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あさ。家庭菜園がうまくいっているのかわからない。おばあさんみたいにぞんざいに腕を振りじょうろで水やりをして、花を突き、謎の芽吹いてるものに、かすかな恐怖をいだいている。これはなんなのか。一番有力なのが、オクラである。いったん諦めたオクラが土に混じってて、ここにきてまさかの復活…。胸熱の展開…。まあわからないが、とりあえず、今はトマトとゴーヤが2株ずつ。あと謎の芽が2株。



精神分析の歩き方。わたしは別に精神分析の畑の人でもなんでもない。製造業(ライン工)の端くれなので、なにも知らないに等しい。なんかパラパラめくって「小此木」という字がみえると「ひぐらし…?」と思う程度の人間である。そんな人間が、どうやって精神分析の「周り」を歩いていたのか。

ざっくり箇条書きで書き出してみると

◆エヴァのあたり(これは山崎さんも仰ってましたね)。ハリネズミのジレンマとか、オーラルステージとか、なんか、用語のレベルから入る、これはなんだろう、精神分析っていうか、なんか発達心理学とかなのかもしれない。旧劇場版を初見した時は友人達と無言で別れ、無言で帰宅した。数年後、VHSかDVDでみると、ミサトさんの「自分が嫌いなのね…」のくだりが妙に沁みた。

◆ひきこもり中。ネットとかでスキゾエヴァンゲリオン、とか聞いてる感じ。竹熊さん、庵野さん。スキゾ、パラゾ。
ネットで心理か精神かわからんけどよむ。
クレッチマーの分類。気質みたいなやつ。てんかん気質は小太りで…みたいな。ほんまかいな。
ユング。名前で避ける。だからわたしはユング、河合隼雄方面はほぼ何も知らない。
アンナフロイト、防衛機制。
サイコドクターぶらり旅の私家版精神分析用語集や汎適(これ正式名称なんでしたっけ?)を読み耽る。おじろくおばさの項とか読んでると「俺はおじろくなのでは…?」とか思いながら。ブラックジャックによろしくに表現をパクられたりとか。
要は、今からおもえばだが、ひきこもりの原因を自分の内面(精神と発達)や家族との関係に求めていた、ともいえる。
あといえるのは、精神分析というか、精神科医?の人は早くにインターネットに飛びついてホームページ作ってたってことですね。あとはバックにすごい教養がありそうなので、Twitterの時代になってからもとりあえずフォローしてる。ネット初期の人のリテラシー感みたいなものは、ここでなんとなく学んだ気がする。入りとして、なんか教養を身につけた無頼な人が精神科医になる系譜が連綿とつづいてるのかな、みたいなイメージ。
かといって中井久夫を読もうとか、岸田秀?とか読もうとはならないし、土居さんとか九鬼さんとかもなんか古臭そうだし、森田さんもなんか、それができねーから困ってんじゃねーか的な感じでみてた記憶。

◆だけれど、ひきこもりなので大学とか就職とかは考えれなかった。むしろやっとこのレールから脱落できたことでホッとしてた。若干高校で破瓜型っぽくなって今は残遺で予後不良なんじゃないかとも思ってるのだが、まあ人間そんなスパッとなってるわけじゃないので、予後不良なところと、社会不安障害と呼ばれるようなところの折衷案で生きてるみたいなところがある。個人的には対人恐怖症で加害視線恐怖みたいなところがある気がするけど、もう、まあいいかみたいな側面もあるし、クリニックの先生も「そこは起こすまい」みたいな死守する姿勢が垣間見えるため、それに従っているが、時々、森田療法とか、小出しに「俺、精神かじってんすよ」アピは怠らない。嫌なクライアント。

◆ひきこもりの底の頃は、ほぼ深海状態。これのおかげで就職氷河期中に、ほぼ深海マリンスノー状態でしーんとしていた。この頃ネットに没頭してたおかげで今がある。そもそも家から出れただけでよかった、という感じなので、大学まで行ったのに就職できなかった…という感じの苦しみがなかった。

