わいの平成詩史23と24と25と26、27、28
(期間:11月10日ぐらいから〜11月23日まで)
※そろそろこのタイトルからも相当はずれて来ているから、どこかで変えようと思ってます。でも時々参照するURLはけっこう、というかほとんど平成な気がします。
21はまだ下書きのまま。
23〜28もほとんど途中で止まってる文章ですが、もう書きあげれないのでこれであげます。一応各番号に仮タイトルを振りました。
23 ビデオやセーブデータを「消す」から迷走して終わるいきなり終わる文章
ふと懐かしいプレイリストを再生した関係で、朝から電気グルーヴの誰だ!を聴いていた。「俺のビデオを消したやつは誰だー」というところで、ハッとして、書き出してる。
*
人が自らの保存用媒体を他人に上書きされる危険から脱したのはいつだろうか。
単にわたしがひとりで過ごしているから、そういった危険から遠のいてるだけで、世界はまだまだ録画で揉めてるのかもしれないけど。
それでも、媒体の大容量化によって、互いの領域にうっかり踏み込んでバトッてしまうようなことはめっきり減ってしまったように感じる。
また、常にコンテンツの頭出しができるような媒体に保存できるようになって、すべては容量に収まるかどうかで判断されるようになった。
ビデオのように、時間を、巻き固められたテープというものに収めていた頃は、どこからどこまでを消していいかとか、ここからはダメとかといった判断を、録画する人間が再生(早送り•巻き戻し)して調べていた。
ビデオテープは、家庭・共同生活の場に置きっぱにして、中身をあらためて「これに録画しよう」とか、空いてるテープ≒要らない(消してもいい)テープを選定するために「これ消していい?」と訊いたりして、それでもミスって揉めたりしていた。
セルビデオのテープさえ、要らなくなれば側面のツメの部分をセロハンテープで留めさえすれば、そこにふつうに録画することができたり、かなりラフな運用が行われていた。ビデオテープはビロビロになるし、ざらざらもしてくる。3倍にすればいっぱい入るけど画質は悪くなる。
AVは絶対誰も開けないであろう場所に入れておき、テレビ番組において、自身が重要・貴重だと思う回の録画は「消すな!」と書いて、テレビ台の下のところにほこりをかぶる。
白い空のビデオケースが重みでへにゃっとなっている。テープとケースの数はなぜか合わない。
そして、絶対誰も開けないであろう場所のAVも、自分が出かけている時にだれかが必ず見つけていて、こっそりと見ている。
そういう倫理観。
このような生活がエシカルじゃなかったかといえば、ある意味ではエシカルだったような気もする。「消すな!」を自分でマジックの線で消して、消していいテープにする世界観。
*
「消す」という言葉も、自分が保存していた内容が他人によって別の内容に上書きされたという意味であって、削除・ゼロクリアされたわけではない。
自分の必要性が、他者の必要性によって偶発的に上書きされ取り戻せなくなった状態のことを「(私にとっては)消された(のと同じことである)」と言ってるのである。
ただし、ここで砂嵐で上書きされていたとしたら、流石に悪意を感じるというか、恨みのような意図を感じざるをえない。
しかし、ほとんどの場合、ビデオを消されるということは、誰かが上書きしてもいいテープだと勘違いし、自分の大事なテープの上に別の内容を録画するという意味においてであり、さらにこれは、自分が他者に対しても同じことをしでかしてしまう可能性(過失)に開かれていることをも意味する。
*
ほかに、似たようなものとして、ゲームのセーブデータがある。
昔、ゲームボーイの聖剣伝説などはセーブが2個しかなかった。
兄弟でひとつの聖剣伝説をやっていると、セーブの操作が手癖になっていて、うっかりカーソルをひとつ送ってしまうとそれだけで弟のデータが消えてしまった。
ただ、聖剣の場合、マナの神殿まで行ってしまうと、後戻りすることができないうえ、すぐにステータスもカンストするので、お互いが終盤に進みさえすれば、もし仮に上書きしたとしても、マナの神殿のどこでセーブしたかの違いにしかならず、消されたほうも「よくも俺のセーブを消しやがって」と怒りに打ち震えたり、そこまで悲惨な喧嘩を勃発することもなかった。
聖剣伝説において、上書きが発生する状況というのは、もうすでに一度クリアしており、あとは源氏装備を揃えるために神殿で忍者狩っているときの、惰性のようなプレイをしている時が最も多いと、僕は思う。
だから、弟とのセーブデータの違いは、マナの神殿内での、セーブした場所、所持アイテム(源氏装備のひとつかふたつ)でしかなく、源氏装備を揃えたあとでは、ほぼ位置情報の違いしかないようなものであった。
プレステ時代になると、メモリーカードになり、15個分のデータが入れれるけど、なぜこんなセーブデータでメモリを7個も8個も食うのかというような不可解な占有の仕方をするようになった。
これはこれで、どれを消して今保存したいデータのための空きを作るか腐心するという、ビデオテープと同じような苦労が垣間見られた。
