0514

あさ。ビットコインも投資信託も駄々下がりで厚切りジェイソンもTwitter消したっていうじゃないですか。部屋も湿気だらけで心なしか積読本の断面がかすかに波打ってるように見えるんすけどどうにかならんですか。ウルトラマンの映画みますか。

とりあえず今日はパチンコ。うまい棒打ってきます。ちゃんと事前学習して、さらにアピールとしてあの説明のラミネート見ながら首ひねりつつ打って「よし、あいつ。ホルコンで万発」と店長ボタン是非とも押してもらいたいっすね。そういう意味ではもう店に入る前から勝負は始まってるわけです。

あ、いいこともあった。

トマトの芽がようやく出ました。こんなにか細いものなのかと泣けてくるくらいひょろいのですが、大事に育てていきたいと思います。南米原産。タキイかサカタか知りませんが遺伝子改造されて日本のこんなわけわからんベランダでほんとすいませんね、できるだけ浄水器のいい水あげます。

コロナ禍でインカムについて考えたらやっぱり太陽光活用したいけど、発電のパネル買ったりするのはやっぱり、表面利回りとか、利回りっていう響きがなんかしんどいなーなので生の喜びを感じれるまずはトマトなんですけど、本当にここからトマトになる展開になるのかも微妙なところで、わたしはトマトの種を確かに撒いたは撒いたんですけど、なんかマジでトマトになんのかなって。
時間と太陽とパワー。全部パワーにしようと思ってトマトやってるわけですね。利活用。全60兆細胞総活躍させて飽き足りないので周りにある本はメルカリ、太陽はトマト、お金は厚切りジェイソン、なんかそんな感じでやってるけど、60兆の細胞がまだあんまり活躍してないっていうか、このおっさんっていう60兆の細胞、いやおっさんだからもう50兆ぐらいなんかもしれん、その細胞が不活化してますよね。今日はうまい棒打ちに行くとか言ってるし。

だから、仕事も仕事なんだけど、サードプレイスじゃないけど、なんでしょうね、あんなはーれんと?ハンナアーレントのいう「活動」みたいなやつが圧倒的に足りてねーってことなんでしょうか。あとは「制作」。たぶん、制作まではひとり、厳密な意味ではひとりでは足り得ないがある意味ではひとりで済ませられるし、むしろひとりのほうが捗るまであるが、活動に関してはなかなかひとりではむずいのではないか、そして日本における消極的な中年におけるそれを探査するこころもとなさときたら、そりゃうまい棒打ちに行きますよ。

それもそれでややもすると生産性に絡め取られそうで、いやトマトの芽みたいに生きてるだけでみんなありがてえやと思いたいのに、自分の身は総活躍させてフルに使い切りたいって思ってしまう。ちいかわを毎回10回も20回も再生して今際の際に「ああ…ッ!あの時、ちいかわを、10回も20回もみんかったよかったぁ…ッ! ッァッハ」とか思いたくない。

やれることはやれるあいだにやっておきたいけどセックスはそんなにできなかった。もう萎れかけてるし、もう利助みたいな感じの口臭波サロンパスなので風俗行っても迷惑かかるだろうし、あとは基本オナニーで、いつか本当に気の合う奇跡みたいな人ができたらその人とはもうそんながっつり肉弾戦なんかしないだろうし二回戦もないだろう。



石垣りんさんの詩では、生きるには食うしかなかったみたいなやつがあり、田村隆一には殺してきたっていうのがある。そして鈴木志郎康さんにはそんな力のいることはしませんとか、疲れてしまうっていう詩があります。
では、3つか4つ、続けてどうぞ!できるだけ引用の要件(主副の関係)にも責任持ちます!今朝は気力が充実しているので(たぶん、途中で疲れたらやめます)

