0614

あさ。あめ。仕事の疲れがとれてないが今日も仕事なので、再生産でけへんやろ!と泣きごとも言わず、春のカフェイン祭りとひとりごちながら熱湯で茶を淹れる。こんな自分を褒めない。

昨日は荒川洋治さんの「日記をつける(岩波現代文庫)」から、言論の舵をわたさない、といった箇所を引用しようと思ったのだった。

文章を発表するときは、「ムダ」はないか、「フェア・プレイ」であるかどうかなど、いくつもの点において何度も点検。その作業に耐えられる人だけが文章を公表できるという考えをもっていた。書いたから発表するという、容易かつ単純なものではなかった。まちがったことが書いていないか見直し、校正を何回も見る。記者や編集者、校閲の人も参加して、正確を期す。そのようにして、文章は公表に向かった。そうではないものもあるが、チェックが入らないものは信用されなかった。

ブログの日記の文章は、厳密には書かれていない。思うまま自由に書く。第三者のチェックは入らないので、誤字も多い。他人の文章を引用するときでも吟味しない。誤りが多くなるが、どこまでも「自分」が基準なので、情報が正確である必要はないのだ。事実を創作してもよい。それがもとで人に迷惑をかけてもよい。匿名でもよいので、責任を追及されることもない。ともかく書いたままなのだ。人を傷つけても自分を傷つけたくはない、という気持ちもあるのだろう。そこで生まれるものを文章と呼んでいいのかどうか。

その人だけに話したプライベートなことが、ブログに出てしまう。これからは、そんなことばかりになるだろう。人と話すときは、「その人がブログを書いている人かどうか」「ツイッター(簡易ブログ)を使っているかどうか」をたしかめてから、話す必要がある。怖いこと、面倒なことになった。つまり何も言えない時代になった。

たしかに、書きたいことが自由に書ける場を、これまでの社会は十分に与えてこなかった。職業的な書き手だけが文章を発表し、意見を述べた。特権的なところから文章が生まれた。だからときには一般的な考えや感覚と合わないこともある。ブログはそれを改善するという面で期待されている。(中略)書き手としての条件をしっかりみたしている人に、すべてをゆだねるのだ。条件をみたしていない人、たれながしのブログを書いても平気な人のもとには、言論の舵は渡さない。そのほうが社会は大きな傷を負わないように思う。

他人に見せるということは、もはや、自分というものがなくなっているからだろう。自分が希薄化しているしるしだと思う。そこに自分があるように感じているとしても、それはまぼろしで、「自分があるような」気どりを、ただ示しているにすぎないこともある。ブログで自動記述のように、どんどん書いていけば、そのことばの量で、「自分がある」ような錯覚が生まれる。でも、それは「自分のない状態」なのだ。冷静になれば、他人もないが、自分もない状態であることに気づくことになる。

p155-p159

ブログという言葉の使われかたやそれが指し示す場所に少し違和感を感じるかもしれないが、2002年に刊行された新書に、2010年、文庫化するにあたって追加された章の中に書かれていた文章なので、その当時(というか、2002年から2010年の期間のあいだ)の「ブログ」は、それなりに妥当というか、確かにその当時はちょうどブログが台頭していた時期だったと記憶している。
Twitterの日本語版が2008年4月リリースなので、この本の発行の2年前であることを考えると、「ツイッター(簡易ブログ)」といった表記もある程度理解できる。
それよりも、このブログという言葉を現在のあらゆるネット上に現れる言葉、特に公開されたSNS上の言葉として当てはめてみたとき、今でも人を後ろめたい気持ちにさせるには十分すぎる気がする。
もうわたしはこういうのを読むと、知るか、というか、うわーっと思いながら書くしかない。というかひどくなーい?twitterで作者の文章とか引用してバズったら作者がありがとうございます!とかなってるのって、ああいうの見るともうルールなんか守らなくてもバズりゃいいのではとか思ってだんだんもう荒川さんのいう訥々した感じ、朴訥な誠実さのようなものを、書き手もそんなに持ち得ていないのではないか?という疑念がふつふつ沸き、本筋であれば関わった人を一足飛びで超えてリツイートしてありがとうございます!と本の宣伝をして、それでいいね押した人のうちじっさい何人がそれを買うのか、みんな周期で春だから新生活応援セールだから新生活に気をつけることーとか言ってブログを書いてまたそれをみんながいいねかブックマークしてまた来年になると春だから新生活…という流れで毎年毎年いいね押してるだけの話であって、いいねが積み重なって何かを成すわけでもなければ本が売れるわけでもなければなんか忘れる人に毎年なんとなく便利そう…なんかエモそう…みたいな感じでいいね押させまくっては消えていく流れのようなもの、こういうものの中からガチで棹をさせるようなものを作ろうとすると、まあ才や健美や自己ブランディング能力がなけりゃあ身体によって棹さすしかないわけである。身体で場に飛び込んでいくしかないのである。

