メモ 当時に追記

2015年頃、りりじゃん20号に書いたものを読み返しながら、2023年10月頭から〜下旬にかけて、随時追記していった文章です。読み返しては追記して…を繰り返していったため、元の文章の筋に戻ることができなくなった部分には、区切りとして、*マークを挟み込んでいます。結果として、よくわからない断章になってます。



記事20号

インターネットで詩を読む
ねまる

「ネット詩の歴史」ができてました

ごく最近(2015年8月中旬)、インターネット上に「ネット詩の歴史」という、まとめサイトが公開されました。現在のインターネットが主流になる前に隆盛を誇ったパソコン通信(ニフティサーブ。1987年にサービス開始)の時代から、現在に至るまでの、ネット詩の流れが簡潔にまとめられています。



ただ、2023年10月18日現在、すでに「NAVERまとめ」がサービス終了しているため、消えています。

http://matome.naver.jp/odai/2143806400877209701(編集者:はかいしさん)

図書館でレシートみたいなやつを出すとき、また、ネットで近所の図書館の蔵書を調べるとき、B1開架とか書いてあると、ちょっとホッとする。自動書架みたいなことが書いてあると、ウッとなる。



WebArchiveによるデータ収集は、インターネット上のウェブサイトを、まるで発行物であるかのように扱い、自動書架にしまいこむような行為だと、ふと思った。

収集時間毎に、そのURLにあったデータのありさまが中途半端に、遺跡のように保管されている。CGIであったり、Javascript、Javaアプレットのたぐいはうまく再現できていないし、外部リンクのバナー類(WebRing等)も、うまく動いていない。画像の大部もないことが多い。当時は機能し、使われていたものが欠け、外構だけを残している。



ぼんやり、被参照数によって、残り方に、ムラがあるように感じられる。

しまい込みながら、ついてこないものは剥がれ落ちていく。そしてそれを気に留めない。

そのアドレスの長さにもうんざりする。URLの短縮サービスを使ったり、記事に埋め込めばいいのかもしれないが、何か、正規ルートではないもののように感じてしまう。

ここ(WebArchive)にあるのだから、個々で思い出し、個々で見ればいいじゃないかと思う。指し示したところでどうなるのか。

WebArchiveも終わるときは終わる。欠けるときは欠ける。



往来をサルベージすることはできない。その往来もあったか定かではない。見えていた人より見えてなかった人のほうが多い往来だったかもしれない。わたしは見えてなかった人だし、見えていた人だってその往来は書き残したものによって推測していくしかない。身体のある人間にとってそれは当たり前のことだろうし、ある作家の研究家などもそうやって書簡やら何やらを辿るのだろう。その単位が非常に細かくなっただけ。
対象がひとりではなくなっただけ。そういうときにネット詩という言葉を使ってる気がしなくもない。界隈に似た使い方。



早めに会っておいたほうがよかった、とも思えない。現実の関係を、という困った人。進もうとする人。ぼんやりとした人。
怖い人。

生きてて持て余すことはそんなになかった気がするけど、わざわざ過去から思い返して、差額とか利鞘を取り出すような…そんな生き方。
でも好きなんだよな
そういうやり方で生き抜いてきたことを自覚し続けるのが。強いんだぞ、みたいな。やだな。わはは

「ネット詩」という言葉は「媒体+詩」の組み合わせである。紙媒体の詩を「ペーパー詩」と言ってるようなもんである。

じゃあ「ネット詩」もひっくるめて、単に「詩」でいいのではないか? とは思うのだが、ネット詩という言葉を使わないと、指し示せないものがあるような気もする。

考えてみると、紙の詩は、寄せ集めたり、泣く泣く削ったりして、収録するための審査?(もうちょっといい言葉ないか)が必要だ。
だって、お金もかかるし、なんといっても、自分の手元から飛び立っていってしまうからだ。
対して、ネット詩の原本(これもいい言葉ないか)は、自分の手元から、なかなかなくならない。もし、なくなるとしたら、書いた本人がログインパスワードを忘れたり、サイトやアカウントを放置したり、「ハードディスクが逝ってしまいました(私はこの類の発言をいっさい信用しない)」とか言い出したりした場合か、それらの事情が複合した場合のみである。
いや、「のみ」は言い過ぎかもしれない。
さらに、そこにプライベートでのしっちゃかめっちゃかやてんやわんやが拍車をかけ、自分自身の身体が情況に煽られてネットから遠ざけられ、ネットに書いた詩のことなんかすっかり忘れる。そして、数年が経った頃、ふと「そういや昔俺が書いた詩って今も残ってんのかな」「結構いいの書いてた気がするんだよな」「自分自身を振り返ってみたい」「そろそろ詩集を作りたいから初期の作品とか残ってないかな」などと思いながら、おぼつかない記憶で検索してみても、どれもこれもサイト閉鎖、サービス終了によりリンク切れしていて、頼みの綱のWeb Archive(すべてのWebページを採集することを目標に掲げてるサイト)にも収集されておらず、引用している人も参照している人も皆無なので、サルベージ不可能。結果、諦める。最初のうちはもやもやするが、いずれ忘れる。帰ってこないものは帰ってこない。そういうもんである。
それに比べると、本は、なくなっても、まだ世界のどこかにあるような安心感というか、ハッタリというか、雰囲気があるのが、オールドメディアとしての余裕や(度量とか、心が広いことを表す言葉)をたたえている(あってる?)ような気がする。



