0614
あさ。あめ。仕事の疲れがとれてないが今日も仕事なので、再生産でけへんやろ!と泣きごとも言わず、春のカフェイン祭りとひとりごちながら熱湯で茶を淹れる。こんな自分を褒めない。
昨日は荒川洋治さんの「日記をつける(岩波現代文庫)」から、言論の舵をわたさない、といった箇所を引用しようと思ったのだった。
ブログという言葉の使われかたやそれが指し示す場所に少し違和感を感じるかもしれないが、2002年に刊行された新書に、2010年、文庫化するにあたって追加された章の中に書かれていた文章なので、その当時(というか、2002年から2010年の期間のあいだ)の「ブログ」は、それなりに妥当というか、確かにその当時はちょうどブログが台頭していた時期だったと記憶している。
Twitterの日本語版が2008年4月リリースなので、この本の発行の2年前であることを考えると、「ツイッター(簡易ブログ)」といった表記もある程度理解できる。
それよりも、このブログという言葉を現在のあらゆるネット上に現れる言葉、特に公開されたSNS上の言葉として当てはめてみたとき、今でも人を後ろめたい気持ちにさせるには十分すぎる気がする。
もうわたしはこういうのを読むと、知るか、というか、うわーっと思いながら書くしかない。というかひどくなーい?twitterで作者の文章とか引用してバズったら作者がありがとうございます!とかなってるのって、ああいうの見るともうルールなんか守らなくてもバズりゃいいのではとか思ってだんだんもう荒川さんのいう訥々した感じ、朴訥な誠実さのようなものを、書き手もそんなに持ち得ていないのではないか?という疑念がふつふつ沸き、本筋であれば関わった人を一足飛びで超えてリツイートしてありがとうございます!と本の宣伝をして、それでいいね押した人のうちじっさい何人がそれを買うのか、みんな周期で春だから新生活応援セールだから新生活に気をつけることーとか言ってブログを書いてまたそれをみんながいいねかブックマークしてまた来年になると春だから新生活…という流れで毎年毎年いいね押してるだけの話であって、いいねが積み重なって何かを成すわけでもなければ本が売れるわけでもなければなんか忘れる人に毎年なんとなく便利そう…なんかエモそう…みたいな感じでいいね押させまくっては消えていく流れのようなもの、こういうものの中からガチで棹をさせるようなものを作ろうとすると、まあ才や健美や自己ブランディング能力がなけりゃあ身体によって棹さすしかないわけである。身体で場に飛び込んでいくしかないのである。
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ふとわたしが好きな黒田三郎さんの一説
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そして鈴木志郎康さんの一説
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すみません、引用の要件である主副を大幅に無視してしまって…。でもちゃんと書くつもりではあります、あと10分ですけど。。
えーと、荒川さんの言うところの責任というものが、黒田三郎さんが言うところの「跳ね返り」であり、新聞投稿で堰を切ったようにほとばしる激情が校閲されず詩という形で実名で発表されることに対する心配。それに対し、中高年男性のインテリジェンス(心得)による生ぬるさ、これは荒川さんがいうところの編集者であり、また、飛躍すれば、「(取材や校閲や編集に関わる人数を支える)経済力」という考え方も可能かもしれない。つまり、高度経済成長期のほんの一時期の所産であり、それは結局ほとんど徒花であり無駄遣いであったし、無駄遣い上等でやってきたツケといえばツケであり、その報いがブログであるともいえる。
情報技術の発達によって業余の時間の効率化によって、今までは抑えつけられていたり、諦めていた書き手が反旗を翻したかのようにも見え、またラガードによって裾野が広がり、荒川さんがいうようなルール、文脈や前提を理解しない使い方も人口に膾炙しまくった。
これをざまみろ、と舌をだすわけではない。なんか誠実な世界はどこかにあってほしいが、誠実なほうからいちいちちくちくと責めてこないでほしいとは思う、ぶっちゃけ。
じゅうじゅう承知である、といったところで最後の鈴木志郎康さんの「書きたい」という願望について。
そう、、荒川さんのおっしゃるような形でのフェアネスやルールをすべて踏まえたうえで、たとえ、業余の時間を効率的に使い、涵養し、ひそやかに、または放埒に書くことができるようになった現代でも、まだその所業をきっちりと校正校閲し、書くといったところにまで到達する、あるいは心がけるというのはなかなかに難しい。
鈴木志郎康さんのいう「書けなくなる」に、その荒川さんの提示する条件すら加わってしまったら(そして、書く人というのはたいていにおいて、内心律儀な人がけっこう多い気がする)、本当にそれこそ、
「なんとかして書き続ける方策を見つける」ことをやめ、書かない生活に突入してしまう。それが果たしていいことなのか。
荒川さん的には、そのように自分を見つめ、とつ、とつと書くことの大切さを思い出そうよ、といったところだろうが、一旦書くことから離れ、仕事の濁流に飲み込まれてしまった場合、いや、それでもいつかはエアポケットに入るように、実家に戻ってふとさまざまな些事から解放瞬間、かつて投稿していたサイトにログインするかのように、書くことを思い出せるかもしれない。
だが、それでいいのだろうか。わたしの疑いはその一点に尽きる。
そしてそれは責任や信用を踏み越えるし、踏み躙るかもしれないものだということもわかりながら、やめるべきではないというのが、わたしのスタンス。書かなきゃ書かないで生きていけるじゃん、と思うこともいいのだが、それによって反対側をくさすようなこともなく、その逆も、移動したあとに引越し前のスタンスのことをあっさりと、いやあっさりと見てほしくはない。何か、心に少し残した状態で移動してほしい。
そうすれば、転向したときにそこまで苛烈になることはできない。そこに自分の半身を残すようにすればだいじょうぶだと思う。しごと
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