そろそろネット詩爆撃プロジェクトから20年が経つ

2002年4月1日、 いわゆる「ネット詩」系の投稿サイトへ 現代詩人が詩を投下します。 初めて詩に触れる場はインターネット、というこれからの時代において、 私たち現代詩人はインターネットでの詩の在りようを問わなければなりません。
「ネット詩爆撃プロジェクト」は、「ネット詩」の未来と「現代詩」の未来のために 私たち現代詩人ができる、ささやかなひとつの行動です。
2002年のエイプリルフールが現代詩との出会いの楽しいきっかけとなりますように。

『ネット詩爆撃プロジェクト 巻頭言』
http://web.archive.org/web/20021012121714/http://po-m.com/bomb/index2.htm

今年(2022年)の4月1日で、あの「ネット詩爆撃プロジェクト」から20年になるのか。最近自分が書いた日記やメモの中から「ネット詩」と書かれたものを検索して掘り起こしていて、気がついた。

わたしの記憶はどうだっただろうか。現代詩フォーラムにも書き殴りが置いてあるが、これによって少し流動性が上がったような気はする。「ひょっとして、外にも世界はあるらしいぞ!?」という感じがしたのは確かだ。
ただ、あのころは、詩の感想をつけてから投稿するのが習わしだったのに、それをガン無視して野村喜和夫『第九章告別』とかを代理投稿したものだから、それが問題になって、そこに住む村人たち的には「っざっけんなよ」という感じで、投稿側も「はいはいすいませんね〜」って感じで5つぐらいの詩に感想をつけていって、余計むかついたみたいな記憶がある。

今書いてみて、ああ、アイデンティティーというか、所属を感じていたんだな、と思う。あの所属の感じはなんなんだろうね。顔の見えない所属。オンラインゲームで仲良くなるような感じと似てるのかな。そうやって似たような表現や雰囲気だな、という人たちとまた小集団をつくり、少しずつ現実というか、実際に会ってみて、共同でなんかする。そしてそれがうまくいったりいかなかったりして……。腰掛け度合いや入れ込み具合にもよるのだろうが、ちょうどハタチになるかならないかのときにネットに入ったわたしからすると、なんかすごく馴染んだ。まあ当時現実では生きづらかったし、バグッてもいたから、ネットはちょうどいい塩梅だった。

話がそれた。そう、ネット詩爆撃プロジェクト。あれはいったいなんだったのかとおもって、現代詩フォーラムの同窓会に参加したとき、管理人の片野さんにちらっとお話を伺ったら「黒歴史だw」と苦笑されていた。まあ「お前なに触れてんだ、ボコすぞ」っていう感じの、わるい意味での苦笑ではなく「あったわぁ、そんな思い出ぇ」って感じの、朗らかな苦笑いだった。

まあそれはそれでよかった。わたしもそんな感じだったので、そういう感じでよかったなあとおもった。

こうやって書いて思い出してみると、なんかウホウホしてた猿がモノリス触ってキィィィィーン…みたいな感じで進化したような気がしていたけれども、まあそんなこともなかったな、と。単純に投稿サイトのルールを無視した投稿にガチギレして、野村喜和夫氏が爆撃機に乗ってコックピットでおでこに指を当ててウインクしてる拙いイラストを描いてコラムに投稿しようとしてなんか「…これはさすがにやばいのでは?」と思い取りやめた記憶がある。今にして思えばやめとかなくてもよかったけど、やめといてよかったなとは思う。どっちにしろ、それで何かが起こったとは思えないから。

でも、それから「主催者は誰じゃー!」ってなって、いろんなサイトを見に行って、当時は現代詩フォーラムはまだインターネット上にはなくて(たしか、爆撃プロジェクトのちょうど1年後にサービス開始)、主催者のサイトを読み耽り、そこでコペルニクス的転回(これはいつか別の文章で書こうと思う。現代詩フォーラムの書き殴りにもちょっと書いてるけど)があり、それからわたしの詩の読み方というのは、ちょっと変わったような…気はする。たぶん。
というか、あれがなかったらわたしはともちゃん9さいさんとか、ほとんどの人を知らないままだったっていうことになる。それがどういうことになるのかは今はもうわからないけれども、今はこっちの人生でよかったなと、なんとかおもえている程度には生活を送れてる。うん、よかったんだろう。うん

という意味では、爆撃プロジェクトは当初の目標を達成できたのかもしれない。まあ巻頭言を引いて言えば「ささやか」ではなかったし、「出会いの楽しいきっかけ」でもなかったのは確実。そもそも「爆撃」という言葉の選定じたいがおだやかじゃなかったし、この爆撃という言葉はほんとうに時期によってはさまざまな世界情勢と絡んで「今その言葉を使うのか」みたいな誤解をうみやすい(今だってそうだ。でも、個人的には言葉は湿ったり乾いたりする時期、というか、その言葉がセンシティブになる時期と遠のく時期があるだけであって、いちいち"今"使うのはどうなのかみたいな、言葉がこれからも残り続ける局面でさまざまに捉えられるという射程を念頭に置いていないような非難や批判といったものとはいつでも距離を置いておきたい。SNSのようなタイムラインに並ぶ世界にあっては、この限りではないかもしれないが、それでも相手がニュースをまったく見ていない可能性にも留意して、簡単に"今この言葉を使ったからこいつは無神経でとても悪い人間だ"みたいな短絡的な考えには与しないし、与したくない。)

最後はエクスキューズというか言い訳じみてしまったけれども、まあ明後日はあの日から20年経った、というだけのことだ。まあそれを感慨深くうけとめている人がどれぐらいいるか、知る由もない。

いやー

にしても、はやいねー。って誰に言ってんのかって感じだが。


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