成田さんのシラスの動画

最近シラスで東さんと成田さんが対談してる動画を見た。思ってた順番とは真逆で成田さんが酔っ払う前に聞いておきたいと言ってそういう順番になったんだけど、個人的にはどういう共通点があって昔どこでニアミスしたとかから入ると思ってたから(これはもう楽屋?というかどっか打ち合わせ?待ち合わせ?のときにしちゃったから、みたいな話もされてたように思う。また、そういう話は本筋ではないし周りが気になってるだけでふたりからしたらそこまで興味ないのかもしれない)意外だなーと思いながらもこれはこれですごい素直な受け答えでなんか聞いてて清々しい感じだった。このへんの素直な受け答えはYoutubeの冒頭無料のあたりでもある程度見れる。

なんかふたりとも、やっと訊ける人が来て、応えれる人が来た、みたいな感じだった。そういう意味でYoutubeの「邂逅」って書いてあるサムネは「まさにそのとおり」って気がした。

話は難しすぎてよくわかんなかったが、成田さんや落合さんは機械のデータ取りとフィードバックが遍く行き渡りそれらが自然みたくなったとき人はあんま気にしないのでは?みたいなこと考えてるのかなーとおもった。
落合さんがなんかPIVOTかなんかの動画で「実存の問題さえ乗り越えれば楽になれる」みたいなことを何度か言っててこれはまさに中年のおっさんのクライシスとも重なる部分があってぶっちゃけ実存てなんなのかわかんないけど実存の問題って、インストールされてる人はもう乗り越えれないのでは?ともおもったり。
実存というのはなんかお役に立てるかどうかみたいなわらわらした気持ちというか、はたから見ててわらわらしてるなーと思うのに自分も役に立ちたいと思っちゃうような感じのことかなーと思ってるけどそういうのとはちがうのかな。
落合さんがPIVOTで今年大ブレークしたAI画像生成とかをその場でやったり、あとは自動で音楽作るのをやってたけど、なんか見てて立花ハジメっぽさを感じた。

立花ハジメは自分の「手癖」をAdobe Illustratorのプラグインにした「信用ベータ」とか作ったり、なんかこう、見る人の気持ちをぐわっと掴むものを色々作るアーティストで、わたし世代ではNHKの「デジタルスタジアム(以下デジスタ)」という番組のキュレーターのひとりとしてテレビに出てたのが初見だった。そこからプラッチックスというのがあったりなんだりしたというのを遡って知っていったのだ。
当時のデジスタのキュレーターは確かガキ使のフリートークの背景のセットのイラストの人(田中秀幸?だったか、スーパーミルクちゃん等)、明和電機、カップヌードルのHungry?のCMの人(いつも下妻の人と間違えるナカシマ読みの中島さん、信也さん)、あとは手塚治虫の息子の人(手塚眞さん、ビジュアリスト?)、あとなんか色々出てて、NHKと教育テレビがキャラをかってる人が出やすい印象だった。特に明和電機とかMAYA MAXXとかはなんかNHK好きそうだなって感じでよく出てた。根が真面目なふざけてる人っぽいからかなーとか思いながら当時は見てた。話がそれた。立花ハジメである。

