0612
あさ。
誰にも迷惑をかけずにイカレルことって難しい
どれが正気なのか分からない
って真顔のあなたが語る
わたしが狂ってしまわないようにあなたはいつも気遣ってくれたね
ありがとう おかげでわたしは遠くにいかなくてすみましたあはは
まぁ適当にやっていきましょ
どうしてそんなに必死になるの
いい加減も案外 難しい?
でも
住処がない住処がないと言い続けることって大切かもね
さも何かありげに見えない永遠を見るふりをして
見続けていくことがお家だなんて
時々たまらなくなって涙が一筋
流れ落ちていく
止まっているように見えるのよ間抜けた青空も、激しすぎると
福島敦子「永遠狂い」
homeって何でしょうかとたずねると Aは
人ではないし 物質ではない
人よりは物に近いもの
と言う それにしても
あるかないか分からないし
あるとしても
ひどくさみしいもののような気がする
「homeについて」
homeがほしい とBが言った
それがひどくさみしいものでも と聞くと
自分は重いから
少し置いておいてもいい
と言ったBは
置き場所のない自分をいつも持って
移動している
*
色々あふれてるのはわかって
とにかく(モリマサ公『「あるところに、帰るところはあるけど孤独な人がいました」』)
幸せになるための努力の結果(早坂恒『幸運 I 』)
[雲雀料理]
私たちは全ての人が藁のようなものだと思うべきだ。(ハイーム・ヴィタリー・サダッカ『慎み深さ』長塚竜生訳)
自分がたまたま頑丈であり
毎朝おはようと笑って出かける(松岡宮『謝れ職業人』)
わたしたちは壊れやすいようにできている(モリマサ公『「あるところに、帰るところはあるけど孤独な人がいました」』)
この詩をわたしといちども寝なかった男たちに捧げます(アンバル・パスト『捧げる詩』細野豊訳)
彼にとっては死ぬに値しないのだ
http://www.poetry.ne.jp/select/lib/lib01.html
*
何が言いたいということはなく、ただ昨日から詩集をまたひっぱりだしたり日記をひっくりかえしてならべてみて、とくにそっから先、何をするというんでもなく、ならべてみて、おもうところがあるのかないのか、いろんな言葉が長い時間をかけて組成してきた気がする。指針というか、超おおざっぱな方向性というか、なんか、大掴みに、揺らぐし、変わるんだけど、時々見返しにくる、リバーズエッジのあれみたいな、そういうとこある
どういう意味かとかはもうどうでもよくて、ぐるぐるするため、立ち止まりながらぐるぐるすることで組成するもの、動物園のヒョウとかじゃなく、射精した直後の尿意で、便器の前にたたずんだものの、尿道が精管と切り替わらず、尿の始端が膀胱内でぐるぐるしてるのが先っちょにくるまでずっと何周も何周もしてるのを体で感じてるような、そういう時間。
簡単にいえば自分にしかわからないぐるぐるする時間。
パリピ孔明とSPY FAMILYを見てシャワー浴びてご飯食べていのっちの手紙。トマトが2個なって、都度もいで食べてる。(ちゃんとトマトの味するー。)
今夜あたかも成功した人みたいな
毎日早起きで忙しいかのような
じぶん
忙しさを振りまいて つや出しの言葉を顔に塗りたくる
じぶんが
ある種のいたみを忘れないように
こんな詩を
書きました
*
最近2ch公式ガイドブック2004をポチった。
松岡宮さんの謝れ職業人が2chでよみひとしらずの詩として取り上げられている、ということを知ったのが一昨年ぐらいだった。
わたしも2chにこの詩を勝手に投稿した記憶があったので、きっかけはわたしじゃないのかと思ったら、それより先に投稿してる人がいたから、わたしではなかったから、なんか落胆した。
わたしが投稿したのは、もう忘れたが、転職板就職板か、ニュー速か、そんなところで2投稿にわけて投稿したのだが、流れが早かったので、あいだにいくつかレスが入ってしまっている
当時のわたしはいい詩を時々スレの流れに関係なく放り投げる癖があった
というか、自分でテーマに沿って喋れる自信がなかった
なぜあんなに細かいことでずっと議論や深掘りや罵倒をし続けられるのか
不思議でならなかった
なぜ浮かないのだろうか。なぜそんなに細部について語れるのか
包括的にならずに済むのだろうか。
語っていくと最終的に、というかすぐに自分の人生について行き着くはずなのに、そうはならなかった。
古谷実作品の、誰でもすぐに人生について語れる空気感が好きだった。
2chの2時か3時か4時とかぐらいに寝静まったスレにつく「。」とか「a」とか(書いてる人)が羨ましかった。
深海魚の息みたいな、それでもできるのはうらやましいなと思った。
でも、それでも自分はそこで息をしなくてよかったかもしれないとも
いまだにおもってしまう。
*
2004年の公式ガイドには謝れ職業人のことが書かれているからだ。
2017年に現フォの同窓会があった時、松岡さんを初めて見たとき、ではない。数年前の文フリで白髪白書を買ってる。
2017年。
同窓会オフ会は2017年だったか?
