の日記を書いていて、それがいつからか途絶えていて、わたしはたくさんの人やものを好きになったり、おもしろがれたりする人間ではない。
つらい、というよりは
「そうなのか」といった感じ。
気詰まりなような、
かといって何をどうするでもない。
鈴木志郎康さんの社会の詩っていう本はよかった。何を読んできたかみたいなことも書いてあって、金子光晴とかは意外というか、全然意外じゃない。ああ確かに、みたいなところはある。
まだ読めてない著書ばかりである。
おじいさんおばあさんも読めてないし、サイトも全部読めたとは言い難い。
鈴木志郎康さん自身が、結構詩の世界にいろんな人を送り込んでいた人だった。ねじめ正一さんや伊藤比呂美さんや渡邊十絲子さんや…めちゃくちゃたくさんいるだろう。
*
0916朝
207→206
朝になると、本にあたったほうがいいと思い始めた。
てきとうな記憶で書いていてはいけない。
とはいえ、私のことだから、途中からまた記憶だけで書きだすのだろう。
とりあえず新生都市をめくってみた。めくるというか、おそるおそる、少しだけ開いてみた。あとがきがないかと後ろからめくってみたが、高野民雄さんの解説があり、あとがきはなかった。
詩の世界社の「詩の世界」
フィルムメーカーズ
MYBブックレット
詩の世界別冊1 鈴木志郎康
とがりんぼう、ウフフちゃ。
一応これだけもって部屋にきたものの、今は書く気分ではない。あと一時間もすれば家を出ないといけない。ウェブサイトの「詩の包括的シフト」をチラチラみていた。
現代詩の鑑賞101の鈴木志郎康さんのところは八木忠栄さんが解説を入れてて、現代詩に正統な嫡男があるとすれば、鈴木志郎康さんのプアプア詩はそれをおびやかす鬼子だった、といったようなことが書かれていたし、富岡多恵子さんの現代詩文庫鈴木志郎康の詩人論にも、このままプアプアの詩を続けていればプアプア流の家元になれた(のにそうしなかったことにドラマを感じる)ということも書いていた。鈴木志郎康さんはプアプアの詩のあとになんか「観念からもっと遠くへ」みたいなキャッチコピーがついて、日常の細部を平易な感じで書くようになった。けどこれはねじりこんにゃくみたいに本当のそのままじゃないというか、逆にふだん書かれている本当のそのままこそが本当じゃないことを暴き出す、みたいな方向への転換だったといえる。要は、プアプア的な、ナンセンスなほうのフライ返しでいくら言葉の地盤の端っこからひっくり返そうとするには相当なパワーが要るしそれでひっくり返せる範囲というのも知れている。であればもっと入りやすくしてこっそりとでっかくひっくり返したい。みたいな感じなのかな。わからない。
関西人特有の言い方で言えばしらんけどである。
何が言いたいのか忘れたけど、詩の包括的シフトで、先に言った、「正統な嫡男」みたいな話は結局、鈴木志郎康さんが見つけ出してきた、発掘した詩人たち(いや詩人たちのほうでも功成り名を遂げるみたいな気持ちがあったのかもしれないが)やカルチャーセンターや多摩美で教えた人たちや出会った人たちはみんな現代詩の正当な嫡男(この表現もようわからんけど)を充分おびやかしてるよなとおもったのだった。いや、そもそも、べつにおびやかさなくてもいいとおもうけど。
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じゃあこの鬼子はなんなのかといえば、すごく端的にいえば、詩は別に、無理してまで綺麗じゃなくてもいい、みたいな感じだ。
鈴木志郎康さんの詩は卑猥な言葉がたくさん使われているのになぜか品があるみたいな論考を書いている人がいたが、それは確かに当時同じノリで書いてあるような詩を見るとよくわかる。ほかの人がイッエーイってやってる横で、むしろ鈴木志郎康さんは窮屈に、それこそ、わたしはインスピレーションのたぐいをおよそ信頼しないみたいに書いていた通り、目的があって、方法論があるのであって、イェーイ、ウェーイてな感じ自動書記的に、享楽的に下品な言葉を書き連ねてるわけではなく、基本的にはどうにかならんかなと思いながら書いているわけである。インタビューでも答えていたが、暗闇の中でとにかく手探りで何かを掴みたい、掴むと安心する、と言っていて、それを言葉でおこなっていたから、あのような形になっているのだろう。
でも、ぱっと見それはわからん。それがさっき言った「範囲が限られている」ということと近い。要は、よくよくみて、ずっと考えて、ようやっと「ああ、そういえば海原雄山は自分のためだけに笑ったことがないぞ」といったことに気づくとか、そういうレベルなのである。
もっと簡単にいえば、目的のビルに来たはいいけど、「あぁ、お客さまっ…」とドレスコードで弾かれるようなものである。なので、今度は正装で正面から堂々と入っていこう、という。なんかやわらかい闇の夢あたりからはそんなふうにおもえる。
