0904メモ


わたしは「わるくなる」という表現が好きだ。
「牛乳がわるくなっていて、おなかをこわした。」
こう言うとき、人はやさしくなってるっておもう。
ことばは、たくさんの、やさしい、でできてる(のかも)。

日常の言葉はたくさんの遠回りやずるい近道でできてる。
「牛乳が腐っていて、下痢をした。」
あまりこういう表現はしないでしょ?
「牛乳がわるくなっていて、おなかをこわした。」
本当は、牛乳は悪くならないし、おなかは壊れない。
でもね、でも、ひとはわるくなる、こわれる、って言いたがる。
それはずるい近道でもあるし、たいへんな遠回りでもあるんだ。
みーんな、もう意味をしっていて、かたちをもってる表現だけどね。
でも、その言葉をいうひとが、そのときに身体をなぞったり、手をひろげたり、しているんだよ。
おなかをこわした、っていうとき、みんなひとはイメージをとばしてる。
やさしい、でしょ?

めろめろ 22号 ユーリ 詩と手足とことばと


詩が売れるとか売れないとかわかるとかわかんないとか、そもそもはどうだっていい。
ただ、わたしに詩は必要、みんなにことばは必要。
詩はとってもことばに近いよ。
わたしはすこしいっぱい遠回りや近道を使わないと「生きる」にたどりつかなかったりする。
その遠回りや近道がわたしにとっての詩だったりする、それは詩を読むのも書くのもね。
(もちろん、詩は遠回りや近道とイコールじゃない、詩は道具や手段とは違うからね。)
詩はとってもことばに近いけど、ことばからはじまってるんじゃないよ。
詩はとってもことばに近いけど、ことばだけをもってるんじゃないよ。
(だからこそ、ことばに近い、の。)
詩はたくさんの「わたし」からうまれて、たくさんの「わたし」にたどりつけばいい
わたしが言う「嫌い」って言葉は、「嫌い」だけでできてるわけじゃない。
詩はもっとその「だけじゃない」を許してくれる。

同上(強調=太字はわたし)

わたしは詩論というのをほとんど読んだことがない。昔のインターネットの言葉を何度も読み返してその都度「こういうことだったんじゃないか」と気づくのを繰り返して、たちもどることを繰り返してきた。これも結局以下の引用から得た作法で、

橘日記 その弐拾七 大井戸華世
□投稿者/ 岡 実 -(2002/07/26(Fri) 00:37:02)
□U R L/
たみすけからひさしぶりにメールが来ておぼこ版に人が来てるんだっていうんだな。それで「そんな馬鹿な」とは思わなかったけれど、俺はもう一年ぐらいしだとか、そういうことについてなんにもやったりしてないしな、昔話をしてそれで終わっちゃうんじゃないかとおもったよ。そもそもおぼこ版て名前は覚えてたけれど、それがどんな役割をしたり、していたのか、忘れちゃったしな。 たみ山がいとうさんのとこに書いてたのもおぼえてるが、いろいろなことがなんだかもうぼんやりしていて分からない。俺にとっていろいろなことがどういうことだったのか、悪いが今はぼんやりしていて分からないんだ。 いろんな事が大味になっちゃったよ。気落ちこそしていないが、いろいろなことががらっと変わっちゃって、べつに事がすすんだって意味じゃあないけれど、その中で話のまだつづいていることもある。いろいろ変わっちゃったけど、あきらめちゃったっていう意味じゃあないんだ。 その昔は俺もいろんなことを疑問におもったり、なんだりしたよ。というのは文学というのが、どうも小回りの効かないもんに見えたしね。でかくてのろまなだけかと。俺はくちがたっしゃで算数もすこしはできたから、連中の言ってる教養が漢文の読解力(ほとんど時代は平安までさかのぼっちまうな)であって、理解力じゃあないって思ってたから、ずいぶんと涼しい気分にもなったりしていたよ。でも今はちょっと考えがかわってるな。 俺たちがうねっている場所は、言って見りゃ縦糸と横糸の通ったあとの場所だ。音には平均律が与えられて、色には色等が与えられて、場面には印象が与えられた。子供の靴の赤いのがぽとりと落ちてる。俺たちはESPに近いそれで、それが何なのかかぎ分けたんだ。そして、それがよろこびでありほまれだった。そして、似たようなものをこさえて、だれかがくるのを待っていた。 俺が今、その場所にいないのは、事故みたいなことからなんだ。はじめは友達のためにそうだったし、後には生活のためにそうだった。悪いが、君らが精をだしてやってることが、こちとらには愛着でも、それ以上でも、なんでもなかったからな。 俺はともだちが、まだともだちのままでいられるのかどうか試したかったんだ。俺には何人かともだちと思っている人があったり、これからもともだちはできるだろうが、そのともだちとのゆくすえが、どうなっていくのか確かめたかった。 わるいが俺にとってはずいぶんとじゅうような用件だった。 だけれど今ひとつよくわからなかったよ。俺は日がたつにつれて、なにか余裕ができるのかとおもったけれど、場所が変われば変わっただけの、時間がたてばたっただけの、たいへんなことってのがあるものだね。聞いてはみても、自分で通らないとどうもね。 ある人はある場所や、時間が来たら口をとざしたよ。俺はそうはなりたくないねと子供のときに思ったよ。お前もいつかわかるひがくるだとか、そういうことを言うにんげんにだ。だけどそうは言わないかわりに、俺はなんにも感じなくなったんだって、そういうことにはなっちゃうんだろうな。 だけれど何も思っちゃ居ないだとか、忘れちゃったってことじゃないんだ。今でもみんなのことが心配で、ときたまものまねをして笑ったりしてるよ。俺にとってはそういう合切のほうが、色濃いものだ。 だから漢字が多かったり(笑)、外国人の名前が出てきたりしても怒らないよ(笑)。 俺が言うのもなんだけれど、俺は、俺の後悔は「あの時もっと攻めとけばよかった」ってことしかないよ(笑)。この俺が(笑)。今は、それできない。なにしろあきちゃったから。 きみももっと攻めるべきだよ、ときにはぶちまけたっていいんだろうし、ぶちまけることが、ありていになるんだってことの同意じゃない。偉大である事は選べるし、形式たるもその通りだと思うよ。桂冠詩人を見上げるような事じゃなくて、君が勅撰であって、君自身が語る番なんだから。勅が枠を作るんであって、それは役人に理解できるしろもんじゃないってことを、君の詩のラストの数行が語るよ。