これは、他者が編むアンソロジーであっても、自分自身で編む詩集であっても同じことです。
ネット詩にこのような力は働かないのかと問われればおそらく働くのだと思いますが、程度問題として、紙の詩よりはかなりゆるいとはいえるように思います。
つまり、時間的な制約や状況の制約、経済的な制約、紙幅の制約から解き放たれているということです。ソファで寝っ転がって投稿したり、携帯代を支払っていれば世界に向けて投稿できたり、深夜に投稿できたり、田舎から投稿したり、二歳で投稿できます。うちのペットも、全然知らん人にスパチャ送りかけたことがあります。そういう世の中です。
ただ、これは紙の詩のほうにも言えます。紙だって、ソファで寝っ転がってオンデマンドの印刷サービスに頼めば、先ほどあげた条件で同様のことができるのでしょう。
ただ、毎回それをやりまくるような奇特な人は、なかなかいないように私は思います。つまり、ネットに詩を投稿するように、毎回オンデマンドサービスで冊子として印刷してもらう人、という意味です。
お金がもったいないし、読んでもらえる宛てもない。ちょっとアウトサイダーチックでいいんじゃないですか? と、今一瞬思いました。
ああ、あと、「投稿した詩は必ずプリントアウトするんだ」って人もいるだろうし、手書きしてから画像でネットに投稿する人もいれば、手書きしたものをキーボードで打ち込んで投稿する人もいるでしょう。今だとSNSに画像で貼ってる人が多い気がしますね。気がするだけですけど。読んでほしい形で流せるので、いいんじゃないでしょうか。ただ、2000年代初頭とかにあれやられたら、そこそこイラッとするのかもしれません。プログレッシブJPEGみたいなやつで、文字の周りが圧縮効果でじわじわした13KBぐらいの画像、あるいは8色ぐらいでぎりぎりアンチエイリアスのかかった文字のGIF、なんかそういうので頑張らないといけないし、回線の状況ではそんなんでも読み込むのに結構時間がかかりましたから、よほどの理由(再現性への渇望)がない限りはHTMLにテキストとして打ち込んだほうがみんなの精神的経済的時間的ゆとりにつながったわけです。でも当時でも縦書きにしたい一心で、ジャギジャギのMS ゴシックのまま画像にして貼ってるサイトもあったような気もしますし、HTMLの4.01とCSSは縦書きに対応してたのかどうなのか、ブラウザによって対応状況がバラバラであるとか、なんか句読点の位置がおかしいんだとか、そんなのもあった気がします。全部うろ覚えです。あとはOsakaの8ptとか9ptといったフォントサイズで固定してる人とかもいて、それはそれである意味見栄えがいいわけです。なんかちっちゃくてかわいいしドットの世界ーみたいな感じで。そんな感じでした。多分。しらんけど。
まあ、とにかくいろんな人がいると思います。
そのへんの想像をしていくとキリがないのですが、それらの行動の障壁というか、ハードルの問題が極力取り払われた状況下において見えてくる、詩のありさまというのか、様相というのか諸相というのか、悲喜交々、青春群像、そういうのをまとめてネット詩と呼んでるような気がします。
主語は「文字で見えてる人たちの」、みたいなイメージでしょうか。

裾から頂上までが一望できるかのような錯覚、いや、ほとんど裾しかないようで、でも自分のいる場所がわるいだけかもしれないのだが、自分の居心地的にはここを眺めていたい気がするけど、少しずつ動いてはいる。
裾は見えるけど、頂上は見えないかもしれない。頂上を見るにはお金が要るような気がする。
ただ、裾にもごろごろと素晴らしいものがあるし、私から見ればここが鉱脈であり中心である。
なんだか、カウンターカルチャーみたいな姿勢を、きわめてなんとなく身につけた精神たちが、それぞれに感じとっている詩の様相のようなもの、また
、それに付随するコミュニケーションの総体のことを、「ネット詩」と言ってるような気がする。今の言葉で言えば「界隈」みたいなことかもしれない。