話が変な方向に流れてきている。気をつけなければならない。
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0917追記:
何日か書き継いで、正直これをそのまま投稿することに躊躇が出始めている。
客観的にみた場合、追悼とか、故人を惜しむといった要素に欠けていて、なんだかよくないもののようにおもえるからだ。というか、そのように読む人の可能性を捨てきれない。
もう去年みたいに、ふと現代詩手帖に詩が載る、といったようなことがもうないのだ。そう、ふと書き込みがあるとか、ふと、何かが更新されたり、といった、手がかりのようなものがもう絶対に出てこない、ということを知らされたのだ。
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0918追記:
毎日最初から読みながら適宜修正を加えているが、そろそろというか、もともとわたしには長文をマネッジメンツする能力や管理する能力がない
基本的には書き継いで、管理しきれなくなったところを放擲するのがつねである。
まあどれだけ書いて、どれだけ誤解があろうと、自分にもどういうことかはまだよくわかっていないのだ。これから先、ふとしたときに鈴木志郎康さんがいないということを実感する。それは二年後の浜風文庫とか、三年後の現代詩手帖とか、Twitterでたまたま流れてきた画像の書肆山田の書体とか、なんかいろいろなところでふと思ったりするのだろうし、鈴木志郎康さんが書いたもので死について書いている箇所などに対して思うところも変わっていくるだろうし、webarchiveで昔の文章を読んだりするときも変わっていくだろう(そういえば、鈴木志郎康さんの界隈のネットの文章は、webarchiveで探さなくても現役で残ってることが比較的多い気がする。しかし逆にこういったサーバーにサイトが残っているのもいつまでだろうかという気がする。わたしたちは当時20代前半で、無料で数メガから十数メガのホームページ用のスペースをもらって広告付きでサイト運営をして飽きて数年で工事中だらけの場所を残して去っていくのがつねだった。そして今は結局こういったnoteやTwitterに身?を移している。逆にweb1.0の、本人がリンクを貼って構築していった、ある種本人の身体性とか思考がそのままかたちとしてあらわれるウェブサイトの形のものは1996年当時から継ぎ足していたものがいまだに残っている。ただ、これらのサイトが乗っかってるサービスもおそらくそこまで大きいものではなく、零細なところが多いのではないだろうかと思う。そうなってくると、今後、この運営者が亡くなったとき、ドメインの期限が切れた時点でこれらのサイトも消えてなくなってしまい、Webarciveで見るしかなくなる。そして、Webarchiveもいつかは無くなるかもしれない)
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9/22追記
結局ここまで書いてきて、余計なことやよくわからないこともたくさん書いてしまって、それを剪定する膂力も残っていない。
あとはこれを放擲するかどうかで、それを踏みとどまらせているのは鈴木志郎康さんのことを書くときはもう少し晴れ間(論理的に考えたり書いたりできる時間帯のこと)を繋いだものでありたいし、それを裏で繋ぎ合わせる作業をしっかりと行ったうえで公開されたものであってほしいと思っているのに、さっきも書いたようにもうそうするための力がわたしにはないと信じている。ずっとそう生きてきて、よく知ってる。
で、やっぱり、そういう文章は結局どこかで読まれなくなることも理解してきた。
それでも放擲したい。いつも文章を公開するときはぎりぎりまで迷う。
迷うと結局えいやっと決断主義的になってしまう。
まあここまで決断を小さいボタンにまで追い詰めたのだから、これはもう端っこに追い詰めた液晶フィルムの気泡みたいなもんかもしれない。
ポッとあと少し押し込めば、この文章は溶け込んで消えてしまう。
失礼なまま、不躾なまま、不遜なまま、この文章は雑踏とアルゴリズムみたいなとこに消えていく。
あぁ、やだなぁと思う。
ここでの基準「役」からは崩れてしまっているし、
自分自身の矜持みたいなものからもはずれていて、はずれているのは前からだしそういうものもいくつも書いてきたから何を今更
って話ではあるのだが、
いや、もう投稿しよう。
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9月28日
もう一度途中まで読み返して、適宜修正を加えた。
さらにごちゃついてきた印象もあるが、もういい加減、投稿しよう。
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