えー、ではいきましょうか。まずはこれは叢書? しらんけど。石垣りんさんの『くらし』から冒頭部分を引用

食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかった。

大岡信・谷川俊太郎 編『現代の詩人5 石垣りん』中央公論社 p88~p89

この詩を読むと、毎回なんか日曜日の昼下がりのうすぐらい台所で、昼光だけで三角コーナーの野菜の皮とかを眺めてる感じというのか、なんかそんな感じがします。
食べるっていう言葉の意味が一行ごとに飛躍、あるいは拡大解釈しながらも、何ひとつとして間違っていないことに気付かされていくというのか。
明石家さんまの「……………………ほんまや!」的な、「たしかに食うとったわ」というのか。
対象物を「食べる」という動詞でサンドしているが、後ろの食べるは比喩化しつつ、それでいて比喩ではなくなっている。それは名詞の並んだ短いトンネル(のようなもの)をくぐる間に「食べる」という言葉が異化してしまって、ガチの食物から光や水、そのあとは眷属や関係性が食の対象となっていきます。嘘喰いの箕輪みたいなやつですね。

石垣りんさんの詩は非常にシビアな現実認識と切り詰めた言葉数があいまって、最初にガツーンとくらった時はめちゃくちゃ衝撃的でした。いかにも行分けの詩の佇まいでこんなに峻厳としたものを読んだことがなく、うろたえました。
しかし徐々に生活による摩耗によって鮮烈さは(私の中で)失われましたが。
「鬼の食事」もいいですね。
あと、今読み返すと『挨拶』などは逆に2022年の今こそリアルですね。いや、ずっとそうなのかもしれない。

今、解説読んでたら『挨拶』は会社(銀行)に呼ばれて1時間ぐらいで書かされた詩とあって、その「会社に」「1時間ぐらいで」「詩を書かされる」とは、いったいどういう状況なのかと。非常に時代を感じた。まあ労組的なものかもしれませんが。



石垣りんさんは家族を養うため学校を卒業すると14歳で第一興行銀行に見習いとして入行し、定年まで勤め上げました。定年後は1DKのマンションを買ってひとりで暮らし、決して人を家にあげることはしなかった。生涯独身でした。

最近映画で役所広司主演でゆれるの西川美和監督の『すばらしき人生』がありました。あれの原作『身分帳』作者の佐木隆三さんが石垣りんさんにインタビューした文章が、さっき引いた叢書の巻末に載ってます。
このインタビューのやりとりが私はとても好きで、心を打たれました。
わたしが生き抜くためにもとても必要な文章です(なんか眞子さん小室さんみてえだな)。それもここに引用します(原文に適宜改行、字下げを入れています)

三十を生き残ったとき、
迷信かもしれないけど、
ある呪縛から放たれましたね。
でも結婚する自信なかった。
一人の人間が生まれてくるのに、
私にどれだけ幸せが用意できるか?
やはり私は一人でやって、私のところで終る……。
それで昭和二十七年に、死にそうな祖父に尋ねたんです。

  私は一人でやっていけると思う?
  やっていけると思うよ
  私のところで人間やめていい?
  いいと思うよ、人間そんな幸せなものじゃないから。

これは私にとって、
ありがたい言葉でした。
どの道、相手が現れなかったのですから。

−−そういうお話を伺うと、私(註=佐木隆三)など結婚を二度して、子どもも四人だから、やりっ放しといいましょうか……。

やりっ放しというのは、
生命力だと思います。
結局そうですよ。
私には生命力がなく、あわあわと終る、立ち消えになる。
ずっと続いてきた血の流れが、
最後に
私のところで
乾こうとしているけど、そこまで行かなきゃならないんです

大岡信・谷川俊太郎 編『現代の詩人5 石垣りん』中央公論社 p250~251 改行・字下げは筆者

石垣さんは1920年、赤坂で生まれ、家族を養いながら働きながら詩を書いていました。
この話を読んだとき、ふと浮かんだのが「サザエさん」の長谷川町子さんでした。
長谷川さんも1920年生まれで、家族を養いながら漫画「サザエさん」を連載していました。
詳しい生活史の符合まではよく調べてみないとわからないですが、この、太平洋戦争〜敗戦までがだいたい20(21)歳〜25(26)歳に相当する世代。