わたしはぽえ会の人間なのに、現フォの同窓会オフ会に参加した。
何も知らんのに。
2022年。
もうあれから5年、あの時いた田中修子さんは亡くなった。
たぶんあの同窓会で一番場違いだった2人のうち(ひとりはわたし)のひとりがもういなくなってしまった。
あの、遅れてきた幽霊みたいな感覚を共有できた人のうちのひとりがこの世からいなくなってしまった。
(東京から)帰ってきて数年後、ふと謝れ職業人を読みたくなって検索結果を見てたらアドレスがpentaxxxになってるから、あれ、斎藤環さんのブログが上に上がってる…ということで「あれ、俺があのとき2chに放り投げた(他人の)詩が…!?」と、どきどきして検索して当時の履歴(過去ログ)を辿っていくと、結果、おそらくわたしではなかった。
わたしではない誰かも、あの詩をいたく気に入って、2chに放り投げ、それが読まれたのだった。
でもあの(調べてるときの)時の「えっ、えっ?」っていう高揚感というか衝撃、そして衝撃からのがっかり感までの流れはよかった。
ああ、自分じゃなかった…
(このへんのことはりりじゃんの2号前ぐらいにも書いた気がする。いつだって、自分のよこしまなところを書きたい。俺はこうやってニアミスしかけたんだぞ!と言い張って威張り散らし、というか、それ書いてからじゃないと詩を始めちゃいけない病みたいなところがある。それが前段に必ずあって、すべて吐いてから、それをすべて書いてから、それをごまかし、また書き足し、それらを繰り返し、そのままつなげたり放棄したりして、その跡みたいなもののことを詩だと思ってるところがある。
というか、それにしても(りりじゃんの)次はいつ発行されるのだろうか…原稿はたぶん一年半前に送ってる気がするが、私が支払いを忘れたのか、なんなのか、まぁいっか、いっかではないが、いっか)
そのあとは、その当時の注目度や流れを知りたくなり、斎藤環さんの「家族の痕跡」の文庫を買ったり、今また2ch公式ガイドブック2004なんか買っちゃってる。
社会学的には「家族」はなかなかやっかいな存在らしく、いろいろな話を伺ったのだが、意外なほど結論は煮え切らない。つまるところ「家族」は定義が不可能で、いずれ解体するほかないもの、というのがさしあたりの結論のようだ。もっとも、それが社会学全般の共通見解であるのかどうかは知らない。
(中略)
それにしても、この奇妙な共同体には、実に多くの矛盾と逆説が詰めこまれている。家族を形容する言葉を思い浮かべてみるだけでも、それは容易に理解されるだろう。
便利であって不便。親密にして疎遠。多様にして単純。単純にして複雑。深淵に通ずる浅瀬。個別にして普遍。はかなくも不滅。神聖かつ下品。病の元凶にして癒しの器。人は家族のもとで成長し、家族のもとで退行する。人は家族ゆえに孤独を免れ、家族のために孤独になる。生きる上では必須のものだが無くても平気で生きていける。最大の喜びと最低の憂鬱さの源。誰もが嫌悪しつつ、誰もが憧れる。倫理を育むと同時に諸悪の根源である。つまり家族は、絶望であって希望である。人間がそうであるように。
*
帰り、同窓会場(秋葉にある一軒家の貸家の二階、ふかふかしたものが敷いてあってふかふかした照明だった記憶がある。座っていたせいか、あとからやってきたポエム王子こと大村さんと奥主さんはとても大きく見えた)を片付けて、みんなで秋葉駅まで歩いた。確かもう暗くなっていた。わたしは松岡さんのキャリーケースを引いて高架沿いの道を歩いた。東京の高架の側面はなんか古すぎて風化した遺跡みたいな感じだった。
駅前、キャリーケースのとってを放すのが一瞬遅れて、人さらいのように思われた気がして、鈍い痛みだった。
結局帰ってきて、
だいぶ(2〜3年?)経ってから、謝れ職業人の件に気づいたのだった。2020年の頃。
たしか、その日は、アマプラで「ツレがウツになりまして」を見てて、宮崎あおいが堺雅人に満員電車のつらさについて「あんなのに乗って毎日がんばってたんだね」的なことを言ったら堺雅人が決壊して泣き崩れるようなシーンがあって、それを見て、「あ、松岡さんの夜の吐瀉物がよみたい」と思って、検索し始めた。最終的に夜の吐瀉物ではなく、きょうの吐瀉物、が正解だった。
松岡さんの詩はよくおしっこ、便、吐瀉物、G痢などが出てくる、気がする。たぶんふつうの詩(ふつうの詩?)よりは頻出する気がする。