ネット詩は神出鬼没すぎて、誰がどこで何をやっている(やっていた)のか、把握しづらい点があります。
それはとりもなおさず公開の自由度に繋がっているわけです。一瞬公開されてすぐ引っ込むのもあれば、ずっと公開(あるいは放置)されっぱなしで、気づけば「サービス終了のお知らせ」になっていたり。
紙のような編纂を介さない詩。流通にのせたりとか、書いているときの場所とか姿勢の自由度でもあるわけです。まあ書くのもソファで出来るし、ソファで書いたやつを活字で印刷したら紙になるんだから、同じことのような気もするが、ソファで投稿ボタンが押せるということの差を考えると、まあ時間と公開範囲の速さとやる気のなさ(誤解)は群を抜いているのではないだろうか。まあそういうのがむしろいい時も往々にしてある。
ただ、昔のかっちりした感じのやつが読みたいこともある。
これ一本でいける、みたいな。
こまごました身近な人の詩を100個読むより、このコンパクトな錠剤みたいな詩を読んだほうが効くし、なんなら10年ぐらいもちそう、みたいな。
さらにいえば、そういう詩ぃこそ、緊張感があるし、人生や言葉や実存とバトってるし、ガチ感あるし、本気度も感じるし、絶対にそういう詩は紙なんだー うおおおお なんかそういうのもわかる気がするが、基本的には「知らんがな」とは思う。錯覚でしょと思う。どう考えても紙にやる気は乗らない。やる気を注入してるのは本人と、読む人だけであって、紙にやる気は乗らない。そこ(紙化)でごっそり剥奪された成分を、文字の選びとか構成とかで読者の中に復活させ、かつさらにそれを上回る感動やパワーをいただけるような詩を、書いておられるんだー うおおお みたいな感じのこともわからなくはないが、それも錯覚である。ドラマとか苦闘とか、もう言葉と命すれすれのバトルを行った人たちがいたとしても、それは同年代とそれらに感化された人たちのお話であって、それから何を感じるかはもう少し冷酷、冷淡なほうがいい。なんか今の人を贔屓したほうがいい。最近よく思うのは、もっと贔屓すればよかったということだ。もっと身の回りのものであるとか、たまたま自分が手にしたもののことをもっと贔屓して、他の人が贔屓にしているものをこき下ろすべきだったのだと思う。だから私は過去の人とネタが被ってる詩があったら、今書いた人のほうを贔屓したいのに、そうできない体質になってしまった。



だからこそ、紙へと遡上するような憧憬や願望も生まれたりするのかもしれない。今までの自分を、「書いたもの」を軸にまとめたい、といった願望、またそれによって自分自身を変えたい、変えていきたいという願望。



ただ、紙は出回ってさえしまえば、世界のどこかにはあるっていう感覚が残りますが、ネットにあるものについては、管理が行き届かないと、ドメインやレンタルサーバーの契約が切れたり、サービスの終了、あるいは本人の意思によって、消えてなくなってしまう問題もあります。
本体は常に特定の住所の任意のアドレスにあって、わたしたちはそれを読み込んで読んでいるわけです。だから、そこがなくなると、読めなくなる(他に転載されていれば別ですが、そのようなことはかなり稀であるというか、よほど関わる人々にとっての"良い詩"でないかぎり、なされないことでしょうし、また、そのような人と関わる人々は、当人が消したものをむざむざと転載するようなことはしないでしょう。機械がクロールして収集することはありますが、それは被参照数の少ない、個々人のサイトの深いところにある詩へのリンクまで漏らさないわけではない。ある種、"中央"に集まってきた詩の中で、さらに評価という淘汰が起こったあとに残された、アンソロジー状の場をクロールしているに過ぎないことが多く、その周りのやりとりや派生したものや、その先々には、しばしば欠損がみられる)



要は、本人が紙で出してしまうと、スティグマ化するけど、本人ももう戻れないことは理解しているので、そのように生きるしかないのだが、ネットだと、何も進まないまま、日常生活を生きるみたいなことも可能なわけです。
なんとなくですが、名前と本と身体で、社会とのスティグマの程度を調整して、皆生きているように思います。