石垣りんさんにとっては、敗戦後の1950年が30歳にあたり、特別な意味がありました。
石垣さんの実母が30歳で亡くなり、その後、母の妹(叔母)が母親となりますが、その母も30歳で亡くなり、石垣さんも自らが30歳を生きられるかもわからないのに、子供をもつなんてことは考えられなかったし、時代の情況も暗澹たるものだった。これが"呪縛"の文脈です。
(補記:年譜を読み返していたのですが、母すみが四歳の時に死去。九歳の時、亡母の妹きくが母となるが、二年後に死去、翌年父が妻をむかえるが七年後の1937年に離婚。翌年むかえた妻が母となり、妻隆子は1974年、昭和49年に亡くなる。このとき石垣りんさんは54歳。
「30歳で亡くなった」と語られているのは、母すみと、その妹であり、のちに母になったきくのことです)

先の詩が書かれたのは、(引用から先の)詩文では「四十」歳であり、"呪縛"が解かれてから10年後の詩、ということになる。

一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ

見よ、
四千の日と夜の空から
一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線を
われわれは射殺した

 田村隆一『四千の日と夜』
小学館『昭和文学全集35 昭和詩歌集』p803~p804

田村隆一さんの『四千の日と夜』冒頭から。さっきは生きるためにマストで食う詩でしたが、これはマストで殺すタイプの詩ですね。
この食べるマスト、殺すマスト、生きるマスト、マストバイ。
もう何か書くためには絶対に何かを殺してるというわけです。蟻とかがいっぱいいて見えないけど絶対に踏んでる、みたいなことでしょうか。

田村隆一さんの詩はなんかこう、なんか、でっかいものから借りてきて恥じない、というのか。そういう堂々たる雰囲気というのか、どっしり感。こういって差し支えなければハードボイルド、ウイスキー、コンクリ。
どこか、石垣りんさんが日本家屋というか安普請の貧乏長屋の現実的イメージであるとすれば、田村さんの詩のイメージは少し「洋もの」的な、はたまた古代の詩が翻訳されたものだと言われたらああそうなんかな…と思えるような雰囲気があります。
あとはなんとなく大島渚が野坂昭如にいきなり殴られてる動画みたいな雰囲気というのか、非常に硬質で平気で命令形で「見よ」とか言ってくるし、「われわれ」とか言うしで、やっぱり大島渚が野坂昭如にいきなり殴られてる動画みたいな雰囲気があるというか、ちょっと殴ってきそうなところがありますね。
やっぱり、鳥もなんの鳥か言わないし、何で射殺して何で毒殺しどうやって暗殺するかとか、手順は問わない、とにかく鳥をがっつり殺すんだと。
こんな場面で鳥種をきいてくんじゃねえ、ボコすぞ?みたいな、ディティールというものを問う野暮ったさを嫌うところがあります。
あとこの田村さん「変な感じ」を出すのが抜群に上手く、この詩でも引用の先に続くラストは、読点はあるけど句点はないという変な感じの終わり方で、この人は「腐刻画」という作品などでも「変な感じ」をいかんなく発揮しています。なんていうんでしょうね純情感、もといこの「変な感じ」。

対して石垣りんさんの句読点はかなり意識的というか、文章上、息継ぎや意味としての役割や効果に対しかなり律儀に改行や句読点が割り振られているように思います。
草野心平は2000年代のメンヘラの日記かっていうぐらい悉く句点が振ってあるときがありますが、あれはあれでかっこいいというか、本人をいくら問いただしても何も出てこない感じがするようなところが逆にかっこいいですね。



話がそれました。

というか、なんでそもそもこんな引用しているのでしょうか。最初はトマトの芽が生きるということで、太陽光を利活用しよう、食べねば生きていけない、殺さねば生きていけない、そんな力のいることはしません、という流れをつくろうとしたのだった。

というか、引用する本を見つけるのに時間がかかってもう、や!

書いてる時間より本を探してる時間のほうが長い、こんな予定じゃなかったのに…。10分ぐらいでモーニングページ書いて終わらしたかったのに。

というわけで、最後は鈴木志郎康さんから。「疲れてしまう」か「青草の上に」かどちらにしようかと思ったが、5月なので「青草の上に」冒頭を

青草の上に腰をおろしましょう
私たちは抱き合わない
そんな力の要ることはしません
青草の上に並んで腰をおろして
私たちは手を握り合わない
そんな力の要ることはしません
五月の
全身の力を抜いて
腰をおろしましょう
青草の葉脈を環流する水分を冷たく感じながら
私たちは喋らない
私たちは互いに言葉を
かなり遠くへ飛ばすように
言葉だけに力を込めているのです