まあ逆に、ふだん詩と呼ばれてるものがいかにそういうものをよけているかがわかるのだが、確か、東京メトロに採用された詩「奇跡のような移動」も、ふつう(ふつう?)に読むとけっこうあやうい橋を渡っているような詩である。
脳にきずのあるあなたが
春色の地下鉄に乗って移動します
書ける人は別に綺麗に書かなくても、ほんとうのことを書いてずんずん進むことができるという気がする。こういうねじれをねじったまま書き出すことができる、自分の手でねじりを戻してしまって、相手がたがそのねじりをねじり直してから理解するような詩はあんまり詩だとはおもわない。そこまで手つきを遡及して理解しなくてもなんかおもってしまうようなものを読みたいとはいつも思ってる。自分は、そんなのかけたためしがないのだが…。
なんか話がずれてきた。まあ松岡宮さんはとにかく鉄道や駅員の詩が多い。だから「ツレがウツになりまして」を観てて、電車のことで決壊する堺雅人をみて「あ、なんかよみたい」ってなるのも当然の流れ。
別に堺雅人が吐瀉したわけではないけど、なぜかそのときふと読みたくなって検索してたら、その流れで「あれ?なんか謝れ職業人が有名になってない?」みたいな感じがしてきて、調べてるうちに、なんかよみひとしらずの状態で斎藤環さんの本に載り、それが後日談としてブログで作者が判明しました、と書かれているのを見てびっくりして、「俺があの時2chに放り投げたから…」と思って調べてみたら、自分が投稿したのは2005年か2006年とかで、ああ、違った…俺じゃなかった…と思って、がっかりしたのかな
なんか一瞬歴史に絡みそうだったけど
けっきょく絡まんかったんかい!みたいな
わたしにとっての斎藤環さんというのは2000年初頭のNHKのひきこもりサポートキャンペーンあたりからずっとなんとなく追ってる?というか、精神分析とか病跡学?病理学?みたいな、なんか文化と趣味とSFが入り混じってるような分野の博学な人が行き着く医者の世界の端っこの人みたいなとこにいる感じがして、なんかそういう人がネットにいると嬉しいので、風のハルキゲニアさんとかシロクマさんとか、ああいう感じの人の一世代上の人みたいなイメージで捉えていて、その先行世代に中井久夫という人やらなんかあの髑髏の本、やさぐれ精神分析みたいな本だしてる人、そういう流れというか系譜があって、そこにサブカルチャーもくっついてて、2000年代だからそこに社会学とかもくっついてて、ワーってなってる感じをひきこもりだった私は、家でテレホーダイでネットしながら、なんかNHKのハートネットTVの前身の番組(にんげんゆうゆうだったかな…なつかしい)、グッチ裕三が裏声で歌ってる優しいテーマソングを聴いて、滝本さんとか上山和樹さんとか斎藤環さんとか働きたいんやの人とかをテレビで見てた。
ひきこもりは状態像であり病気ではなく、数はめっちゃいる、というようなことをよくおっしゃってて、就労はゴールじゃなく居場所や仲間を作ることだ、とおっしゃてて、家族が長田の本を読んでるのを知って絶望したり、作業所のパンフレットがこれ見よがしに置いてあるのを見て絶望したりしてた。
わたしは2004年ごろから就労し、それは現在まで至る。
わたしは結局、あの時斎藤環さんが言った、就労はゴールじゃないの意味をちゃんと果たしてないというか、就労しかしてないという気がしてる。
仲間と居場所のほうはまだなのである。
*
江戸川区でひきこもりの調査が行われ、8000人ぐらいいることがわかったという。
わたしは今もひきこもりに目が離せないでいる。働き、悪い人に10年ぐらい殴られ金を巻き上げられ、いやな思いもして、めっちゃ人間不信になって「ああ、斎藤環先生、就労がゴールじゃないってこういうことなんすね」と思いながら気を失ったりしていたが、そういう人間からも、なんとか離脱することができた。
これも斎藤環先生の「相手と縁を切るときのやり方」みたいなツイートを見かけて実践したらうまくいったのだった。
斎藤環さんがひきこもりの当事者から暴力を受けたときは「やめてほしい」とちゃんと言って、あまりにひどければ緊急避難的に家を出ること、ちゃんと理由を述べて実行に移すこと、などを書いていて、基本的には人間関係でもそれが大事なのである。