もう今はパソコンである。ギガとかクラウドで、なんでも外の、意識する必要すらないサーバーにデータがガンガン送り込まれているので、何も気にする必要がない。強いて言えば、支払いだけは滞らせてはならぬ。
ちょっと昔、といっても15年ぐらい前の感覚では、こういうの(クラウド)は「ちょっと怖い」と思うものだったが、意外といける気がしてきて、というか、どうしようもなくなってきて、なし崩し的に便利すぎて今こうなってる。
負けた、まいった、と言ってもいいかもしれない。便利さやシームレスさにまいってしまった。
昔はもっと重かったしギクシャクしていたから、手元に置いておく動機やインセンティブがじゅうぶんにあったのだが、もうそれもない。
どうせえっちゅうねん。
俺のビデオを消すやつは、今の時代、AmazonとかAppleとかなことが、寂しい気もする。俺のビデオやセーブデータを消すやつは「家族」だけだったはずである。
ちなみに、ここでの家族とは、友達、彼女とかも込みの、生活にあるていど絡んでくる、部屋に入れて自由にさせれる人との闘争みたいなものが勃発する関係の人、みたいなことである。
*
インターネット上に公開されてるデータというのは、なんかしら入力されたものがアップされてるわけである。
アップされてる場所が終われば、アップされたものは消える運命である。
そういうのは、ほとんどのサービスの場合、「消えます」と告知してから、消す。
跡地には、ご愛顧ありがとうございましたのページが表示され、しばらくしたのち、ポータルに飛ばされる。
いきなり夜逃げしてブチッと消えることは、あまりないと思う。
まあその頃には、ユーザーの方が「あったなぁ〜、そんなサービス」と思い出すぐらい忘れてることのほうが多い。
また、サービスのほうが「サ終しますんで、別のサービスのほうにデータ移行しときましたー」ということもない。
余計なお世話である。いい感じに黒歴史忘れかけてるのに、わざわざバックアップすんなと。
で、その"わざわざ"をやってるのがWeb Archiveであり、また、それらを参照する、わたしのようなやからである。
§
しかしながら、Web Archiveのように、アップされた場所から別の場所に保管してアーカイブすることで、擬似的に残ってるように見える場所もあるけれども、そこが終われば、結局それも消える。
Web Archiveにしろ、Wikipediaにしろ、上から寄付しろみたいなフレームが迫り出してくることがある。とても便利だし、恩恵にあずかってはいるものの、その維持には極めて冷淡、無関心である。
わたしたち的には、それが消えてみないことには、なかなかそれの大事さがわからない。悔やむこと込みでエモい。
ネット上のほとんどのものはサービスで、それよりもっと便利なものの誕生によって(記憶や生活を)上書きされる。そこに書き捨てていく。
いいやつは、ちゃんとてもとに残したり、サルベージしたりする。
それでも、いきなりハードディスクが逝かれてしまうこともあって、そんなときは悔やむしかない。わたしは幸い現役機のハードディスクがいきなり逝ったことはないけれども、最初のパソコンのハードディスクが4.3GBで、そこから次のパソコンにデータ移行するときに、使える媒体がフロッピーしかなかったから、当時書いていた文章や集めていたインターネット上の詩のたぐいはほとんどサルベージできなかった。
それに、当時の自分もそこまでデータに固執してなかった。フロッピー12枚ぐらいで、2往復したらもう十分かな、って。
でも、今思えばもうちょっと往復してもよかったかなって思う。
まあ、そんな感じで後悔はしてるけど基本データに対しては前向きである。データだからである。なので、Web Archiveのような、データが更新されていく経緯自体を蓄積し、保管していくアーカイブという行為になかなか支援が集まらないということは、みんなも意外と前向きに生きてやがんなこんにゃろー、ということなのだろう。
§
どっかの博物館が焼けて、焼き物の石板はむしろ焼きが入って引き締まったみたいなことを、ものの本で読んだけど、それに比べたらサーバーは脆弱である。
まあみんながこんなに色々とアップしたがる世界になると誰も予想していなかった。アップする手段とアップするためのコスト、教育や教養、自分が生きていて何かしているということや、いつか死ぬということをメタに捉える雰囲気などを、ふつうに人がもつようになって、じゃあそれをどう活用するのかという段で、なんか滞留してる気がする。
ここでどこかに包摂されるというか、救われないと、青天井で承認欲求が爆上がりしてつらい気持ちになってしまう。この爆上がりした承認欲求は横隔膜を押し上げ、社会的な呼吸がしづらくなる。小さな問題を大きな塊として一括で捉えようとする心性になる。
スモールステップ的な承認を(自他共に)求めれなくなる。
満足できないからだになる。
なので、自身の肥大化した体を、家族や部族といった「門」にくぐらせて、ちょうどいいサイズにもどす必要というものを感じる。
§
