げーらぶぅ〜うぅ

あさ
快挙ではないが、今朝からエマ9巻を読んで、ファブルの劇場版2作目を観た。1作目はなぜか録画を失敗していたか、あるいは同じ映画だと思って省いたのか、録画リストに入ってなかった。ファブル2とかにしてくれたらよかったのに。『ファブル』が1作目で、『ファブル 〜殺さない殺し屋〜』が2作目ということらしい。原作は知ってたので、話にはついていけた。

エマ9巻を読んで10巻でまたエマが出てくると、「え〜ぃ、まどろっこしいやろう(女)だぜ」と思ったりもしたが、男が帰った後、「〜〜〜ッ」と頬に両手を当てて悶絶っぽくなってるようすをみると、ああ、こいつはこれでいいぜ!グッ(親指)と思い出してくるのだった。

ファブルは見ててユーカリ成分(格闘シーン)っぽいところもあったから、もう2部作で終わるのかなーと思ったら、なんか3部もやるっぽい終わり方だった。

快挙って最初に書いた気がするが、漫画を読んで映画を見れるというのは凄いことですよ。ふだんはまったく見ることができず不毛な時間を過ごすので、ああ、今日はとても漫画を読んで映画を見れてるなぁ!と。快挙だなぁと。おもました。

で、この、ふだん不毛な時間を送りすぎるからこそ、逆にこの、漫画読んで映画見るパワーはどっからきたのか?何がよかったのか?と思うけど、特に何もなくて、何もないというより、ちょっとしたことの積み重ねで、職場でのしゃべり量とか、笑い量とか、あと日照時間とか光量、食べ物の質、睡眠の質などであり、なんかそういうののすえというか、そういうののはてに、自分の行動の変化とかが出てきて、自分は今朝漫画を読んで映画を見れたのだなあ…とおもいます。

Charaのミルクにもありますように、大過なく、退化なく、対価なく、絶え間なく過ごすことは孤独と同じだといってけぇ〜らぶぅ〜うぅ、であります。つまり穏やかに過ごすのは孤独と同じだといってけぇ〜らぶぅ〜うぅというわけで、確かにまあ、そういう面もあるかもです。

とはいえね、それも結構むずかしいというか、意外とハードルの高い話で、やっぱりCharaのミルクにもありますように、うんざりするような呆れかえるようなやる気のなさでごめんねという側面もあり、世の中にはバイタリティの補充のサイクルの重要性に感づいてずっと怠らない人もいれば、流入ばかりが起こったり、あるいは略奪ばかりが起こる人はやっぱり電池切れを起こしてしまいます。
それはある意味「にぶい」ということで、それはつまり係累とか日照時間とか漫画とか映画とか他者とか社会とか、ちょっとしたことをバカにして、軽くみているうちに、エネルギーが足りなくなってきて動けなくなって「なんで…」ってなる感じです。
もうそういうパターンに入り込むのが毎度おなじみの人もいれば、たまにうっかりするとそっちの方向に寄っていくタイプの人もいて、わたしはやっと中年になってから、あれもこれも、そんなバカにできないよな…とやっと気づいてきました。
いろんなものがエネルギー源だったことにやっと気づいて、けれどももう、ディオゲネス症候群まっしぐら、暗渠へと流れていく柳の葉っぱとか、なんかそんなんです。

<けれども、その「エネルギーがないとき」っていうのはある意味その世界、クラスター、社会の端というか、辺境みたいなところにいるので、そのきわのところから、シャボン玉とシャボン玉の側面同士のなんかよく見たら虹色っぽいシャボン玉の液体面が「ぬぅわぁ〜〜」っと虹っぽくオイリーに流動してますけど、ああいう場所にいるときは、隣のシャボン玉の側面に近接してるともいえるわけです。だから結局それはそれでエネルギーがないクラスタへの移動の表面張力ギリで保っている状態で、ここをとぶかとばないかというのは結構人生を左右します。だいたいの人は表面張力からまた中のほうに戻ろうとしますが、ここからなんらかのきっかけで隣のシャボン玉にいく人もいます。でも、わたしは最近懐疑的で、もともと隣のシャボン玉に移れる人はやはり、その隣のシャボン玉に移れるバイタリティを持っているのだから、そもそもエネルギー源がない人のクラスターは存在しないし、あっても長続きしない、あるいはクラスターになり得ないということになり、結局ある程度のエネルギーは必要で、ある程度のバランスも必要で、そこそこのクラスターにはいなきゃ死んでしまう、という身も蓋もない結論に至っています。見えてしまってる人はもう、見えなくなるまで大丈夫、ということでしかない。それはそれで問題だな、と思うわけです。>追記(余談)

やっぱり春で、気温が上がって日照時間が増えて、そうなると逆張りで散歩に出るのが億劫になってきました。こいつうぜーな、と自分でも思います。だからCharaのミルクが好きなのかもしれないですね。

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