わたしはいきなり仲間もいないまま社会生活を始めてしまい、変なのに引っかかって10年も、つまり20代の後半〜30代の前半あたりをほとんど思い出せない時間に費やしてしまった。解離といっても過言ではないぐらい思い出せない。とにかく殴られてお金をとられて人間関係を切られて、独り住まいをさせられ、軟禁のような状況で過ごしていた。洗脳でもいいのかもしれない。だから今でも「奇妙な同居生活」系のニュースはひとごとではない。
とにもかくにも、もう40過ぎてしまって、これは俗に言うSNEPみたいなもので、働いてるだけのSNEPみたいなものである。
NEET、ひきこもり、SNEP、おっさん、KKO、アスペ、発達、真面目系クズ、こどおじ、チー牛、陰キャ、当事者、いろんな言葉がある。
属性、状態像の一種である。時々政治的に定義するため、括るために用いるものもあるが、世間でざっくり使われる言葉、スラングもあるし、スラング化してるものもある。
Twitterのトレンドなどで、炎上してる案件を見た時など、「いい年して」とかいう人がまだこんなにいるのか…と絶望したりもする。
でも、さっき挙げた属性、すべて当てはまる気がするのも確かなのである。そのくせ、時々「俺はもう働いてるぜー」とか、偉そーに思ったり、やっぱりそういうよくわからんことで自信を得たりする一瞬があった。
自分自信、そういう自分が嫌な属性を寄せ集めてきて、「その通りだ」とか「そうじゃない」とか思いながら、うじうじしてる甘やかでしんどい不毛な時間帯が、今でもそんなに嫌いではないのだと思う。
*
まぁでもさすがに40になるといろいろ「まぁいっか」ってなってくる。
「どうでもいい」ということもないけれども、
「いいもわるいもない」って気がしてくる。
仏教とか江戸時代の人とかをもちだして、何もかもを相対化してしまいたくなる。
今は、居場所探しである。依存というか、腰というか、気にかけてくれる人を、家族じゃなくてもいいから、探しておくというのか、なんかつながっておくための、そうするためのパワーや気分がやっと回復してきた。
信じるためのパワーというか、まあ裏切られてもまあいっか的な感じの、巻き込まれるかもというリスクに対し、飛び込める気持ちがちょっとでてきた。
こういうのは、意外と単純に、気温とか日照時間が重要なのかもしれない。そんな気がする。ルネッサンス吉田の漫画とかも、ほとんどが日光を浴びないから揉めるのであって、最後は日光を浴びるとなんか治るみたいな雰囲気である。そんな単純な話ではないのかもしれないが…
また話がそれてきたな
*
松岡宮さんの「白髪白書」を手に取ってみる。
あなたが 努力がたいがい報われる そんな経験を重ねてきた人であったとしても
あなたが何の苦もなく努力を続ける強さや精神力があったとしても
あなたが何の苦もなく試験に通る頭脳や運の良さがあったとしても
あなたはあなたを愛してあげてください
あなたがルックスに恵まれて 愛情に困らない人であったとしても
あなたが好きな人と簡単に結ばれる人であったとしても
あなたが東京大学テニスサークルで先輩や友人に恵まれる青春を過ごしてきた人であったとしても
あなたがいつでも評価され たくさん褒められ 評価に困らないような人であったとしても
あなたはあなたを愛してあげてください
あなたはあなたを愛してあげてください
*
都会のルールが ひととき緩みました
よくあることです
松岡宮「きょうの吐瀉物」
*
わたしは当時引きこもっていて、poeniqueを見ていたから、ぼんやりと
立派な親というのは、もうそれだけで犯罪的にクソだ
立派な親御さんの誰もが言うのだよ、
この子は本当は優しい子で、って大事に育てましたと、
あたしゃ子供に聴いてるのに
親が先回りして答えるんだよ
そんな言葉でだまされてしまうのだ、いい人が、
いい患者さまが、そして自殺するんだ自滅するんだ自爆するんだ
まるで巨人の中継ぎみたいに
単なる親の見栄で子供に苦労させてやらなかっただけだろう
そんな親御さんが
オマエは本当の苦労を知らない
などとほざくのだ
喰うに困らないことがどんなに苦労することか戦後派さんにはわかりはしない
*
m.qyi
お書きになりたいものがやはり現代詩ではなくてはいけないのだと、率直に思いました。