インターネットにアップするというのは肥大化のほうへ自身を向かわせるし、家族は「門」によってサイズを戻すことがあるけれども、削りすぎることもある。うっかりビデオを消してしまうようなこともある。でも自分はそういうところに生きてしまっているんだと思うことで、次に向かう場所も見据えることができる。そうじゃない場所へ行きたいか、そういう場所に留まるか。
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インターネットは肥大化しながら小さい。全世界に公開している「はずなのに」、実寸、等身大、距離と時間。
物理メディアから遠のいて、デジタルに淫しても、最終的には、まるで、釣りをしてる老人と意識高い系のひとの問答のように「それでどうするんだね?」からは逃れられない。
*
ビデオテープを消される生活は実寸な気がする。消されない生活は肥大化する。肥大化した領域は空漠で、いそいでなにかを置く必要が出てくる。ここに自分の過大な悩みを、社会や世界とごちゃごちゃに絡めたまま、塊にして置くことになる。
そして、とりあえず置いた悩みの塊を、時間をかけて打ち砕き、スモールステップ的に解消していくことになる。
これが最近の人生な気がする。
モラトリアムが延びるというのは、過剰に肥大化させられた領域に暫定的に置かれる彫琢される前の大きな悩みの塊のせいで、現実や等身大を削り出す過程があとに置かれるようになったためで、これを他者からの侵襲によって早めに終わらせるか、病むかみたいな時代が昔はあって、ぶっちゃけ内心みんなめっちゃしんどかったから、みんなこういうのほんとは大っ嫌いだったから、今こんなふうになってるのだと思う。
基本的には恐竜時代の哺乳類の構図でずっときてる気がする。
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モラトリアムな人が、インターネット上の詩でまず取り組むテーマとして「ないがある」とか、結構大きめのテーマいくのも、それじゃないかと思うことがある。
技芸とか技巧としての詩によって、いく通りも「ないがある」の詩ができていくけれども、そのねっこにある自分自身の削り出し過程があとに回されたために、大きな塊から取り組んでしまうせいで、毎回若者というものはいつの時代も常にある種の透明性を確保できたり中央神殿から引っ張ってきたようなど真ん中の文体を歩くことができたりするけど、それもまた当時のリズムの影響下にあったことにのちのち気づいたりする。
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侵襲から逃げだしたり、はみ出した部分があって、それ同士をインターネットによって擬似的につなぎ合わせていた。削除は人に任せていた。いつか消えることもわかっていたけど、それより早く次のものに飛び乗っていった。人間はいつか死ぬから、公開されている媒体やサービスの飛び移りができなくなれば、そのサービスがその人の公開された表現の終着場所になる。
それらのサービスが終われば、その経緯を自動でクロールして回収するWeb Archiveのようなサービスによってしか見返すことはできなくなる。
Web Archiveも万能ではなく、あまりにも被参照数の少ない、過疎って短期間で消えたところとかはうまく回収できずに「Hrmmmm.......」みたいな感じになる。
*
じゃあそれがずっと誰かによって記念碑的にサルベージされ続けるのがいい人生なのかといえばそれもちがうような気がする。
歌とか映画とかちゃんとしたやつならいいけど、昔掲示板に書いたちょっとしたこととかをずっとなんか参照されてたら「どやねん」という気持ちにはなる気がする。
24 最近「なんとかのなんとか史」「なんとかのなんとか学」みたいな本ばっかり買ってる話から途中で終わる文章
最近「なんとかのなんとか史」「なんとかのなんとか学」みたいな本がいっぱい増えてる気がして、そういうのばっかり買ってる気がする。
〈サラリーマン〉の文化史、修養の日本近代、「働く青年」と教養の戦後史、エゴ・ドキュメントの歴史学。
これらを整理すると、わたしの興味は、仕事してる人が教養を身につけて結局どこにいくのかみたいな話である。
そしてここで考える教養というのはスキルではなくどうなっても楽しめる感じのことである。すごく勉強して身につけたスキルと資格で流動化した転職市場で生き残るとかそういうんではなくて、なんか急に怪我したりぎっくり腰とか老化で、通常運転がままならなくなってしまったあとでも、そこそこなにかを楽しんだり、それを受け入れたりするための能力である。
そして、もうひとつの意味として、自分がこうやって書いていることの歴史、ようは有象無象の誰かがなにかを書き残すことについての歴史的な経緯や構造について知り、それらの構造をインターネット上の詩においても適用して考えてみること。つまり自分自身のインターネット上での来歴のようなものを辿り直すこと。これがわたしにとってはかなり重要な位置を占めている。
そのために、働く青年の教養文化史などを読んでいるのだと思う。