◆ひきこもりサポートキャンペーンがあった。斎藤環さんが出てて、ネットで調べるとラカン、ということになって、数年後バジリコ出版だったかな?の生き延びるためのラカンというのを読む。たぶん本でこういうの読むのはこれで初めてだったし、「これ以上は読まない」となんとなく決めてた気がする。

◆なんかこのへんで病跡学?というものと、精神分析と心理学はなんかちがうものかなー、というのはおぼろげにわかってくる。
病跡学というのはどっちかというとアウトサイダーアート的なものを紐解く感じ、精神分析は流儀、心理学はもう少し普遍的な、膝を叩くと腱反射で足が上がるみたいなレベルの話。発達心理学とかになってくると、たぶん赤ちゃんをめっちゃ観察してこうなのでは…?みたいな感じになって、エリクソンとかになると、各自がインストールできる「物語」であり、個々の人生のこうなのでは…?のプリセットの中でかなり納得いくやつ、みたいな感じ。自分の見取りはぼんやりしてる

◆で、精神分析的と精神分析がよくわかってなかった。精神分析がぼんやりわかってきたのは和田秀樹さんの本を数年前のクリスマスに2万円分Kindleで好き買っていいよと自分に許したらコフートとかの本ばかりぽちぽちしてたことがあり、そこで読んでると、なんか精神分析って週何で受けないといけないみたいな、「変な決まり」があるのだな、それのことを医者は精神分析って呼んでいるんだ…みたいなことがおぼろげにみえてきた。
あとは、アメリカのドラマとか映画で金持ちが時々やってる気がする…みたいな。
じゃあ街中でやってるあれ(心療内科、クリニック)はなんなの?とは思う。

◆要はフロイトが千利休だとすると、表千家裏千家武者小路千家みたいな感じになってて今があり、さらに精神分析のいいとこをとってもう少しラフに現実的な尺でやってるのが精神分析的心理療法ってことになり、じゃあわたしが受けているのはそれか、ってことになってるのが現時点。
(なんか精神分析の歩き方は、これの"日本"の見取り図を提供してくれそうな予感がある。哲学における京都学派、的な?)
だけど、そこまでではなく、わたしが受けているのはふつうに世間話というか、カウンセリングに近い。フィードバックというか。
フィードバックと薬の処方に因果関係があるともそんなに思われない。そもそも言葉で薬を出せる、という理屈がわからない。

◆コフートさんはフロイトの弟子だったが「これはちがうのでは?」と思い自己心理学を立ち上げて、自己対象というプリセットを作った。これがしっくりくる人は結構多いのでは? たしか、コフートの名前は汎適でみてて、そのときに自己対象は読んでたが、まあインターネットはさわりであり、またたいていの場合永遠の工事中であるので、あんまりわかってなかったが、コフートさんはシカゴかどこかで精神分析学会の会長になったりもしたけどなんか満たされないなあという感じで、ちょっとフロイトちがうんじゃね?みたいな感じでフロイトの娘に破門されて自己心理学を立ち上げて最後は病魔に冒されてなんか読んでるとすごいシンパシー感じるというか、フロイトの強者感が異様なのかもしれないが。

◆で、精神分析をやるには週何でそれを自分が受けて、それをスーパーバイズされて、みたいな、この流れ要るのか?みたいな感じで読んでて、それより俺困ってんだけど…みたいな感じで、なんか百均のものでもいいから便利だったら使いたいんだけど、その絶対週何のそれ要る?みたいな感じがあって、でもそこは要点じゃない。