どっちが正しいとか、どっちがいいとかは人それぞれなわけです。ただ個人的な意見としては、スティグマ化しちゃう人には、少なくとも、ある程度の見通しとか、バイタリティとか、薬への耐性とか、実家の太さなど、何らかのパワーというか、勝算のようなもの、いや正確にいえば本人が勝算だと思っていない勝算のようなものが必要で、その微差によって、人は亡くなったり生き残ったりしているのだということを感じます。これ以上行ってはいけないな、とか、そういうことです。
なんか今これを書いている時点で、東海オンエアというYoutuberのしばゆーさんという人がかなりデッドラインを超えた発言をしまくっていたという噂をなんとなくSNSで読んでいて、ああいう、踏み越えていってしまうことと、救いの手が同時に差し伸べられるほど人に知られていることの、どちらが先に自分自身に到達するのか? ということすら、行動しなければ知り得ないわけですが、といって、行動すれば何もかもいけるのか? っていえば全然そんなこともないわけです。

昔、私の弟が浪人生のとき、母に向かって「なんでもやらなわからへんけど、やらんでもわかるやん!」と、パニックになっていた時期がありますけれども、当時ひきこもりの私は「おもろ」と思って、それを日記に書き留めていたわけですけど、まさに「やらなくてもわかること」というのもとても大事なわけです。

人間、誰しも、憧れる人を見たとき、でも、その人がいるところが明らかに怖くて、淵から覗き込むことしかできないわけです。そして、その人によく似たことを安全な場所で、ギリギリまでやってみたりするわけです。
踏み越えてはいけないラインはここらへんかな、と見当をつけて、振る舞うわけです。もしかしたら、もう一歩あぶない(と自分が知覚する)ほうに踏み出せば、何かがもっと開けたり、連れて行ってもらえるかもしれないのだけど、そうすると、今まで貯めたお金がなくなったり、離婚されたり、もうふつうの仕事に戻れなくなるかもしれないとか、殴られたり、性感染症になるとか、最悪死んでしまうかもしれないっぽいとか、まあ色々なリスクがある。安全じゃないと思うほうに行くのだから。それはそうです。
でもそこを見たことがない。いや、見てはいるけど、中に入って見てはいない。やってない。
じゃあ、やらなくていいのでは。
世の中のいろんなことはいつもそうやってやるかやらないかみたいなことを迫ってくるのだが、わたしは常に「絶対死ぬからやだ!」という態度で、そういうものに臨んできたように思う。



誰かの詩に書かれている早く死んだ友みたいなポジションにはなるんだろうな、とは思います。わたしもおそらく行動してしまっていれば、とうの昔に、もうとっくに、死んでしまってることでしょう。

ただ、「そんな人生(つまりスティグマ化しない人生)のどこが生きてるのか?」みたいな煽りの気持ちも分からないでもない。

といって、それで死んでどうなるとも思わない。死んでどうかなる人は体のでかい人というのか、なにか、基本「ごつい」人であって、そういう、もとから「ごつい」体の部署で生きるはずだった人が、なんの因果か、詩のようなところで繊細に生きている…みたいなシチュエーションが、時々うまくハマるときにだけ、その「ごつい」人の死が、皆の記憶に残るのであって、わたしみたいなちんちくりんは、死んでも誰の記憶にも焼きつかない。
焼き付けばいいというもんではないし、焼きついてどやねんという問題もあるけれども、少なくともそれは自分にはできないし、ならないし、じゃあ、違う死に方をしようとは、少なくとも思うようになる。
まあ、もっとふつうに、長生きしたいってことになる。



そういう感じは常にある。世の中は、そういうふうになってると思うし、これはどの層、富裕層とか底辺とか関係なく、どこにでも同じ構造がある気がしている。
だから絶望しているし辟易している。
かくいう私も、ちんちくりんだが小さい頃は水泳をやってたので、体はちょっとそっち系だから、少し体はもつと思う。
だから、もっとちんちくりんな人から「お前はモグリのちんちくりんだ」と言われても、反論ができない。
ピースの又吉がサッカーやっててめちゃくちゃ足速いみたいな、なんかああいう感じのやつの裏切り? 裏切りではないんだけど、新橋のサラリーマンのデブも、なんか結局スポーツの上に贅肉がのってるデブなのであるし、そのへんのお母さんもスポーツの上に贅肉がのってるお母さんデブなのであるし、なんかそういうスポーツみたいなものの上に贅肉がのって怠惰とか平和とか、ゆるいもののふりをしていたり、弱そうなもののふりをしていたりする。
そういう裏切りを常にどの人も抱えているものである。
つまり太宰治の女学生?だったか、そういう話の構造に近い話である。
文面だけで受けている印象を真に受けないとか、今ついている贅肉ではなく、骨格でみるような、そんなようなことである。
かといって、文章のセンスのようなものは案外裏切らないような気もするのだ。なにか、ここぞというところで外さないタイプの人は、案外裏切らないような気もする。口が臭いとかはあるかもしれないけど。まあ魅力もある、テンポとか、言葉にして伝わるであろう用法要領とかが試行回数に応じて摩耗しており、よりシンプルになって洗練されている。
そんな印象をうける。
ただ、そういう人たちには当然生存バイアスがかかっていて、そんなような人ばかりになると、逆に、数奇な運命を送っていて、その経験を洗練されたシンプルな筆致で書いているはずなのに、そのことで、少し読むだけで食傷気味になる、平板な文章を読まされているような錯覚に陥ることもある。生き残ると、珍しい経験をしながら、丸い石みたいになってつまんないことしか書けなくなるのだとも思う。まあだから行動(活動)のほうに重きを置いていくのだろう。生き抜くために。皆大変だ。