https://web.archive.org/web/20050117224511/http://hpcgi2.nifty.com/clair_de_lune/tami/cbbs.cgi?mode=all&namber=86&type=0&space=0

[91]  橘日記 その弐拾七 大井戸華世
□投稿者/ たみ -(2002/07/26(Fri) 02:04:08)
□U R L/

えっといい機会なので言っとくが(笑)、俺は岡さんのこういう文章を読んでもいつもちっともわかんないんだよね(笑)ただぼんやりながめて、そいで別にわかろうともあんまり思わないんだけどなんとなく飽きたり思い出したりしてそいで思い出す確率が他の人のものよりも多くって、それでそのたびにながめるんで、そのうちにああ、こんなことかな、と思ったりして。ということを繰り返しやってきて、はじめにやったのは大昔のことだけどニフでやった詩合わせのときか。そりからそのあと何番かでやってた論みたいなのも読んでて、それでこうなったわけだから良かったのか悪かったのかはぜんぜんわかりません。
昔俺が言ったのか高嶺が言ったのだったか、みみのいづみだっていって朗読白雪で掲示板のあったころの、「岡さんの書き込みはいつも大意しかわからない」っていうのがあっていい言葉ですね。

https://web.archive.org/web/20050117224511/http://hpcgi2.nifty.com/clair_de_lune/tami/cbbs.cgi?mode=all&namber=86&type=0&space=0

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■921 / 1階層)  Re[1]: 『昼の魚』 会員希望
□投稿者/ たみ -(2003/08/25(Mon) 02:52:12)