20世紀の初頭世界がバラバラになってしまう、とみんな心配したんじゃないでしょうか。当然、それにともなって社会問題(一つは世界戦争)が起こって、どちらかと言えば、ペシミステックだったのじゃないかと思います。ヨーロッパの思想がやはり強くて、これから逃れるのにそれで個人に帰ってしまったのではないか。リアリズムを追求したあげく、主観主義になってしまった。
戦後の延長としての現代になって、確かに、不安定です。搾取にも基づいているでしょう。操作もある局面ではできるでしょう。しかし、どうも、有機的に動いている。社会とかマーケットとか。インターネットと詩というのは冒頭の思想からはありえない。いざ、バラバラになってみれば、現代の時点の度合いで個人まで人間が分解されても完全物象化ということには全然ならなかったように思います。それと豊かさとその内部での有機的な安定性が加わってオプテイミステックになった。それから、これでぺスミストじゃ地球と心中ということにならざるを得ないので、トライアンドエラーでやるしかないという諦観はあっても、ネアカにならざるをえないんだと思うんです。
方法論としては色々考えられると思いますが、物と自分を対立はさせたくないでしょうから、自分と物を同化させてその有機システム(自然ではなく)の中に入り込むことを考えるのは必要でしょう。これを一方向からだけ見るとシステムがこわれるでしょうから。この点、タミさん素晴らしい語彙と知識の持ち主ですね、尊敬します。これは有用なことだと思います。私はこれを怠けてしまいました。先にも後にも後悔がころんで。
そういう方法を考えていく(考えていないのかもしれませんがここでは考えるのに含めて考えて、ふウっ、 その)一方、自然ではない、人工的な有機システムであり、選択はとっていくわけでしょうから、能動的な総合力が働いているのは確かでしょう。(この部分、私の理解、矛盾混乱しているかもしれません。あと、自然もかかわってくるのでしょう本来は。ここでは度外視して話しています。)
詩作の場合この面がもとめられますが、部分でも全体でもある詩人がこれを表現するのは至難で時々空回りしてくる。(実感をもてずに無理すると特に。)そこにもう一つ(分析的でない、だから合理的でないという意味で、それ自体は非常にリーゾナブルだと思います)捨て身の第六感をはたらかせて、或いは自然に働くか、働かざるをえないようにして)ポエジーを創らなければいけなくなるんでしょうね。
それが、何なのか、たみさんの場合ロマンチックに、ぼくにはそう感じます。ピカソに似ています。ピカソは熱いですけれども、たみさんはやさしく、日本人的に繊細で現代的で、それで、ホントウにお若いのかなって思ったのかなと思ったりしまた。
それから、「表現」がグロテスクじゃないのに感心させられます。その切れ味が軽く鋭く。グロテスクに捻らない凄まない、或いは(ストーリーだとか、なぞなぞとか、笑いかの)ネタに逃げない、これは、すごいことかと思います。ネコさんも、魔法使いも勿論すばらしいですけれど、他のもいいですね、力があって。出された三編、どれもいいですが、時間をかけた作品がやはりいいんじゃないでしょうか。恐らく、御作品を人にわりと(あくまでわりと)軽くお見せになるのではないでしょうか。ノリでお書きになるというのは、まずやはり詩作の方法として大切であり、筆をいれるという事が少なければ、削除・挿入、リズム、綴りいじりは延々なさるのかなと思います。あるいは、データバンクを作ってあるとか。さっと見せて人の印象などはとっておく感じがします。
大きな空振りでしたら、許してやってください。一言、どれも好きな作品でした。
たみ
レスどうもです。ええと、読ませていただいたんですけどちょっと、詳しくもないしあまり大きな目はもっていないので辛いところもあるんですが……
> 方法論としては色々考えられると思いますが、物と自分を対立はさせたくないでしょうから、自分と物を同化させてその有機システム(自然ではなく)の中に入り込むことを考えるのは必要でしょう。
これはその、わりと我々、子どものころはそれが自然であったように思うんですね。というかそういう文化を大人が用意してくれてたというかな。たとえばウルトラマンですし、なんとか戦隊ですし、僕で言えば広井王子の一連の仕事が好きで、魔神英雄伝ワタル(というアニメがあったんです)は冗談抜きで僕の人格の方向性をある程度きめたと思ってるんですけど。