かなり普遍的に、仲間づくりというか、コミュニティの維持のための芯として、ジャンルがある。

だから、精神分析の歩き方を読みながら、わたしは精神分析と書かれた場所を「詩」に置き換えている。GSVというのは合評会のことだな、とか。だから、その運営の仕方とかも、そのまま、詩というもののコミュニティの維持運営?そんなの要らんかもしれんが、なんか詩を書くとき、社会的に詩を書いていくときに必要な素養が身に付くような思いで読んでいる。
というか、このへんの話はどの分野でもほぼ共通なんじゃないだろうか。同じことに興味もってる人の集まり方があり、詩というのはケースとして捉え、それを自分で出してみんなに症例検討してもらってる(ここで作者と、作中=紙面上の話者は隔てられているので、ある種の安全性は確保されてる。ここは「精神分析」みたいに暴力的に本人にまで迫ってこないし、複数人でやるので、二人きりでゴン詰めされることもない。比喩の動作具合、わかり具合、あるいは文脈のわかりづらいところなどの指摘、あとは褒めること。個人的には褒めるばかりだと結局みんなが読んだときにつまづくところが放置されたまま生きることになるので、それがいいのかというのは疑問に思うところだが…、ただ尊重の姿勢は大事。ネットで原理主義的になるとこの枷がとっぱらわれとたんにギスギスするところもある気がする、身を突き合わせる、というのはある種の緩衝地帯の確保しながらやんわり事実を話し合うときに適しているとは思う)

というかもう最近精神分析(ちゃんとした)って使われてるのだろうか、もうなんか金持ちが占いしに行くとか面相学してもらうのとどう違うのか、とは思わなくもない。生活レベルにおりてくると、実用的だが、それって世間話とか、会議とかとどう違うの、という話になる。
転移して返す、みたいなノリは正直よくわからない。オカルトみたいな話で、個人的にはみんなでぼやんと「ああ、そう思ってるんだ」という感じ、動かなくもないし、動かないところもあるんだ、っていう気付きみたいなものによって人が各々解散して動く、みたいなことのほうがはるかに精神分析より効率的なのでは、とは思う。だからオープンダイアローグの理念は大好きだけど、ガチの病気に使わなくてもいいような気はする。もっとふらっとに、「オープンダイアローグ的」心理療法、みたいにしてしまえばいいかもしれない。対話は説教でもアドバイスでも○○でもありません…みたいな注意書きだけよく読んで、紛糾しすぎないようにファシリテーターを置いて、会社とかでやるといいかもしれない。
たぶん会社でもそれっぽいことはしてると思うけど、ルールの敷き方をオープンダイアローグ的にすると、もうちょっと違う、常に会議でメタに抜け出して喋れるみたいになって楽しいかもしれない。というか個人的にはそういう世界を望んでる。誰でも人生を語れる世界みたいな、つまり古谷実の作品世界って、(今、読んだらかなり差別的だろうけれども)あの空気感、あのいつでも人生を語る準備万端の空気感は大好きだった。それは自分語りとか生い立ちという意味においてではなく、もう少し、メタな人生の話である。これからの自分の生き方につながる、他者の考え方である。

◆なんかわたしは2005〜2015年は絶賛DVで壮絶で俺フィーリングー本気でさっついーだったので、たぶん2017年とかからまた人生がリスタートする。ひとりぐらしする。プリンセスメゾンとダルちゃんを読みながら、俺はひとりぐらいするんだと。床暖房のある部屋に住むんだと本気で決意する。
で、そのあとぐらいに滝川一廣さんの「心とはなにか」みたいな新書を読んで、それの文体がすごいやさしくて、なんて優しい人なんだ…と思って、数年後、滝川さんの「子どものための精神医学」を読む。
ここでかなり、今までのこと(自分の人生、親との関係、発達)を自分のなかで整理することができた気がする。
「情緒・関係の発達」と「認知・認識の発達」で軸をとる、という考え方、これらの齟齬によって、発達に「おくれ」が出る、という考え方。
要はわたしの「受け取り方」と親の「与え方」の齟齬というものもあった、という考え方。どちらが100:0で悪いわけでなく、受け取り方のおくれ、受け取る「手」のおくれ、それと、与え方の工夫のできない硬直性やおくれ、といったものが複雑に絡んで、今がある、ということ。
こう考えるとかなりすっきりした。