鈴木志郎康『やわらかい闇の夢』青土社 p22~23

「そんな力の要ることはしません」のリフレインが9個ぐらいあるかと思ったら2個しかなかった。
鈴木志郎康さんは誰が喋ってるのかよくわからないリフレインを連も分けずにぶっ込んできて文脈や流れを変える名手なのでこれぐらい造作もないことなのです。
「青草の葉脈を〜」の部分も非常に良いですね。原っぱに手をついたときの感触を思い起こさせ、また見えない水を喚起させる。すんばらしい!
鈴木志郎康さんの、言葉に力をニキニキに込めるというテーマ、この詩集以前では「言葉になりたい! 食卓塩の小瓶になりたい!」みたいな勢いでしたが、この詩集から急に実際の生活場面やシンプルなシチュエーションから詩を探してくるというのか、ある意味思ったことをそのまんま書いてるかのように書いているかのようになりました。
とはいえ、その「そのまんま」も一周しているというか、むしろ一周する前の話というのか(富岡多恵子さんが現代詩文庫の続・鈴木志郎康詩集において述べた

「リンゴのようなホッペタ」の中の、リンゴのようなという句が比喩になる前には事実(原文傍点)であった時間に通じているともいえるのである。

新選現代詩文庫117『新選 鈴木志郎康詩集』p133 詩人論より

のような)、なんか、わたしの感覚では「お風呂っていつあがるんだろう…」的なことをいちいち気に留めて詩にしていく感じのスタイルになっていく、その最初の詩集です。
それのけっこう最初期のほうなので、まだどっちかというとシチュエーションも架空というか、まだガチガチの実生活には入り込んでいない。
どっちかというと「爪剥ぎの五月」とか「床抜き」とか、思考実験的な、ある意味まだまだ観念的な詩篇であるとはいえます。

鈴木志郎康さんは皆さんご存じの通り五月生まれ。早大を卒業しNHKにニュース映画のカメラマンとして就職しますが先輩カメラマンに手ブレの何がダメなんですか!みたいに反抗しまくってたら広島に飛ばされそこで東京時代から参加してた凶区という爆売れ同人誌に作品送ったり持ち回り制で編集とかしたりしてたら第二詩集が賞とってなんかまた東京に戻れるようになってNHK辞めて色々文章書いたり詩集出しまくったり多摩美の先生になったり大学とかカルチャーセンターで詩の授業とか講師したりして今はもう定年され最近はTwitterも止まってるけど(Facebookはどうだか知らないが、私はやってないからわからない…)最近現代詩手帖で書かれる側になってるっぽい気がするな…? みたいな感じです。

結局、こう書いてきて、食べるマスト、殺すマスト、ときて、最後はそんな力の要ることはしないみたいな非常にだらけた話になってきました。
とはいえ、言葉のみにすべてを注ぐ、という姿勢も同じようにマストの世界の変遷の一部であり、現実的に自らを維持するために発生するどうしようもない加害性や暴力性についての自覚、さらに抽象度の上がった言葉による記憶や語るために殺してしまうものへの啓蒙的なソリッドなかっこいい呼びかけ、さらにそこから抽象度を高めたあとのさらにその先にある一見素朴な再度の現実認識からくる「書く」行為のみに対する執着のような意識…、のような流れ? を書きたかったのだろうか…

生年順でいうと石垣りん(1920年)田村隆一(1923年)鈴木志郎康(1935年)となり、今回引用した作品の詩集順となると田村隆一(『四千の日と夜』1956年)石垣りん(『表札など』1968年)鈴木志郎康(『やわらかい闇の夢』1974年)となる。

これらが進むとか戻るとか、どちらが単純でどちらが複雑、どちらがよくどちらが悪いというわけではなく、単純にその時々のフェーズで自身にとってもっとも信頼に足る言葉を選び、携えて生きるっていうことが大事なのであって、それを過ぎたらもう戻ってこれないというわけではなく、またいつか星の巡りのように情況によっては再び接近するようなこともあったりする。

