セルフネグレクト、ディオゲネス症候群

あさ。エマの9巻を読んでる途中で書いとこうと思って書いてる。もともとはAmazonのリコメンドで「エマ」「横浜買い出し紀行」「世界はそれでも廻っている」がしょっちゅう上がってきてて、どれも表紙はメイドっぽいので、このメイドっぽいののうち、「どれかひとつは読もう」と5年ぐらいずっと思ったまま時間が過ぎて、やっと最近メルカリで全巻(というか森薫セット)購入して読むようになった。7巻を読み終わってから一ヶ月ぐらい経ってて、ふとまた昨日から8巻を読んで、今朝は9巻。
メイドといえば、メイドラゴンが出し抜いたりもしたな。アニメの影響で、メイドラゴンのほうが先に買ってしまった。

万博とか貴族とかヴィルヘルムの嫁の裸体の描線とかエマとか若かりしケリーとか。



昨日はどういう検索をしてたか忘れたが、ディオゲネス症候群という言葉を知り、セルフネグレクトみたいな、ゴミ屋敷みたいな、認知症みたいな概念だが、ディオゲネスというとA3の麻原彰晃を思い出してしまう。いや、そもそもディオゲネスを症候群にするのはいかがなものかと思ったのだが、なぜ思ったのかがよくわからない。

市民だよりとかを読んでいると、わたしぐらいの歳はサポートがあんまりなく、もうちょっと歳をとってどうしようもなくなってからのサポートは結構あって、そういうのとディオゲネス症候群と「助けてが言えない 中年バージョン」と凪のお暇と恋のツキが混濁している。

自意識の問題とプライドの問題ととりあえず今はうまくいっているという問題と殻の問題と膜の問題。

もっと単純にいうと、電線の雀が一年後は違う雀で、去年見た雀はたぶんだけど死んでるっぽいやつの人間バージョンが社会で行われていることを単身者はひしひしと自分の裡にそれとなく把握していて、かといってそれをどうすることもできないという、じょじょに暗渠に流れつつある自らの身をどこに漂着させればよいのかわからないという問題がある。

そこにはおそらくそれまでの特性の問題が絡んでいて、幼少期の育てられ方とかエピソードとか認知の歪みが絡んでいて、でもこれは親オンリーの冷蔵庫マザーみたいな母原病みたいな概念とはちがって、お互いさまっていうとあれだけど、本来であれば年上のほうがどうにか気づいて外部リソースを藁にもすがるつもりで利用してその子を広大なサポートの世界につなげてさえやれば、いやつなげても徒花かもしれないけれどもまだそのほうがどうにかなる可能性があって、Re:Hackの次回予告でビッグダディが「今の世代を諦めなくちゃいけない」と言ってたが、それはちょっと当たっていて、無限後退する親の責任とかいうやつに歯止めをかけるにはまあ今の自分にある程度満足しなきゃならず、そのためにはちょっと毒親とかいう概念を持ち出して地面にして蹴らなきゃ引力圏から抜け出せないし、抜け出して自分で決めてみればある程度無重力の宇宙空間みたいなもので、エコーのかかった心電図みたいな音しか鳴ってないような漆黒の空間を遊泳しながら親もべつに悪いっていうか、無理だったんだろうなぁ〜、じゃあ俺はどうすっかなぁ〜、っていう気楽なところでぼや〜んと考え始める。そこで最初の問題に突き当たる。

じゃあどうしようか。暗渠に流れつつある自分の身をどうするか。市民だよりは20年先のサポートで「今、あなたは子育て中ですよね?」みたいな感じで詰めてくる気がするので俺は「いや、親というものに絶望しており俺はそういうことはできない。だが自分の人生ぐらいは破綻させずに、いやもし繰り返さないのだとすれば、そういうこともしてみたいかもしれない。わからない」と返す。
DINKSとかいう前向きな消極性ではなくて、加害性にびびっている。EOEの上半身をガブっといかれる前のゲンドウみたいな気持ちがずっと漂っている。だからこそシンエヴァでジーンときて映画館出たときは「…」「…婚活しよっ♡」と思ったのだが、そこはさすがディオゲネス症候群、数ヶ月で見失ってしまう。

人生あと何十年か知らんが、脳が身体がこのままある程度社会性を維持したまま完遂できるのかの不安がある。それは誰でも常にある不安である。ただ俺の場合はいくらかストレートに行ってしまう予感があって、すーんといってしまう予感があって、じゃあどうすれば、法人化すればいいのか?などと思ったりもする。図書館でソーシャルビジネスブックみたいな、自分で理念とか書いていって埋めていく小冊子を手にして、毎日枕元で眺めるが、まだ一筆も書けない。

理念。定款。光芒を後逸すること。光芒を後逸した人たちの居場所。ネグぽえ。ディオゲネスポエマー(又はポエット)アソシエーション。スカム詩人会。ゴミ詩人。デトリタスごふごふ詩人会。

光芒を後逸するのイメージ、金田がアキラの飲み込まれたときのイメージと、野球のフライを取り損なうときのイメージのちょうど中間。すべてを取り損なう。手がヒドラのように、未熟に透き通っていて、社会性を掴み損い、投げる球はすべてすっぽ抜けてしまう人の心根の部分にあるもの。

障害者アート的な福祉的側面にある絵画や字体、フォルムに対する局限性や反復性ではなく、メタ認知のある境界知能的な人間による文章としては理解できるが極めて稚拙な批判の類などを、作品として昇華させず、宙空にとどめつづけるための組織。ヘリウムバルーン的組織。

お笑いにはほど近く、詩にもほど近く、障害者アートにもほど近いがそのどれでもない。中年がいびつに生き固めてきた見識を、怪しいてにをはで書き殴った自説のたぐい。

これを個人として一生続行、完遂するのか。これを何らかの形で組織化して仲間を発見するのか。自分の中に今ある葛藤はこれで、一歩踏み出すその一歩目のことをよく考えているのか、考えていないのか…

しごと

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