◆あとは斎藤環さんのオープンダイアローグとは何か、や監訳されたオープンダイアローグ、あとは斎藤環さんがよく言及してる神田橋條治さんの本などを読みつつ、いいとこどりで考えたり。これはつい最近。

◆あと、リエゾンを読んでますね。おととい9巻が出たのかな。

◆今は哲学、精神分析?、なんかそのへんを、死んでいく自分、生きている自分というものを考えるために読んでるような気がする。あとは、何をするか、どういうことがあったのか、という意味でも。
応用、実践。実践? 枷を解きたいなーという願望はなんとなくある。
世の中にダイブしたい。フリーランスになるとかじゃなく。
会社員のままなんかし続けたい。辞めても会社員、とかできないかなとか。

◆犯罪との絡み。2000年代は少年犯罪との絡みで、なんかよく人格障害や広汎性発達障害、アスペルガー障害というような言葉が出てた。
アイアムアヒーローで国が発表したゾンビの定義は「多臓器不全と反社会性人格障害」だった。
福知山線の脱線事故でニュースの見出しに事故原因は「複合的要因」だった、みたいのが踊ってて、まじか…と思った記憶がある。
広汎性発達障害とか複合的要因とか、なんか、なんも言ってないけどなんかとりあえず言ったような気になる言葉だなー、とは思う。

◆人格がちょっと偏ってるだけで精神的な病気まではいかない、みたいな話だったり、まぁとにかく字面がおどろおどろしかった。2chでは境界性人格障害をボダとか言って、あとはメンヘラか、そういう言葉もあった。
メンヘル、メンヘラ。神聖かまってちゃんのかまってちゃんも元々はここらへんからだろう。
この頃は若い人がドッとネットに流れてきてとにかくおもしろかったけどやりすぎな事が多かった。
自分はここでは生き残れないと思ってずっと敬遠していた。そもそものやりとりの速さが大縄跳びの間に入るみたいな感じなので、きびしかった。
罵倒の流れというか、そういうのにも乗れない。
ネットのコミュニケーションにも疎外感を感じていた。

◆今思い返せば、実況chの関西ローカルをよく見ていた。深夜の映画などを見ながら、スレッドを更新して「同じもの見てるんだな」と思いながらリロードを繰り返していた。あれは「人力ニコ動」とでもいうべき状態だった。テレビで関西一帯に流される放送を見ながら2chに書き込みする(のをROMっている)。

◆なんとなく「無理だ」と思う方面からは逃げてきた。ノリみたいなものが色濃く残る空間から逃げて、そうじゃないところを生き延びるために選んできたつもりではある。
要は、薬をたくさん処方されて自分の体は持ちそうにないから、メンヘラ的な生き方は無理だし、暴力にも耐えれないから共依存的なDVな関係(巻き込まれたが)も無理だし、死のうとするのもたぶん失敗して変な感じになるだろうし、殺すのも厳しい(こいつ殺して十数年拘束されるとかまじ勘弁なんだけどみたいな)…という感じで20〜30代は生きてた。

◆生きてればいいことある的なものも、甘えだ的なものも、とにかく嫌だったなー。とにかく全部嫌!って感じだったし、どれも違うなーって感じだった。自分のバイタリティや膂力に見合う生き方が見つからなかったし、自分のコミュニケーションでどうにかなる関係も見つからなかった。
そうなると、時間しかないのだが、時間もなくなってきた。
そんな感じ。
予後は良くない。



読みながら、なんか参考になるなーと思いながらパシャパシャメモしてる。まだ序盤だが。でもこれ、ある程度知らないと最序盤で意味がわからなくなるのでは?なんかフローチャート的なもので「精神分析家」になるルートみたいなのを最初のほうに乗っけとくだけでかなり見通しがよくなる気はした。ガイドがちょっと最初のほうに欲しいかな、と。しごと






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