そこでキュレーターとして紹介されるときの作品紹介で上半身がギターを抱えた立花ハジメで、下半身がアニメのバンビになってる動画がすごいかっこよくて、痺れるというか、なんか、立花ハジメはかっこいい!というイメージがそこからずっとあって、WEBサイトを見にいったらなんかtachibanahajimeという文字が物理エンジンのついた鎖みたいにカーソルにダラーンとくっついてきてなんかおもしろい、みたいなサイトだった。
あとはその当時の立花ハジメはなんか時計の文字盤作るのをやってて、タイポグラフィとかで時計の文字盤とかをやってた。
話を戻そう
で、デジスタは年一でアワードを決めるのだが、そのときキュレーター全員の合議制をとってて、立花ハジメはなんかちょっと小洒落たお絵描きソフトみたいなやつを激推しててなんか「ああ〜立花ハジメはそうだよな」みたいに思った記憶がある。
それは黒い机にタッチペンみたいなやつ(もしくは指だったかもしれない)でなぞると、花の茎のような線が描かれそこからフラクタル的に画像が展開されたりしていくというもので、いかにも立花ハジメが好みそうだけどそれはただの技術というか実装の問題であって、本質的にも表現的にもなんか新しいわけじゃないけど、まあ体験すると感動するし見栄えもするよねって感じだった。それに立花ハジメが飛びつくのもよくわかった。
確かこの時のグランプリがAC部で、ユーロボーイズとかいうまったくわけのわからないキモキャラがキレキレのダンスを踊るMVで、思えばずっとAC部は同じモチーフでやってきてるよなと思う。
まあ立花ハジメ的にはいやそんなアニメーション作品よりこっちだろ!というのもあったかもしれないが、結局AC部がグランプリとなり、その次の年次のオープニングを作ることになった。これは記憶ではgroup inouのセラピーのMVで金髪のおばさんがずーんと前に出てくるときの雰囲気っぽい感じだった。また話がそれた。
で、結局、そのときの立花ハジメがまんま今のPIVOTで音楽生成してる落合洋一と被ったわけである。
あー、この感じかと。いや本質的に違うのはわかるけど
同じだと。

あとYoutubeで立花ハジメがナムジュンパイクみたいなテレビ山積みのライブ会場に飛び出していってアルプス何号とかいう立花ハジメが動くと連動して音が鳴る機械みたいなやつと一緒に音楽やったりしているのだが、そのライブ動画のダイジェストは最後のほうになると汗だくの立花ハジメがテレビだらけの段差で座ってアコギ弾いてて、やっぱり最後はだれてきてアコギの弾き語りとかになるんだなと思った。そもそもライブの最初から出オチ感が少ししている。もうすることがない。
もうすることがないでいえば、詩的間伐という対談本にねじめ正一が「ようこそ先生課外授業ようこそ先生」みたいな番組で母校に出向して生徒を監禁して詩を書かせる回があり、庵野監督の回はみんながパラパラアニメを作ったり、嘉門達夫の回はみんなで学校のあるあるネタで歌を作ったりしてるのに、ねじめ回は詩である。

瀬尾 「手続き」というのはそれだけ取り出そうと思うと難しいわけですね。以前、ねじめ正一さんがNHKで、自分が卒業した小学校に行って子供に詩の書き方を教えるという番組をやっていたんですが、行って何をやるのか。子供たちに向かって「なんだっていいんだよ」と言うんですね。「何書いたっていいんだよ。何も規則ってないんだ。何書いてもいいんだ」。それだけ言うと、もう言うことがなくなっちゃう。あと授業やることがなくなっちゃって、本当にどうしたらいいのかという感じになっちゃうんです。それで結局フィールドワークみたいに子供たちを街に出て行かせて、いろいろなお店のご主人とかから言葉をもらってくる。そういうのをつなぎあわせてみんなで詩を作ることになるんですが、現代詩の「手続き」として「なんだっていいんだよ」としかいえないというのは困ったことだけれども、でもこれは現代詩の普遍的な問題ですね。じゃあ反対にこういう手続きを作ったらいい、こういうマニュアル作ったらどうか、という話じゃないわけです。こうしたら現代詩ですよ、みたいな約束はないわけですね。だけどこれは考えるべき問題ではあって、「手続き」は絶対になければならない、だが「手続き」はこうだとは決して言えない。だからこどわれわれはみんな詩を書くときに、極端に言えばその「手続き」のことだけを考えているし、「手続き」だけを問われていると言ってもいいわけですね。

思潮社 詩的間伐より

また話がそれてしまった。まあなんでもいいというか、自由になると人間は手持ち無沙汰になるという話である。落合さんの実存の問題というのも言い換えると自由というか手持ち無沙汰の問題、有意義だとおもえる時間の潰し方とか、意味があったかなかったとかでものごとを考えないアティテュードの必要性(また必要性とかいう!)みたいな話なのかなとも思う。まあでもそんなことはどうでもいい。
要は、なんかこの人のことかっこいいし好きだけどなんかちょっとさみしい…みたいな感じだった。