二足のわらじというけれども、昔から働きながらものする人はいくらでもいたということ。ただそのハードルが下がる(書くほうも読むほうも)場合、筒抜けの世間話のようなものになって、そこでの終着点も、家族であったり養うなにかを見つけたり生み出すことであったり、つねにいい距離感で傍らにありつづけるツールとしてのインターネットであったりする。
インターネットで人生を変え損ねた人か、もともとそういうスタンスだったのか、今は曖昧で、ただ、
25 写真アプリのカメラロールにのこされた「流れ」と容量削減の兼ね合い
ふとなんとなく、容量を気にして、写真アプリのカメラロールを見ていて、最近の写真から昔の写真へと遡りながら「どうでもいい写真」を消していっていると、昔の写真のサムネは「この流れだからこそ記憶に残っている」ような気がして、どうでもよくなってきて、消すのをやめてしまう。
おそらく、断捨離的には絶対に要らないものだと思うし、自分でも要らないと思ってるのに、この写真の次にこの要らない写真があって、その次にこの写真が並んでるからこそ意味があるのだと思ってしまう。
並びに意味があるのであって、写真の内容が暗いとかブレてるとかいうことで、情報としての価値が損なわれているから消そうとはならず、むしろそこを消してしまうと、流れや並びを記憶していた自分のなにかを損ねてしまう気がして、なかなか消すことができない。
消すときは、まだ自分がそのカメラロールと近い時に消しておくべきだったのかもしれない。何度もロールを送っているうちに、この写真のあとはこのブレブレの写真があるのがいいんだよ、と思ってしまう体になってしまった。
*
ただ、詩の場合、こういった過度なこだわりは障害になるという人もいるかもしれない。そういった個人的な価値や流れを共有しない他者にも伝わる「真ん中」を彫り出す、削り出すために推敲をしている、つまり客観性を担保しながら言葉を組み立てていくことによって、他者にも自分の感じたような感じを味わってもらえるように、再生装置としてうまくセットしたい。
だって、自分もそれにひっかかってびっくりしたから、そうしたい。
でも、それとはまったく別ルートというか、まったくの同根だと思うけれども、言葉に対する過度の嗜癖や拘りによって、呼水もなく、匂わせすらさせず、まったく共有できないように書かれたものが装置として機能しないかといえば、結局のところ、「それは誰にもわからない」「いつか機能するかもしれないし、ずっと機能しないかもしれない」。
宇宙に向かって等速直線運動していって、何かに当たるかもしれないし、何にも当たらないかもしれない。
ただし、媒体の破損や消去によって淘汰は起こる。できるだけコピーされ頒布される形式に残っておけば、等速直線運動は阻害されない。
その淘汰圧を、知らず知らずのうちに内面化しながら詩を書いてしまっている。いったん、そこから抜けたほうがいいような気がする。
男性性から降りるとか、マチスモやダンディズムやホモソから抜けるみたいな感じかもしれない。詩の詩ぃっぽさとか詩らしさとかから降りること。
降りるというよりは受け入れるとか認めるとかいったほうが早いのかもしれない。
好きに書こうとして、もう「好きに」ってことを忘れてることに気づく。
好きなことを再現したあとはどうしよう。
それでも書きたいときはどこになにを求めようか。
*
誰の詩でも最初の詩はすごくしゅむ気がする。
最初は情念や勝算が篭ってる気がする。
でも書き続けるうちにシリーズもののCMの第5弾ぐらいになってなんかディティールがごちゃごちゃしてきて初期のシンプルさは失われてしまう。
昔燃焼系アミノ式というCMやDAKARAのCMや布袋が永瀬を追いかけるCMやNOVAうさぎのCMなど、あらゆるシリーズもののCMは回を経るごとにディティールがごちゃついていた。
ああいうのは、2個めぐらいにできたのをあえて5弾ぐらいにしたほうがいいのではないかと思う。
でも最近は携帯のCMにみられるように登場人物がもうごちゃついていてディティール自体がごちゃついてるとかそういう問題ではなくなってきた。
というか今までのCMによってそういうのを受け入れる素地ができてるのがでかいのかもしれない。
あとはすぐ他社のキャラとかも入ってきて一瞬コラボするとかも普通にやれるようになってきてるような気がする。
というかもうテレビ自体を見てない。
Youtubeのすごい早口のCMを5秒でスキップしてたり、なんか物理エンジンのパズルみたいなやつとか(指で描いた線が防壁になるけど失敗するやつとか、太い道をたくさんの青い人型の群れが立ち塞がっていてそれをなんか潰して突き進んでいくみたいなやつとか、5の魚が3を食べて8になってイキって150にいって食われるなど)、毎回いったいなんのCMを見さされてるのかと思う。これで収益上がってるのか不思議でしゃあない。
*
最初の詩はなんか濃いというか出発というか、覚悟の感があって、現代詩フォーラムで前の詩がない人が書いてるのをみるといいなぁと思う。
かといって書きまくってる人がよくないなぁってわけでもない。