ファミコンを親から禁止されて泣いたり、それで何ヶ月かしたあと酔っ払ってる親父に頼んでよし明日つけてやる、といわれて嬉しくて眠れなかったり、やりすぎで親指の関節が柔らかくなったり、あるいは好きな女の子?って聞かれてついしゃべって、相手に考えられないほどの殺意を持ったり、まあそんなのがあって、棒をひろって天にかざして、「りゅーじんまるー」というのもやりましたし(「ワタル」です)天空の城ラピュタのビデオを何度も何度も見て、ついにはせりふまるまる覚えてしまったり。
FF5というゲームがあって、ほとんどシステムとやりこみの要素しかないゲームなんですけど、ガラフというキャラで全ジョブ覚えさせるとやっきになったり、そういうのが我々における、システムに入り込む、物と同一化、というのに自然になっちゃってるんじゃないかと思います。……ぜんぜん違う話だったらどうも、アレですが。
つまりは生まれて、日本は豊かであり、しかも生々しくなかったんです。豊かさをいっしんに受けてれば勝手に成長できたし、豊かであるなんて気づかなかったしね。今から思えばとても豊かだったし、それに大きくなってみると、知らないことはいっぱいあり、わからなかったくらい豊かだなあとも思います。もちろんネアカにならざるをえないというのはあるですけど。
ととりあえずこんなところで……レスどうもでした! よく分かってないところ、失礼なところなど、ありましたら、お許しください。
ワタナbシンゴ
いきなり横槍すいません。
いやー、おもしろいなあと思ってしまって。
m.qyiさんのレスに対して、たみさんの返答。
このお二人の組み手もそうですが
みごとにたみさんの内側からの語り言葉といいますか
荒川洋治さんという詩を書く人が
彼の、文章を書くときの心がけとしていっていたのですが
①知識を書かないこと(知識という過去の重みに現在の自分をつぶされるな)
②情報を書かないこと(情報はその人の文章の中に居ないことが多い)
③何も書かないこと(文章は読者を威圧することがあってはならない)
それとリズムの問題を言っているんです。外在律と内在律の2つ。
と急に言われても、もちろんなんだかわからんと思うのですが、
(その人の生きている言葉と息づかいで書けっちゅうものだと思うのですが)
いいんです(笑)僕ひとりで納得しているんで。
それで、たみさんの返信を見て
ああ、「ぴたり・怖い話」の最後の方は単に息切れやったんかな」と
妙に納得もしました。
> 方法論としては色々考えられると思いますが、物と自分を対立はさせたくないでしょうから、自分と物を同化させてその有機システム(自然ではなく)の中に入り込むことを考えるのは必要でしょう。
の問いかけに
> FF5というゲームがあって、ほとんどシステムとやりこみの要素しかないゲームなんですけど、ガラフというキャラで全ジョブ覚えさせるとやっきになったり、そういうのが我々における、システムに入り込む、物と同一化、というのに自然になっちゃってるんじゃないかと思います。……
いやもう、この返答だけでたみさんは詩だなあなんてしみじみ思っちゃいました
> つまりは生まれて、日本は豊かであり、しかも生々しくなかったんです。豊かさをいっしんに受けてれば勝手に成長できたし、豊かであるなんて気づかなかったしね。今から思えばとても豊かだったし、それに大きくなってみると、知らないことはいっぱいあり、わからなかったくらい豊かだなあとも思います。もちろんネアカにならざるをえないというのはあるですけど。
だから、この一連の言葉が生々しく響いてきました。ほかの人が同じこと言っていてもふーんて感じだったろうけど、なんかですね。
でも、この先、たみさんがどういうものたちとのコミュニケートをしていって
詩なんかを書かれていかれるのかなと、
僕の共感は、荒川さんが言うような詩を書くポジションと
詩のなかにある、決して主義主張とか思想じゃない、
具体的な他者とのまぐわりあいとでもいうか
そんなことを考えながら、またたみさんの詩を読ませてもらいました。
乱入、失礼しました。
*
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