というか、書いてたら(というか本をひっくり返してたら)もうパチ屋の開店時間である。もう疲れたから行くのやめようかなって雰囲気になってきてますが、さっき引用するためにいろいろめくってたら、パチンコ屋の詩ってあるんですね。
もうそこまで拾ってたら疲れ果ててしまうので、また余力があれば…

作品名のみメモ
石垣りん「愚息の国」
鈴木志郎康「パチンコ屋行き」
「」

あとなんか、伊坂洋子にもあったような気がするんだ…
また探すのか…

あった


伊坂洋子「うじ」


つらい…泣けてきた(あまりの部屋の汚さに)

本を背表紙のほうから突っ込んでるときの精神状態がわからん…
もう3時間ぐらい書いてる
泣ける
わらえる

いやしかし、パチンコ屋の詩って結構あるもんですね、というか「あ、パチ屋でてきた」と思って詩を読んでるのもへんな話ですね。
わたしはもっとこう牙狼がどうのこうのみたいな、剣押し込んだのに…とか、内規がどうのこうの…みたいな、なんかそういう詩を書いていきたいですね。「パチンコ屋」という観念ではなく、微に入り細を穿つように、風がエアバイブだとか、機械の止まった数字が確変だとか、遊タイムの哲学的意味とか、T-SquareのF1の曲で老人がゆっくりと入店していくようすの異化効果についてなど、なんかどうでもいいことたくさん書きたいですね。

じゃない!

そういう話じゃない。まあ人間のパワーの使いようですね。
振り分けというのか。
振り分けもまたパチンコ…いや、もういい…

まあパチンコでいえば、同じ労力(ハンドルをひねる)で老若男女が横並びで平等に金銭を支払い、打ち、すると隣の台が即当たりしたりして、運に嫉妬してイライラしているわけですね。
期待値とかいう平等性に賭けても、やはり老人でもできるハンドルをひねる力だけで椅子に何時間も座り続けることは、後からでもできるんだけど、うまい棒は今しかないんですね。
でもそんなこと言って時間とか若さが勿体無いとかいってパチンコ打たないのも「生産性」の罠でもあり、そこはやはり好きにするしかない。

今はちょっと、お金とか生産性とかに目がいきまくってるけど(わたしがね)、まあ人間がなんかしようとしたらそりゃ記憶は改ざんするし間違うし、いろんなものを選び取っちゃうし、どんなにやさしくしたって暴力でぐにゅっとしてしまうのだが、それでもやっぱりなんかはしてしまうよね生きてるかぎりは、だったらできるだけいいほうに…っていう、その「だったら」とか「いいほう」すら見当違いだったとしたら…
たぶん、この「いいほう」っていうのがハイデガーとかが言ってるようなやつなんじゃないかと思うのだが、なんかこれにもやはり限界がある気がする。

なんだろう、まとめるってことに使いたい気もするし、このままこうやって書いて投稿していくのでも、もういいのかもしれないし。
まとめるっていう段に、なんとなくやはり人が見えてきて、そこに迷惑という概念が出てきて、そこに口臭とか体臭とか暴力とかつまらないおっさんっていう概念が立ち現れてくる。
俺から出てきた空気を吸う人がいるのか? もうそういうのを悲観するところも通り過ぎたから男は便所でまともに手も洗わないのではないのか?
パチンコはまあなんだかんだみんな手もろくに洗わずみんな同じハンドル握るんだからある意味悲観しようがない。昔はタバコによって無理やり肺を汚されてきたが、そのへんは分離が進んだ。
「俺から出てきた空気」の分離。漂白。汚物は消毒。ヒャッハー。

加害恐怖と始まらない話みたいな、それと少子化みたいな。書くことへの執着と記憶、それと少子化みたいな。お金がなくて結婚できないはなんか違う気がするんだよなー。
根本的には、加害だから「そんなことしません」のであって、だから「書く」のであって、そこへの折り合いに向かおうと思ったら、なんか、人為的な暴力でないもの以外に任せるとすれば、事故のようなものが必要だし、事故って万発出て結婚するかってなるかといえば、ならないし、かといって、わたしが石垣りんさんの「あわあわと」を引き継げるような人間ともまったく思わないのだ。
(もういい加減続かない!)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?