0518

あさ。なんかさむいっすね
鼻がずーずーいう
トマトの芽のために暖房をつけた。昨日Amazonでハイポ(液肥)ぽちった。泥縄ならぬトマハイ(トマト芽が出てハイポ買う)である。あとなんかアリナミンEXとかもぽちった。
発達障害の界隈?そんなのあるか知らないがそこではアリナミンのビタミンBがいいんだーみたいな世界があるらしく、そういう言説をどっかで見た気がして、わたしが発達障害かどうかはともかくとして(WAIS?とか受けてないからわからないし)もう40だし今更種明かしされても「そっすか」ってなるだけだと思うけど、
思い起こせば急に職場でグラインダーで邪魔なもの切り始めたりして注意を受けたりはしてて、最近もまたなんか急に剥がして注意を受けてたのだが、なんかどうしても急に邪魔だと思ったものを「えーい!」とか思ってどかしたり捨てたりしてしまう衝動があり、その時の自分の脳内は「♪(るん)」みたいな音符が出てるぐらいの感じで、たぶんそういうのがあんまりよくなくて、子供のころからずっとそうだったけど、昔いっかい階段から落下して頭打って、そのへんからちょっとあのメロンの底とか包んでるような発泡スチロールの網網みたいなやつを頭に被せて結構おとなしくしてたから、ある意味孫悟空と同じノリだったと思う。
とはいえエレベーターでは小躍りし、踊り場で屁をこいで人がでてきたらムカッとするという、なんかこのワールドイズマイン性がおそらく一生払拭できず、個人的には決め台詞のないGTOみたいだなと思ってて、あの「どぅーんとぅとぅとぅーん」みたいなギターかベースかもわからん音が流れるけど無言で去っていくような不義理ばかりかまし今周りに人がいないのだろう。衝動には大義がいる。そもそも共感のある衝動には(少なくとも自分以外の1名の)大義がある。自分にはそれがなく、それがもうよくわかったからもううんざりしてわかったわかったってなって、もうひとりで生きようみたいなところはある。
その意味で職場というのはありがたいもので、これのおかげで適度な社会と運動とやりがいが確保できてお金までもらえてる。ラッキー。
そういや山口の全ツッパされた人が全ツッパしたってニュースなってて熱いなと思った。全ツッパって連鎖するもんなんだなと。あとTwitterでこち亀の両さんがまったく同じようなことをやってたらしく、なんか愚者は経験に学び賢者はこち亀に学ぶみたいな至言があるんじゃないかと思った。実際どっかに隠してるだけかもしれないが



そういや昨日うまい棒打って8K負けた。何も起こらなかった。あのタコなんなのまじで
というかあの穴の周りに目には見えない透明のアクリルか突起かなんか絶対仕組まれてるんじゃないかと思ってずっと睨んでた。1/3ぐらいのはずだけど、ああも入らんかね
でもPうまい棒の功績は、あのうまい棒のパッケージの端っこに映ってる知性のかけらもなさそうな、あきらかに知性など設定すらされてなさそうな「あの博士」を動画にしたということなんじゃないでしょうか。あの博士が動いてるのを見た瞬間ちょっと動揺を隠せませんでしたね



さっきゲンロン9の五木さんと沼野さんと東さんの鼎談の記事を読んでて最後のほうに暗愁と書いてあり、
暗数というのはいつもバスに乗り込むと、時刻合わせのためまだ発車せず、窓からを見てると向かいのバス停にバスが停車し、そのバスの裏から人がぞろぞろと出てきて歩いていくのが見える。
毎回、ここにはいない人がいるはずだ、と考える。
それは狭義の社会とか狭義の仕事(朝、出勤するような仕事?)とかという意味ではそこから「脱落した」人が点線になっていて、それらの人は別の場所にいて、それは家だったりまた別の会社だったり、福祉的な領域だったり、病臥、あるいは死んでしまったりしていて、想像もつかないところにいて、そういう暗数を常に含んでるのだ、ということを考える。で、その暗数に自分はそう遠くない未来に行ってしまう気がいつもしている。
とはいえそれらの人が点線で歩いていると思うのもおこがましい話で、その人たちはその人たちで楽しくやってる可能性もある。それを自分が認めれないし、想像すらできないというだけの話だし、また自分の不安定な境遇をその「点線の人」にペーストしてレッテルを貼って憐れんだりしているのだ。
想像力をもつとかいう次元と違って、もうまったく別の話のような気もする。
暗数とか暗渠とか、行ってみればそこも確かに地続きの空間で、そこにはまた世界があって、そこのことを考えるのは可能性が見え始めてからだと遅い気はする。できれば常に想定はしておきたいと思う。
ネットでのやりとりもそうで、ほとんどどういう人かわからないけど想像にも際限があり、でもなんか文章というか、文はいっぱい湧いてくる。
でもどっかで想像を切る必要はでてくる。
切るというとあれだが、文の中で想像するか、文の外(背景)を想像するか。背景にもイデオロギーとか文脈、傾向、時間、身体、身体の位置などがあり、媒体もあるし道具もある。「それbotですよ」と言われて終わる想像もあるということ。この場合の想像はもうほとんど≒相手みたいなところがある
昔は切った先に想像できる像が結構せまかった。ある程度ネットに入ってこれるってことである種の同質性を当てはめることと、そこに入ってくる時点である種の限界を理解して「読む(文章以外)」ことができていた。含みおくというか、留保しながらコミュニケーションとることができた。
当てはめることと、当てはめてしゃべっているであろうことを意識しながら退いたりするひとがいることで成り立っていた。
オッケーブラザー、言いたいことはよくわからないがなんとなくわかった的な、ソウルは伝わった敵な、想像切ってんだけど結果的に想像になっているような、それが「礼」という話につながってくるのかな、そして、その「礼」は暗数への配慮や想像力ともつながり、公共性にもつながるのかなー

みたいなことを思った。しごと

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