そして詩の世界も人間の世界だから、結局その構造からは逃れ切れない。じゃあなんのための詩だよと思う気持ちはわかる。そういうのが嫌だから詩なのに、またそういうのかよってなる気持ちはよっくわかる。

じゃあ弱いから詩を書くのか?と言われると困るが、まあなんか通じにくいというか、配達しにくいというか、狭いルート(細い配管に手を突っ込んで、伸ばした指先で摘んだ丸めた便箋みたいなやつを向こうの人に渡すみたいな、もう肩が攣りそうになりながら)で言葉を通して、なんらかのかたちでとにかく通じたい、みたいな願望も、詩を書くための、ひとつの理由な気もする。もうひとつは公におおらかに歌い上げるためだったり。
というか、それを同時にやるってことなのかもしれない。
詩は、置く場所によっては、とてもひっそりする。
書物は基本的に再生装置のようなものだから、誰かが来て、読んで頭の中で回さないと、作られたギミックは作動しない。これは本でもネットでも同じ。ただ今はSNSのように永遠と延々とロードされ続けるタイムラインのようなところにも言葉があるから、「誰かが来る」の部分がふやけてしまって、いつも開いている書物の中を素通りしていくだけ、みたいな感覚になってることもある。これは看板や喧騒だらけの街中でもそうかもしれない。ただ、それはすり減ったり空気を震わしたりすれ違ったりするし、自分も移動して疲れたりもしているから、もう少し、偶然性とか複雑さが違うように思う。そして、そんな中でも手もとの文字の空間を、スワイプしながら素通りすることができる。
喧騒素通りしてSNSも素通りして結局どこいくねんと。
そういう話になってくる。
まあその瞬間だけやり過ごせばいいというのもある。よくある。というかみんながスマホを見てる理由のほぼ数百%がそのためな気がする。
全員がやり過ごさないようにスマホを使っていたとしたら、もうちょい世の中マシになってる気はする。かといって全員が商談したり映像編集したり内職してたりするのもせせこましい。
いつも本質的で、絶対に意味のあることしかやってはいけないみたいなこと言われたら



書物は開けない限り、開けて読まない限りヤバさがわからない。ネットの詩も、個々のリンク先にある以上、いや、リンクを踏む前から、タイトルや作者、詩文の冒頭部分のみは見えたりするか。ただ、それ以上先は、リンク先を開いて読んでみるしかない。

今日あったから明日もある、という保証がないところにも詩があります。それは作者の不安定性、つまり「大それたこと書いてもうた」であったり「気に入らねー」「死にてー」であったりするわけです。
俺が消えるか詩が消えるか、じゃあ詩が消えろって感じです。



ネットでは、もう読めない詩もかなりあります。現実でも、たくさんあるんでしょうが、それはいいです。

これらの性質(筆者注:詩が消えたときのがっかり感のこと)は、紙とある程度までは同じなのかもしれないのですが、ネット上だと少し違う気がする。
クリックして、読みに「行っている」ネットの詩と、手に入れた"ペーパー"の詩だと、失った時の具合が違う気がします。「お探しのページは…」と書かれたページが出てきて、「あぁ、俺、探してたんだ」と、あらためて気づく。探しているつもりもなかったし、毎日そこにあるものだと思っていたから、いつも歩いてる散歩道のアパートが急に消えてるみたいな感じに近い。まあ、アパートより小さいし、アパートより断然スッと消える。
書いてて思ったのは、これは詩があるサイトの構成(サイトマップ)について、常連がその風景について語るようなところがあるということ。
逆に、そうじゃない人がふつうに詩のサイトで詩を読むってどういうことなんだろう、とは思った。
毎回投稿される新しい詩を読み続け、そこにお気に入りの作者を見つけ、購読に近い関係性になっていくのか、それともそういった詩を自身のパソコンに保管してアンソロジーのようにして読むのか。あるいは時々思い出したように(ように、というか本当に思い出して)やってきて「知ってる人、おらんなぁ…」ってなって、自分が昔「いいね」した詩を読み返すか。選出された詩を読むか、SNSで流れてくる知り合いの詩を、ただただ無心でリツイート(現X)しまくるか。