書き続けるのは書き続けるので大変で、肩の力ぬくかハイになるか自家中毒みたいになる必要があるのでそれはそれでしんどい。
ハッとした瞬間やちょっとした忙しさですべての動機を失ってしまう。
しかも別にお金がもらえるとかでもなく、書かないと食べれなくて死ぬとかでもない。
ある意味ギリギリであるが、自分でやってることだから、自分さえ辞めてしまえば、ギリギリでもなんでもない話になる。
*
でも、その最初のやつがすでにキラッとしてない場合のとき、なんかそれはそれで寂しい気がする。
詩というものへの先入観でずっとくぐってこなかった門にヤッと入ってみた感じのやつとか、おずおず入ってくる感じのやつとかよりは、なんか真夜中にやむをやまれず書いたって感じのもののほうが個人的には好き。
そういう詩は、時々、「自分が寝ぼけてアカウントをとって書いたのか!?」と肝を冷やすほど自分であることがある。
そういう詩は、たぶん詩としてはあんまりよくないというか、これからもずっと、ぷかぷかと生まれてくるタイプの詩だろう。
だから、たくさん勉強したり経験した人のうち、さまざまな境界を渡る人のうち、とてもうまく芯を食ったようにあらわせる人が作る金字塔的なものにはならないだろう。
だからといって、それらを愛せなかったら、それは自分を愛せないのと同じだろう。じゃあまず何から愛せるか。
さっき(いつしたっけ?)の「好き」の話とつながってきて、これはまた、大衆教養主義というのか、識字率というか、みんながこんなにどう生きるかーみたいなことになった時代におけるインターネットの使い方、みたいな話にもつながってくる。
会うということが巻き込まれるという意味に近づいていって、大衆文化教養はネットでガッツリ涵養できるとなったら、昔、人生雑誌を読んでたような勤労青年みたいな人には、居場所がなくなるような気がする。
外はなるべくワープしなくちゃいけないし、いつも新品を買わなきゃいけない感じがする。パスポートは妻と子。
40歳になっても友達2〜3人でBookOffとかでずっと立ち読み行けたらたぶんそのときが世界の平和が実現した瞬間かもしれない。
昔、白木屋コピペとか流行ったけど、ああいうのじゃない世界。かといって警備員みたいな服着たおっちゃんがひとりチャリにまたがってひとりベンチに座って喋ってる感じとも違う。
生き物として差し出し合わないところと差し出し合うところをもう少し丁寧にやった男の関係みたいなものを作れたらなぁ、とは夢想する。
今はみんなバイタリティをインテリジェンスや処世術に変換してゲンスルーのリトルフラワーと同じ理屈で男尊女卑の上にそれより強いオーラで手のひらを覆ってコンプラ維持してるところがあるので、みててしんどいし、そういう人と関わると絶対ドッグファイト(飛行機で後ろをとってくるような)ばかり仕掛けてきてめっちゃしんどかった。おとこおとこしてるとなんか仲良く付き合えるっぽいのは他の人との喋りを見てればわかるけど、しんどいのは嫌だなぁと思う。
26 東洋経済の孤独特集とm.qyiさん
Amazonで東洋経済の孤独特集を買おうと思ってたらYahoo!の読み放題のほうにきてたのでそれを読む。
2040年には推計で単身者世帯が4割に迫るらしい。
今朝はチェンソーマン7を見て、米津常田対談を見て、朝ごはん食べてお風呂に入ってGyao!のM-1ワイルドカードを見て、これを書いてる。
あとFireFoxに翻訳アドオンを入れたけど英語で見たかった場所を忘れてしまったから機能確認のためだけにXVIDEOSのサムネを見てる。
*
孤独とか孤立。相談相手がいない。
確かに仕事がなかったら毎日話す人もいないし、プライベートの話をする人は誰もいない。
なんか早死にする気がする。びびりなので心臓が早くダメになりそうである。ストレスもよく感じるから血管もダメになりそうです。笑うことはあまりなく、M-1のワイルドカードは本当にありがたい。
*
ようやくここへきてネットの詩の話であるが、以前書いたm.qyiさんが作ってたWEB詩誌"The Contemporary Poetry Magazine II"が見つかった。
もうタイトルからして賢そうである。表紙の絵もなんかもう現代アートというかコンテンポラリーアートっぽい。こんてんぽらり意味しらんけども。
記事も、こういうのとかすごく面白そうである。
ただこの詩誌の迷宮感! どこを押せば記事にいくのかとか、毎回わけがわからなくなる。m.qyiさんらしいといえばらしいのかもしれない。
なんかわたしの脳内で、m.qyiさんと同じ引き出しにしまってるのがこの人
なんかこの人の書き味とかがなんとなくm.qyiさんと同じ引き出しにしまいたい感じ。詩とは全然関係ないけど。いや、あるのか。精神分析は詩と関係あるのか。いや、ないのか。
*
27 詩という装置と、それを作ることに没頭することと冷却すること。さらにはそれらの行為を迷惑だと感じることと、それによって自家中毒に陥ること。
個人的にはこの文章には「冷却」とか、詩を書くときの動機のようなものがすごく綺麗に抽出されてるように思う。
