いたみ

時々思うことだが、実際の痛みと表現された痛みについて。
うみのちか先生の3月のライオンの怒り犬歯シーンとか見たり、こうの史代先生のこの世界の片隅でのすずさん終戦シーンとか見たりして、怒りや気迫の表現だと思いつつその限界も感じ、憎しみや怒りのどす黒いものを漫画で表現する。痛みもそう。
なんか、なんとなく、基準が宮沢賢治なのではないかと、勘で思う。
紙というのか、平面媒体での痛覚や負の感情を表現するときのそこそこMAX叩きだしたが宮沢賢治で、そのMAXにどれだけ近づけるかが漫画家の力量になってる気がする。
そうなってくると、小山ゆう先生とかの、独特のさっぱりした死生観風味の感じが逆に強くなってくる気がして、即物的というのか? ウシジマくんとかもそうだけど、さっぱりと、即物的というのかな、ものみたいにされるっていうか、そういう、ものとして、ウェットな部分がなく、物理法則のみで体が引き裂かれるという。ドライな表現に男が居るのだと思う。

そこにぼんやりとしたムカつきを感じ、また救いを求めても居るのを感じる。それがうっすらとTwitterのフェミニストとかのワーワーなってるやつの根本にあるように私なんかは思ってしまうけど、実際に会うとそうじゃないこともよくあるのも知ってるからあんなような人は実際にはなかなか行き当たらないとも思ってるけど、、、なんかね

体を物にされるからといって、そこに痛みを感じるのかということではない。
味わった過酷さに対して、比喩としての怒りは勝てるのだろうかということをいつも考えてるのだと思う。といっても、これをふかぼると、体験談のトーナメントになるので、やはり他者の痛みもいっぱい聞いてたら
なんだかんだへぇ〜ってなってくるのが人間だと思うし、そこに人がいれば内心は「へぇ〜」だけど、表向きは「そうなのね…」と殊勝に振る舞うこともある。
眠かったら寝たらいいと思う。

何に引っ掛かってるのかといえば、表現に対して、自分が味わった痛みが追いついていないということなのだろう。それは表現なのだから当たり前だと言えるし、すごく鬼気迫る表情ですねっていうのは、新聞社が「戦場みたいでした」とか言ってるような、全然違うだろみたいな気持ちもする。

右頬がアスファルトで左頬が靴底を味わってる状況で、頭蓋骨のてっぺんがミキミキいって、それを何人かの人間が、かわるがわるストンピングしていったり(笑いながら)したが、それはもう私にとってすら、記憶でしかない。
だから、たぶんそれも痛みではない。感情がそこに引っ掛かっていれば、立ち戻ることができるのかもしれないが、そこにわたしは定点となるものを置かなかった。
漫画のコマでいえば、真っ暗の中に白い引っ掻き傷のようなものが走っているような憎しみ?憎悪?
それを置いてきた。
だから、それを描かれても私にはわからない。そのときにはわたしは物だったからなのだろう。だからといって、物のように描かれたもののほうが良い(近しい)というわけでもなく。
読んでいてもわかるとおり、とくに結論はないのだ。
なんかもやもやしているというか、時々このことは思い起こすのだ。
そして、そのきっかけは、たいてい、うみのちか先生の犬歯、というキーワードで始まるのだ(そしてすずさん、とつづく)。
(1/27あさ速記)

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