あと、見ている人が少ないと「なくなって残念だ」と言い合う人がいない問題もあります。作品の共有ではなく、存在の消失を悲しむ存在をあらかじめ失っていることの問題。
これは承前というか、そういったデメリットを前提としてなんとなく理解したうえでハンドルネームでネットのあれこれを享受してきたのに、いずれ喪失を味わう段になって、このままでいることに耐えれなくなっている。

「ネットの初期」と言ったとき、それぞれ想像する基点は違うと思うが、わたしの場合は1999年ごろ。そしてそこからの数年間。
2004〜2005年あたりで、「ネット」から離脱し始めた。



使うネットは増え続けたが、入るネットというか、やるネットはめっきり減った。



戻った時には、もう当たり前のインフラとしてのネットから、「インターネット老人会」のような、若干自虐的な共有体験とか、テレビCM(たとえばクラフトボス)から、昔のインターネットのイメージが流れ始めていた。

2012年ごろ、ふとネットの詩のことを思い返したとき、「決壊」とか「浮上」といった言葉が出てきました。
かなり濃いめの同好の士が、なんならパソコン通信時代の仲間が、もう一度インターネットで集まり直しているかのようなコミュニティ、また、それらの繋がりを基にしたインターネット上の投稿サイトもあり(?)、特に「現代詩フォーラムがネットにやってくるぞー」みたいな噂を聞いたときは「ついに、あの現代詩フォーラムが『浮上』するのか」みたいに思ってた記憶があります。隆起した海底からパルテノン神殿が出てきて、海水がダパーと流れ落ちていくような。
そして、現代詩フォーラムが浮上してからの数年は超揺籃期だったように思います。あらゆる投稿サイトから人がドッと流れ込み(決壊)、あのサイトのあの人も書いてるー、みたいなことを思いながら眺めていた気がします。

なんとなく、最初期の濃ゆいメンバーみたいな人たちと、後からネットにやってきた若い人の中でデキるメンバーみたいな人たちのやりとりを見てるのが楽しかった気がします。
それがどんどん薄まってなんかつまんなくなっていった。そういう感じがします。決壊したあとの、みんながふと入ってくる感じの、濃度の低さとか、わかってなさみたいな感じで、どんどん加速度的に薄まっていって、濃ゆい人はみんな飽きたか現実が忙しくてそれどころじゃねーって感じであり、残ったのは後から来た薄いメンバーとか、現実という引き潮で海に戻れなかったややこしい人とか、なんかそんな印象になってしまった。
それはそれで人生の一ページで否定はしないが、なんかどうしてもまず現実が忙しくなれと思ってしまうのは、なにかと足を引っ張りたがる、日本人の、日本兵の? 悪癖なんだろうか。
もう一度、辺境ができて、堰き止められていた人たちが、なだれをうつような情況が来ないかぎり、ああいう楽しみはないのだろうなとは思う。そして、それはなんなんだろうなとも時々考える。メタバースとかなのだろうか。時々フワちゃんのアバターがバーチャル会場でぴょんぴょんしてるのを見たりするし、指先までは動かないアバターが動いているのを、何かの折り、Youtubeで見かけたりもしたけれど、あれには辺境みが少し足りない気がしていて、でもいつかはそこにも行くかもしれない。わかんない。でも今はなんかぼんやり違うなーって、思ってる。



誰もが詩人になれるんですから、夢のような話だと思います。ハードルが低くなって、いろんな人が詩を書いてます。でも今なら「そういうひともいるだろうね」って感じで軽く流されてしまうんじゃないかと思います。
そういう意味で、「ネット詩」「ネット詩人」という言い方はよかったんじゃないかなあ、と思います。そういう人たちが、どういった目論見で「ネット詩」の垣根を取っ払い、トンネルの両側を開通させたのか。
今となっては時代が追いついたのか、詩が追いついたのか、詩自体はそんなに変わっていないと思うんですが、「こういうものだ」とわかるまで、四苦八苦した人がたくさんいて、今があるということは知っておいて損はないんじゃないかな。
(正直何を言っているかさっぱりわからない)