わたしが太字にした箇所では、「ESPに似た何かで嗅ぎ分けて」「よろこびとほまれのために」「似たようなものをこさえて人が来るのを待った」とも書かれている気がする。
わたしの言い方だと自分の中で作動した装置にびっくりして、自作して道端に置くようになった、みたいな感じになる。
詩を読むというのは、道端の信号で止まるときの胸の位置あたりに、稼働していない半透明の人工心臓みたいなものが浮いてあって、人がちょうど重なるとパチーンと人工心臓が実体化して稼働して血が全身行き渡ってえーなにこれーみたいな感じである。てきとうである。
そういう装置の中で、最も自作しやすい部類のやつが詩である。
これはたぶん、「奈緒」さんの掲示板のWebArchiveだが、gy0さん?の発言のとげとげしさを、奈緒さんがたしなめている。
ここにも、まあとげとげしい発言ではあるものの、孤独な男性(勝手に断定してるけど憶測です)のねじれた心性のようなものがあざやかに抽出されてるようにおもえる。意訳すると…
満たされたら消えてしまうような心意気は本物ではないし検索のノイズになるだけだから消えろーって思うけど、それが満たされないまま孤独にやり続けてる自分はどうなのか…と、ふと考えたら微妙に不安でもある…。
みたいな感じであろうか。このような心性は、わたしにも確実にあって、これはある意味日本の病理であるとでっかくいかせていただきたい。
8文字ぐらいで表すと、プライドが高いで済む話なのだが、そのプライドの解体手順とかソフトランディングさせる手筈みたいなものが日本には揃っていないし、今も空を飛んでいる謎の単身の飛行物体が日本には多すぎて把握しきれない。
簡単にいえば、どれをやっても自分にとって裏切りのように思えるし、あいつにとっても裏切りのようにも思えるということである。
ここでのあいつというのは昔の自分という意味でもいいし、昔つるんでた友人とかでも全然いい。
かといって動かず変わらずで居られるわけでもないので、時間によって強制スクロールされながら孤独に生きているわけである。
*
詩というものが安易に作れるかどうか。装置として置くことさえできればそれはすべて詩になりえる。なんか取れかけて木のコブみたいなところから生えたイチョウの葉が市バスの排気ガスでぐるんぐるん回転してるとかも「装置」なので、要は人間が作ってないやつでも詩ぃ可ぁです! 道端に落ちてる糞とか、アスファルトの目地に埋まって褐色になってるキンモクセイとかも全然詩ぃです!
という感じである。
ただ、このように、ほかのもの(芸術的な表現手段?)よりも、詩の場合は勝利条件みたいなものがめっきりすくない。ない。ない気がする。
漫才とかだとお客さんを笑かすとかが勝利条件だけど、詩はそういう感じではない。笑えない程度のお笑いが詩であるというわけでもないし、笑えるほどじゃないけどうまいこというてるのが詩、というわけでもない。
詩は別に客のほうに向いてない。作者にも読者にも向いてないときはまったく向いてない。装置として道端に稼働しないままシーンとすらならず、なんかあるのかないのかもはっきりせんまま存在している。
なので、すごいとかすごくないとかはすごくわかりづらい気がする。
めいめいはくはく(変換できない こういう言葉なかったっけ)に文句なしにすごい!みたいなのは、アニメとか絵とか音楽にとられている。
かといってしっぽりしっとりするのが詩、というわけでもないし、ようわからんのが詩、というわけでもない。
現代詩手帖の史観みたいなものは詩壇ジャーナリズムをつくるんじゃいといって小田久郎さんや代々の編集者や詩人が頑張って作ってきたものなのでそこのまったり深掘り深掘りみたいな現代詩的な言葉の掘削作業的な、言葉をがっつり深めていく作業も認めつつ、それらの史観を相対化し、自分たちの身近にある地元の小集団に所属しつつ、自らの詩と身体を誰かに披露できる場所を確保しつつ、インターネットでの発表という形態や、それらによって生じるつながりもじょうずにやっていこうね、という感じになりたい。つまりすべての場所でうまく呼吸して取り入れていきつつも、どれも馬鹿にしないで丁寧に生きてみたいけど、自分のねじれた心性「あいつ」も忘れないでやりたい。みたいな感じのことを、死ぬまでに達成したいですね。
シンプルにいえば、
詩で神谷活心流とか亀仙流をやりたいという話である。
鈴木志郎康さんが到達したところ(現代詩をもみほぐすの鼎談などにみられるような考え)は、とてもそれらに近いようにおもえる。
28 詩は救急車みたいなウイルス
詩というのは救急車みたいなウイルスである。
コロナ禍でウイルスはなんか体の中の機能で増殖するみたいなことを改めて知ったりして、その生き物か生き物じゃないかが微妙だとか、もともと人間の体にあったやつが単品で外に出ていっていろいろ経て戻ってきたやつがウイルスだーみたいな話をどっかで読んだりして、詩っぽいなと思ったりした。
あと、救急車な一面として、非常に切羽詰まったホットライン的な部分が詩にはある、ことがある。
