いちのせかい

敬語論という本を読んでた。
読みながら
古谷実作品の敬語の使われ方を思い起こしたりした
あとはウチソトヨソの考え方、そして[弾力性のある]と表現されるそれらの同心円状の構造の境界について、家族的類似、友敵、またはひきこもりシステムなどを思いながら読み進めた。
(今朝はここにアンガーマネジメントの「べき」の境界も重ね合わせてみると面白いかもなとおもった。)

鈴木志郎康さんは極私的という言葉で色々と書いているが、詩作品はウチというよりはナカみたいな感じだった。だから闇がやたらと出てくるのかなあと。
ヨソソトウチの自分のナカ、となるとこれは完全に他者に理解できない世界になってくる。今まで積み重なった認知による判断が出てくるし、見ている景色も居る場所も全然違う。書いてしまえば(遺してしまえば)時間さえずれ始める。なんか自分のナカ、を読めてしまうように金切り声(by富岡多恵子さん)でうたったのが初期の鈴木志郎康さんのプアプア系の詩だったのではないか。
あと白に溶ける、映画のフィルムが流れ切ったあとの白、幸福のイメージ、詩人論のページにあった「自分のことは見えていないのに自分の位置は正確に掴んでいる」または『日没の印象』に確かあった、姿見に映る自身の映像、肩から下でカメラアングルを動かす時の、周囲の筋肉の連動しなさ加減、など。
ばらばら、発達心理学?の赤ちゃんのばらばらのイメージ。それと、ナカ。始まり。

そもそも詩というのがイチの時の表現手法でウタというのもそういうイチであることを示し、だからこそ疎外状況を相手に開示しヴァルネラブルかつパレーシアになるみたいな。イチの時にソトやヨソに言葉で立ち向かったりウチに向かって囁いたりするための詩。

しごと

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