発表媒体そのものに新規性があって、そのせいで垣根があるように思われた時代も過ぎ、Twitterでの詩の取り組みとなると、インターネットが身近になった時と比べると、少し驚きも少ないし、みんなのエネルギーもちょっと低く、なんだかゆるやかにだだっ広い河口に向かっているような感じで、その源流を見る向きもあっていいのかなと思います。(???)
鈴木志郎康さんがホームページを開設したのが1996年の2月ですから、その9年も前から、もう「ネット詩」の歴史は始まっていた、ということになります。(ここもよくわからない。パソコン通信の歴史ということを言いたいのかもしれない)

雲雀料理
http://hibariryouri.web.fc2.com/)

今回紹介したいな、と思ったのは「雲雀料理」というサイトです。「雲雀料理」はもともと萩原朔太郎の詩の(章の?)タイトルでもありますが、インターネット上では、ネット詩誌(ウェブ詩誌)の名前でもあります。
更新は唐突で、現在第十二号まで発行されています。メールを送ると300円(送料82円)で送ってくださるようです。
ねっからのウェブっ子(わからない…)なので、ものの形で手に取ったことがなく、最近になって、漸くこういうのもいいもんだなあ、と思うようになってきて、思うだけなんすけど、昔好きだったネットの詩を、詩集で頼んだりして、読むようにしてます(何を言ってるかわかりにくいが、具体的には、昔poeniqueで読んだ『ライブレッドの重さについて』などを、詩集を購めて読み直したりしたことを書いているのだと思う)。雲雀料理は読みやすい背景色に、縦書きの明朝が並んでいて、全体的に短めの、行分けの詩が多いかな、といった感じです。そして、たぶん叙情詩が多いかな、と思います。
細川航さんはたぶん「いるかのすいとう」のかいぞく(海賊)さん、だと思います。軽谷さんというのはぶんごくで短めの切り詰めた詩を書いていて一際異彩を放ってるというか、ある意味一番ぱっと見詩っぽい詩の人だが、すごく間引かれている感じがして、個人的には縞田みやぎさんていう人とかを思い出すような、なんかそんな感じの、私にはわからない抒情みたいのがあるのだろうなと思うような、そういう詩を書かれるかたで、田代さんというのはたぶんかなりネット詩とかパソコン通信での最古参なのではないかと勝手に思ってる感じの人であり、ちょっと古風な、生まれる生まれないみたいな感じのニュアンスな詩を感じることが多いような、そんな感じもする。個人的にはなかなかどこから読めばいいのかという感じだが後日譚という詩はなんかわたしでもすっと入っていけた。原口さんというのはpoeniqueとかでよく名前を見かけていたイメージだったり、痙攣というWEB上での詩の同人誌の同人だったりで、なんか大学生が詩の同人誌をネット上に作ってるような感じ(でもおそらく絶対おなじ大学とかではけっしてない雰囲気がある)ところに新しい時代を感じたりして、なんかpoeniqueのフォーマルハウツとか言う会員制の詩のうまい人しか入れないサロン(ちがうそうじゃない)みたいなやつに挑戦して見事入会を認められてそれからどうなったのか俺は知らない(忙しくなって見れなくなってしまった)。気づけば今はゴリゴリの左翼というかリベラルというか、東浩紀さんに「福島瑞穂さんに謝ったんですか」みたいなリプ送って「それについては訂正の必要を感じません」とか言われててなんか悲しくなった。六崎さんというのはなんとなくあなパイ(あなたにパイを投げつける人たち?だったか)とかの界隈で名前を見たような、そういう感じである。なんか露崎さんとか六崎さんというのはなんか頭の中でごったになる。m.qyiさんは実験的な、なんかすごい賢そうだけどっていうかかなりガチの芸術に詳しくて詳し過ぎておかしくなった人みたいな感じなんだが、書き込みはおっちょこちょいの人みたいなふりをする不思議な人であるといった印象。詩の界隈には常にこの手のタイプの人がいて、なんかもういろいろ限界を超えてしまっていたり、必要以上に畏っていたりして、こういう人たちが、もっとぞんざいに言葉を扱ってるところを見てみたいなぁとはいつも思う。