この救急車は救急車なので、交差点とかを信号に関係なくゆっくり走り抜けていったり白線を踏み越えたりして縦横無尽に行くが、それは「患者」の命を助けるという共通理解のもとに成り立ってるわけだから、しょっちゅう救急車を走らせているとさすがにしらけるから「ポエム」とか言われてしまうわけである。
これは隙自語であったりヤフコメで親指下ボタンのほうが優勢なコメントとかにも言える話で、やっぱりテーマというか、基本的な交通ルールというものがあり、その特例として救急車は走っているのだが、患者の如何は謎である。便秘の女性が薄化粧して待機して乗った救急車かもしれないし、ガチで死にかけてる人のかもしれない。そのへんは言葉なのでよくわからない。
詩のホットライン性というか、直通性のようなものを信じてるとそんなおいそれと救急車を走らせるな、この道路で自分語りをするな、みたいなことを言う人が増えてしまうのはわかる。わかるけれども、それが孤独な男性を蝕む原因な気もしなくもない。
自分の専門性や有用性が発揮できる範囲に限って言葉を書くことができるという発想は、詩にはあまりない発想である。
むしろそういう場に限って全人格的に包摂するような変なパターンのところがあってもいいように思うし、というか俺はそれがほしい(なんならつくりたい)。そういうのが奇跡的にテーマが決まってる場所で構築されてると逆に嬉しい。尊い。
でもだいたい今のコンテンツは、テーマやコンテンツといったものに吊り下がるようにして、沿った話をしていくのが基本であるから、他のことは蔑ろにされがちであり、プライベートがどれだけ孤独でも、そういうのは全然見えてこない。
そこが充足して専門性や有用性を発揮してるのなら全然OKだが、そこが結構ギリなので、やっきになって専門性と有用性のところに自分を滲ませようと努力してるのだとしたら、それはそれで、かといって、「助けなければ」というのも、おせっかいだけど、なんか、なんかなんかである。
みたいな距離感が日本を席巻していて、ぱっと見ではわからない。
バスで本当はもう発狂したい人がいても、ぱっと見ではわからない。
バスのテーマは一蓮托生なので、いきなり発狂されても困るだけであるから、誰もそこで全人格的な包括的に受け入れてもらいたいとか思わないようにしているけれども、けど隣の人のダウンの肘の輻射熱なのか静電気なのかよくわからない磁場のようなものに半ボッキしかかってるとき、なんか日本はこれでいいのか?と思わなくもない。
テーマ、つまり門によって選別され、それ用の、それを望む人同士が集まり、そこでそこそこ安全なテーマに沿った運用がなされるという雰囲気によって、他者の侵襲や暴力からは抜け出すことができた。わーい。
けど、これでいいのか。
かといって、詩が常にウザ絡みになるようなことも控えたい。
電気グルーヴの虹のときのモードみたいな時とか、それ以外の時、とかみたいな、自分を受け入れてくれる誰か、というのを探しておくといいのかもしれない。で、わたしにはそういう人はいなく、これからもそういうのは
いや、わからない。でも、このまま生きてると可能性としてはめっちゃ低い。
平成年間で煩悶し続けたこの問題を、令和になってもまだ抱えてる自分はもう十分に頭があまり良くないけど、どうやって次の一手というのか、生きるにあたって盤面にビシーっと一手を打ち、納得のいく感じで逝くことができるのか、詩とインターネットと一緒に、そんなことを考えている。
(つづく)
(こぼれた部分)
詩がポエムと揶揄されるのも、人々が詩というものへの期待と、それが裏切られ続けて来たこと、また、救急車的な運用を怠って、中身に偽装患者を詰め込みすぎたり、そういう患者をのせた救急車で交通ルールを守らない輩が多かったせいなのではないかと思う。
そういう意味では、これってある意味リベラルというものの問題にもちょっとは還元できるかもしれない。沖縄の0日に戻したほうがいい問題も、根っこは同じような話な気がする。つまり救急車は誠実さと言い換えてもいいのかもしれない。周りの信用(救急車には急患が乗っている)によって交通ルールをそのときだけ無視していいのであって、信用されなくなったら救急車のためにどいてくれなくなるという話である。今の詩とポエムの揶揄や日陰な関係は、もう決してどいてくれない車列みたいなものである。だから詩は何よりもまず作者の属性を付加価値として見るようになってしまった。
そうでないと車列を空けることができないようになってしまった(個人の中にも車列はある)。そして、自分が困らないと、道をあける意味も思い出せなくなってしまったし、そんな思いはしないほうがいい、価値のある部分だけ踏んで生きていきたいという気持ちが支配的になっていった。
外と呼吸する詩、漫才
(今日11/23の日記の断片)
ひさびさにテレビをつけた。
録画内容を確認するため。
なんかサザエさんを毎週録画設定にした気がして
ハードディスクぱんぱんなってんちゃうかおもて
ひさびさに録画内容見たら
なんか一話分(実質3話)しか録画されてなかった
よかった。
押し出されて保護してないやつが消えてたら
どうしようと思った。
WOWOWに加入してた時の、くるりのツアーのやつとか。