どうも、こんばんわ。
 寝ているうちにいとうさんから着信があって、たぶんレスつけろということなんだと思うけども、知ってはいたし読んではいたけどどうもつけあぐねていました。結論としてはもちろん、○で、かっこいいし本気度が充満していてすばらしく、迫力とともにいきおいだけではないこまやかな精神があります。すっごい凝り性な人だと思うな、というか。失礼なら勘弁してほしいが。
 友人にこういったタイプの、というとどうもあれなので似たような印象の、僕の中ではなんか似たような印象を抱くような詩を書く人がいて、思うに自分の世界ってのがありそれはみなさんあるものですが、それを公開するにあたり投げ出してイエーイってなタイプがあったり、文句言ったら殴るぜって感じの、ほんとうにそんなことはないだろうけどなんとなくそう思っちゃうようなのがあったりで、そういった対峙の仕方とでもいうべきような印象が似ていると思いました。
 みなさんのレスを読んで、わりと多かったのが「入り込みにくい」というのですが、それはそういった印象と、あとやはり詩的というべき突飛な言葉づかい、比喩の連続であるとおもいます。漢字へのこだわりとかもそうですが、ひじょうに美意識があってよいのですが、ちょっとするりと読めないことがある。全部がそうではないですが、ちょこちょこあって、ちょっとどもりみたいにそこを意識してしまう。すると、それはつまづきではありますが、それがまた読み進める魅力にもなっているので、素晴らしいと思うのですが、ぶっちゃけこの作品なにが素晴らしいかと言うと、読み進めるためのサービス精神にあふれているところで、うぐぐと思いながらも読んでしまいます。これは精神がいきわたっていないと、トーン的にはむつかしいこともあるので、そういうのが歯車のようにこの詩を回転させているというべきか。
 入りにくいというのはこの場合7:3くらいで読者に非があるので、そういうふうな詩なのでよいと思います。
 しかし入りにくくさせているのもそういったサービス精神なのも事実で、どういうことかというとこれはすごく読むために書かれている。そりゃ当然のことですが、やはり詩とは今現代、このドラゴンワールドにおいてはなんとなく日陰の文化。ちょいとそういった、なんかサービスたりねーよみたいなところにロマンを感じてしまうのもまた事実。ありていにいって、読ませるって意識が若干バランスを、ほんとうに若干だがバランスを欠いて露出している気がする。気合は隠したうえでわかるのがこのワールドのレシピでありオリーブオイルです。
 そうしてこの場合、さらりと読むことが出来ない、というのは読者はすれちがいではいられず、真正面から向かい合わねばならぬ。プラス50対プラス50の関係と言うか、たとえばものによってはプラス51対プラス49であることもあり、よってはプラス101対マイナス1こともあり、そこらへんの非対称なところがポエミーだねっ。ってなることも多いのです。これはさりげなさとかであって、広告文化に慣れてしまったわれわれがとくに持っているところだと思います。
 さりとて、そんなのはケースバイケースで人にもよるしそんなタイプでないならそうでなくてよいので、とにかく僕は好きな、すごくかっこいい詩だなあと思います。うだうだ書きましたが、決して悪いと言っているわけではなく、入りにくいというのはこういうメカニズムがあるんじゃないかなあと思って書いてみただけですので。
 ということでもちろん○であります。結果はもうでてるが、うん○だよ○。

https://web.archive.org/web/20041230031545/http://poenique.jp/cgi-bin/fhs/cbbs.cgi?mode=all&namber=889&type=0&space=0&no=0

わたしが詩を読んだりするときというか、書いてる人というか、書いてるものをみるときに念頭に置いているのは「この感じ」
それにしては煮崩れてしまったけれども、生活に戻れない(働いてるけど孤独っていうのかな、なんというか、疎外感というか、うそぶいてるっていうか、強がってる感じ?)まま、なんか生きてるなって自覚はずっとある。
だから執着しちゃうんだろうなと思う。
戻れないというか、うまく関われないというか。

まあそれはそれとして。
「岡さん」が書いてるESPのくだりはすごくいいですね。なんかぎゅっと、詩を読んだり(インターネットに)書いたりして、ふとしたことでいなくなることについて、コンパクトに書かれている。
それに対する「たみさん」の返答も面白い。初めて読んだとき、こんな返事書いていいのかと笑ってしまった。

冒頭の「ユーリさん」の文章もいいですね。
すごくやさしく書かれているのに、これ実際やろうと思ったらすごく難しいような気がしますが。

(追記:いや、"やる"とかじゃなくて、ふだんからなってるっていうか、やってるというか、そのようにあるというか、居るんだと思うんですけど。いや、そうあれないときとか、もちろん居られないときも含めて。と思うけど、それもふくめて難しいですね。言語という経路を通すというか、お豆腐を、細い水道管の中を、ひとつもかどを崩さずに通すために、いったんバラバラにしてもう一度再構成しなきゃいけないっていうか、そういう意味での(どういう意味だ?というツッコミはさておき…)そのままさは要るような気はしますが)

どの文章も平たくぎゅっと書かれててすごいなと思います。
「書き方」は特に書いてないけど、経緯とか、読み方とか、ありかたについては過不足なく、というか、どれだけここに書かれていることを細かく説明したとしても、それを読んだとしても、結局わたしはここに戻ってきてしまう。いわんとしてることしかわからない文章に憧れ(つづけて)ます。

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