とりわけわたしが一押しというか、押さなくてもいいぐらいですけど、早坂恒さんの詩がやはり好きで、何度も読み返してしまいます。
たとえば「幸運I」という詩の冒頭。

私は馬車
私は歩く爪きり
私は君の肩に止まるすずめ

私は肩
私は鳥
私は菜食主義者の靴

幸せになるための努力の結果
                         (幸運I)冒頭

http://hibariryouri.web.fc2.com/1/tami1.html

「幸運I」は静かな感じの詩だと思います。なんとなく。一連目の二行目からの「私は歩く爪切り」、ふつうに考えたら出てこない言葉。二連目は一連目の「私は肩に止まるすずめ」を受けて、私→肩→鳥と来て「菜食主義者の靴」と、また地面に戻ります。この視点のホップ・ステップ・ジーャンプ感が独特で、ここでもう惹きこまれてしまいます。
何をどう読んできたらこうなるんだろうみたいな感じ。
そして三連目は、たった一行「幸せになるための努力の結果」という、ありふれているようで、ありふれていないような、これまた不思議な言葉が出てきます。いや、やっぱりありふれているのだけど、この流れに出てくることで、なんか変な、妙な凄みを感じてしまいます。
あと、やはり一行目の馬車はずっと動いていて、視点も目まぐるしく動いているのに、ずっと中世〜近代ヨーロッパの一本道を進んでいるような、そんな感じもします。すべて体言止め(であってるよね?)なのに、静止している印象というか、抽象的な(あるいは絵画の静物のイメージや配置を説明しているような)詩に感じない。


私はここで岡田隆彦の「ラブ・ソングに名をかりて」の「もう君は愛してくれないだろうから」というラスト一行を思い出します。四連目でよくわからなくなります。もののけ姫を思い出すような感じです。あとひととお付き合いする時には何かと悪いものを背負うというか、交換ではないですけど、ネコアレルギーでペットが飼えないとか、ゴキブリに殺虫剤を浴びせすぎて気分が悪くなって救急車で運ばれたのにまったく反省してない感じとか、なんかそういう細々したことと、人生そのもののおっきいサイズのことが去来しているような感じがします。五連目で君はささやかですが、死でもあり、また地面に戻ります。六連目で、私も死になって、また馬車に戻ります。いいとこと悪いとこと、よくも悪くもないところが混じっていて、なんか裏で繋がってるように見えるけどちょっと漠然と寂しいなという感じがしてきて、これはなんだったんだろうと思うような詩だと思います。今回はこう書いたけど、前はこうは思ってなかったような気がします。書こうとして無理に書いたのでこんな感じです。読んでるときはもっともや〜んと読んでる気がします。

 君がゴムを手にとる 僕の目には見えない
 さすがの素早さなのだ
 石の上にも三年と君は言う けれどもう十年も経っているんじゃないか?
 好きだった音をもっと好きになれたのか?
                       (目には見えない)冒頭

http://hibariryouri.web.fc2.com/7/tami.htm

「目には見えない」は思い出のような詩だと思います。一連目は少しエッチな気もしますが、「ゴム」がどういうゴムかも分かりませんし、もっとちゃんとしたゴムがあって、私の勘違いかもしれない。いやでもゴムっていったらゴムだよな、と思います。
そして、「好きだった音をもっと好きになれたのか?」という、出てきそうで出てこないフレーズ。そう言われてみれば「カレー味はもっとカレー味になることができたんだろうか」とか、好きだったものをもっと好きになるといは、一体どういうことなんだろうか、と考えさせられます。
いや正確には考えさせる間もなく撃ち抜かれるような感覚。もう確かにそうだよなーって思います。なんかそこに別れのようなものもそこはかとなく感じてしまいます。具体的なのか抽象的なのか、素朴なのか田舎なのか、いまいちわからないふたりの関係性(おそらくすでに終わっている)が続いていく。どこかの本で仕入れてきたようでもあるし、そう、翻訳調とでもいうのか、でも、そこはかとなく本物も忍ばせてあるような、それでいてリズムにすべてを捧げているかのようなふりもしているような、ちょっとふざけてもいるような、そんな詩だと思う。

君と僕の距離感は物理的にも時間的にも謎が多くて、今はいないような感じでもあるし、腐れ縁で今も続いているような、ひさしぶりに再会した幼なじみでもあるような、と思ったら君はいないようで、「覚えている/リメンバー/けれど僕はもう君に会わない」や「歌をうたうのか、ご当地ソングだな/別れるときはいつもご当地ソングがふさわしいんだと思う」など、急に現世の言葉遣いが出てきて、ちょっと笑ってしまいます。でもなんかそんな気がしてきます。出張先でもちょっと口ごもるようにすれば歌えるサイズの、上司と一緒に立ち食いそばでも食べながら、コートの襟の裏で一瞬で歌えるような感じというか、そんな感じがします。


(10/3〜10/24)



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