つけたついでになんか見ようと思ったけど、
未視聴のやつが
全部くるりのライブとか映画とかで、
ぱっと見2時間ぐらいありそうなので
見る気起きひんくて結局
ミルクボーイが優勝した2019年のM-1
アナザストーリーを再生した。
これは45分ぐらいやし
何回も見てるから気持ちはやく感じるし
あとちょいちょいおもろいのが1番手ニューヨークのとこで屋敷の「最悪や!」がガチみたいに編集されててM-1の洗礼を受けた、お祭り気分に冷や水ぶっかけられたみたいにしてるとことかが見ててなんかおもしろい。編集で「こんな感じに持っていきたいー」って感じがすごいする。
あと最後のほう駒場さん泣いてるとこで毎回涙腺崩壊しかかる。
*
話は変わるが
漫才にもなんか放出系とか強化系とか当てはめたらおもしろいかなーとか思ったりしてて
かまいたちは放出系かなーと思ったりする
山内が変人になって2人の掛け合いがオーラになって客席に放出される。見取り図とかもそうである。
ミルクボーイは逆に客からあるあるを吸い取って爆発させるタイプ
(私は昔逆再生のストラックアウト型とか言ってた気がする)であり、これは、ある意味で「外」と呼吸していると言える。
コンプラ厳しい昨今、外と呼吸するのはリスクである。
今の漫才師はある意味コンプラで
ふぐの調理師免許みたいなみたいなことをしながら
あえてそのへんをかすめるようなことをしている。
スリルによる笑いというのもある気がする。
ただ、そういう、
テレビとか世間が設定した「スレスレ」を
踏んだり踏まなかったりが「外」との呼吸になるのは
なんか変というか、
なんか擬似的というか、ほんとうではない気がする。
でもコーンフレークで、なんか「外」のものを踏み込んでディスった感はあったから、面白かったのだ。
でも本来的に外と呼吸するというのは、社会への風刺を含んだり
日々の愚痴であって、それは最終的に
もっと政治や国をちくちくするべきのものじゃないかとも思う。
まあそれが必須だと息苦しいけど最後には
そこに行き着くような感じがあったらいいなーとは時々思う。
その意味で、ミルクボーイは確かに「外」を
ディスったけれども、それはあくまで商品であって、
国とか政治じゃない。
けど「外」を踏んだ感じがした。他の組が軒並みふたりでつくった世界観の放出系に終始していた中、やはり何かしら「外」と呼吸する組が上がっていった気がする。
外との呼吸というのは文脈とか関係性にも繋がる。
演者が持ち込める「外」は、ネタかその人自身しかない。
その人に文脈や関係がついてきた場合の「外」は、2020のM-1、
人自身に「外」がついてきたのは2021のM-1だろう。
*
外と呼吸しすぎるとウーマンラッシュアワーになる。
いや外と呼吸したからといって
ただちにああはならんやろという考えもある。
今漫才で「外」と呼吸するのは難題である。
最近だと三遊間というコンビが外とうまく呼吸していた。
お客さんから引っ張ってくるタイプの笑いができていた。
なんかああいう感じの漫才って自分が生きてることを
思い出させてくれて好きだけど、
そういう生活を送ってない人にとっては
ただただ白けるだけなのだろうなとは思う。
「おおかたの人」の生活史や暮らし方から拾ってくるタイプの漫才は、そういう暮らしをしてこなかった人には笑うことができない。相対的に若い人が不利になる。
その意味で、その場で火を起こすタイプの放出系の漫才はフェアな気がする。
オズワルドとかかまいたちの漫才は、そういうフェアさを持ってる。
ただ、お年を召してくると、その火おこし、つまり「設定」を頭に叩き込むのがしんどい。自分の中に彼らの話の設定の足場を組んで、笑いにまで持っていくのがだんだんしんどくなってくる。
かまいたちの設定の最初のベタさというのはちょうどいい湯加減で、日常から遠のきすぎなわけでもなく、足場は日常側に置かれていて、根っこはちゃんと外で呼吸している人の話なので、どこまでいっても笑いやすい。
その意味で、真空ジェシカとかオズワルドの笑いがわたしにはだんだんむずかしく、また、しんどくなってきてしまった。
自分が生きて来たことから笑いを引きだしてほしい、という願望が年々強くなってきたということかもしれない。
でも今年のワイルドカードは全部おもしろくてこれを無料で見れてあまつさえこの再生数が投票になって、そのなかからたった1組しか選ばれないなんて、なんちゅう恐ろしい世界やと思ってしまう。
というか、今回は推しのやつだけ回すということがふつうにできない気がする。ふつうに他のもぽちぽち見まくってしまうし、全部笑ってしまうので、へたすると推しのやつよりも再生してしまってる動画とかもあるような気がする。
それぐらい今年のGyao!のワイルドカードはすごい。
お金払えるならどっかに寄付したい(というか、がんばって劇場見に行こうと思う。)
以上、みんな面白いけど、わたしは外と呼吸してる感じの漫才が好きだなー(ってか楽だなー)って話でした。長々と失礼いたしました。
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