なんか「すごくない?」とか言ってるけど、身体があって、ちんまりなんかこちょこちょやってるだけっていうときの周りの空気感というのか、芸人でいえば「いつもここから」が掬うような「寂しさ」を、落合陽一や立花ハジメは帯びているというのか、どうしようもなくもっている気がする。軽やかにする前にまずそもそもおまえ重くないだろみたいな雰囲気がいつもする。技量の深みのようなもので結局いつも最終的にはコツコツやっていく人に抜かされてくようなイメージがある。そういう寂しさというのは結局単純作業は時給が安いみたいな形で恨みを晴らす世の中の仕組みになってきている。人と喋って共同してコラボしてなんぼみたいな人の力の組み合わせの妙をいかに作り出せるかの希少性を競っていて、中国の揚げパンを紙袋に入れるのが神業みたいに早い人とかにお金をあげない世界になっていて、個人的にはなんかそういうのって手先が不器用で口八丁な人の「恨み」なのだと思ってる。そういう意味で言えば恐竜VS哺乳類の時期から「恨み」は続いていて、ずっとそうやって「恨み」を晴らしながら淘汰してきたのがこの世界の基本路線である。また違う話になってきている。戻そう。

これはある意味「背が低いのにマッチョな人を見たときー(いつもここからのフリップネタ)」なんかはもうルッキズムまるだしだし、どうしようもないことを言うな!と思うけれども、そのどうしようもなさに対してどうしようもなくどうしても思ってしまうことを、スマホの液晶保護フィルムの空気の泡を押しつぶすように追い詰めてった先にお笑いというものがかろうじて残ってる気がする。

こんな簡単にできちゃったら人間の役割がどうのこうの…という話があって、そこに実存、たぶん歴史をたどったり何のために生まれてきたのか…みたいなことを考えずそこそこ楽しく生きて死ぬみたいなことを実践する感じをAI+BIみたいなものの組み合わせでがっつり

でさっきいったように本質的にはそういうのとは違って、
おそらく問題は、今でも慣れてきてるし、これからもっと慣れていって、もっと覆ってきたら、わからなくなるんじゃないかみたいな話を成田さんはしてる気はする。
東さんは、覆ってきても、それ自体を取りやめるのが人間だから、っていう話をしてた気がした。
手のひらを重ねあって、下から抜いていって、みたいな話で、機械が上になるか人間が上になるかみたいな話で。
今でも機械によって人間の世界に外がない感じがする感じとかは十分に感じれるから、成田さんのいうこともわかるけど、ブレグジット的に東さんみたいな感じのやつにもなりそうな気はする。
決めるときの材料、思考の源みたいなものと、それの提供関係として機械と付き合ってるつもりが、今はなんか見ようによっては逆流してるようにも見える。提供する情報の範囲でしか考えれない。その範囲を遍く覆うとなったら、もうどうしようもない。


で、その覆ってくるものが自由意志をもって人間みたいに振る舞うようになったとしたら、もうそれは人間社会とまったくおんなじ問題が起こるだけだよね、という話もしてたようにおもう。じゃあそれは便利でもなんでもないじゃんという話になる。で、こういうときのユーモアみたいなのが東さんのおもしろいところで、なんか「(AIが)出ていったんだけど…」みたいな例えが出てきて、思わず笑ってしまうのだが、あと東さんはなんかホテルニューハンプシャーのお父さんみたいな感じだなーと思うことがある。
なんかお父さんがすごいよれよれの服でどっかの高級ホテルのラウンジに入っていったら、周りの金持ち連中が「うお、ほんものの金持ちきた!」みたいになって羨望のまなざしを送るシーンがあるのだが、東さんは意外とみんな誰も言わないけど羨望のまなざしを送られまくってる気がする。
いかにお父さんの影響を受けてないふりをして、お父さんに影響されながら経済的に金持ちになったり、社会的に有名になってみせるかを今のホリエモンとかひろゆきが頑張ってるという構図がある気がする。気にしてないふりをするというのか、代償行為というのか。
やまもといちろうさんはそういう意味で最初から畑が違う人だったから、そういう影響下にはないしなんかピーターパンシンドロームのいらすとやつけたりしてるけどなんかたぶん嫌いではないんだろうとは思う。


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