ふとわたしが好きな黒田三郎さんの一説

しかし、詩をかくことは自分の生活をさらけ出す結果になる、という自覚は、案外、少ないかもしれません。新聞や雑誌などの投稿者には四〇歳代五〇歳代の女性が意外に多いようです。この年代は青春を戦争中か戦後のもっともひどい時期にすごしたひとたちです。戦争によって親を失い、夫や兄弟を失い、苦労して子どもたちを育て、やっとその子どもたちが一人前になって、わずかの閑暇を得た今日、彼女たちは詩をよみ、詩をかこうとしているのです。僕は何かしらのやすらぎと何かしらのむなしさを、いつもそこに感じざるをえません。詩をかくことで心のささえを得ようとする、その気持ちがひどくせつないのです。初めて詩をかいたと言って寄せられる詩には、なれない手にペンをもった実感がなまなましくこもっています。これまで苦労に耐えて、ひとにうしろ指をさされまいとして、必死に生きてきたことでしょう。だが、こういうひとが詩をかくとき人目をはばかろうとしないのです。胸にたまっていたことがあふれ出るようなものが、そこにあります。男性の場合ですと、巧拙の差はあっても、年配者には多少の心得があって、かくものも実生活の常識からあまり逸脱しはしません。いきおい中途半端で、なまぬるい詩になってしまいます。ところが、女性の場合は、日常生活でがまんにがまんを重ねたものが、詩を初めてかいたために、せきを切って流れ出したというようなものが少なくありません。
 僕自身はもう何十年も詩をかいて生きてきた人間ですし、自分のかいたものが、現に生きているひとりの人間である自分に、どう現実にはねかえってくるか、よく知っているつもりです。その結果どういう結果になろうとかまわない覚悟はついています。だが、新聞の投稿詩の場合、その詩に実感がこもっていればいるほど、作者自身があらわに出ていて、僕はせつなく心配になることがしばしばあります。この詩が新聞に出て、ご主人がよんでもいいのですか、ご近所のかたがよんでもだいじょうぶですかと、つい考えてしまいます。「生活をさらけ出すなんて、私にはできない」どころでなく、自分がどんなに自分の生活をさらけ出しているか、それが新聞に出たら、実生活ではどんな結果を招くか、まるで自覚がないのではないか、と思われる場合が少なくありません。
 「生活をさらけ出すなんて、私にはできない」と言って詩を断念するひともあれば、反対に、自分が実生活では秘めていたものが、詩にはあらわに出ているのに、それを発表したさい、実生活にどういうはねかえりがあるか、無自覚なひともいます。

(黒田三郎『詩の作り方』p154〜p155)

そして鈴木志郎康さんの一説

書けなくても、「書きたい」という気持ちはなくならない。しかし、書けなくなったとき、何とかして書き続ける方策を求め続けるか、また書かないでそのままになってしまうか、ということの間には大きな差がある。

普通書けなくなるというときは、ことばを忘れてしまったというわけではないのだ。書けなくなるというのは、「表現としてのことばが書けなくなる」ということである。「表現として」、あるいは「作品として」何をどう書けばよいかわからないということである。

最初詩なり文章なりがすらすら「書けてしまう」というのは、単純に普段使っていることばを、「書く」ということによって「別の使い方」ができることを知って、それを自分ができるという喜びから始まるのである。

(鈴木志郎康『現代詩の理解』p46-p47)

すみません、引用の要件である主副を大幅に無視してしまって…。でもちゃんと書くつもりではあります、あと10分ですけど。。

えーと、荒川さんの言うところの責任というものが、黒田三郎さんが言うところの「跳ね返り」であり、新聞投稿で堰を切ったようにほとばしる激情が校閲されず詩という形で実名で発表されることに対する心配。それに対し、中高年男性のインテリジェンス(心得)による生ぬるさ、これは荒川さんがいうところの編集者であり、また、飛躍すれば、「(取材や校閲や編集に関わる人数を支える)経済力」という考え方も可能かもしれない。つまり、高度経済成長期のほんの一時期の所産であり、それは結局ほとんど徒花であり無駄遣いであったし、無駄遣い上等でやってきたツケといえばツケであり、その報いがブログであるともいえる。
情報技術の発達によって業余の時間の効率化によって、今までは抑えつけられていたり、諦めていた書き手が反旗を翻したかのようにも見え、またラガードによって裾野が広がり、荒川さんがいうようなルール、文脈や前提を理解しない使い方も人口に膾炙しまくった。
これをざまみろ、と舌をだすわけではない。なんか誠実な世界はどこかにあってほしいが、誠実なほうからいちいちちくちくと責めてこないでほしいとは思う、ぶっちゃけ。
じゅうじゅう承知である、といったところで最後の鈴木志郎康さんの「書きたい」という願望について。
そう、、荒川さんのおっしゃるような形でのフェアネスやルールをすべて踏まえたうえで、たとえ、業余の時間を効率的に使い、涵養し、ひそやかに、または放埒に書くことができるようになった現代でも、まだその所業をきっちりと校正校閲し、書くといったところにまで到達する、あるいは心がけるというのはなかなかに難しい。
鈴木志郎康さんのいう「書けなくなる」に、その荒川さんの提示する条件すら加わってしまったら(そして、書く人というのはたいていにおいて、内心律儀な人がけっこう多い気がする)、本当にそれこそ、
「なんとかして書き続ける方策を見つける」ことをやめ、書かない生活に突入してしまう。それが果たしていいことなのか。
荒川さん的には、そのように自分を見つめ、とつ、とつと書くことの大切さを思い出そうよ、といったところだろうが、一旦書くことから離れ、仕事の濁流に飲み込まれてしまった場合、いや、それでもいつかはエアポケットに入るように、実家に戻ってふとさまざまな些事から解放瞬間、かつて投稿していたサイトにログインするかのように、書くことを思い出せるかもしれない。
だが、それでいいのだろうか。わたしの疑いはその一点に尽きる。
そしてそれは責任や信用を踏み越えるし、踏み躙るかもしれないものだということもわかりながら、やめるべきではないというのが、わたしのスタンス。書かなきゃ書かないで生きていけるじゃん、と思うこともいいのだが、それによって反対側をくさすようなこともなく、その逆も、移動したあとに引越し前のスタンスのことをあっさりと、いやあっさりと見てほしくはない。何か、心に少し残した状態で移動してほしい。
そうすれば、転向したときにそこまで苛烈になることはできない。そこに自分の半身を残すようにすればだいじょうぶだと思う。しごと

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