0623

あさ。ちょっとひんやりする、鼻もずーずーする。
書斎化計画が勃発してるため、毎朝書斎(仮)の戸を開け電気つけ口角を上げる、というのが日課(ルーティ↑ーン)となりつつある。
昨日本をあらかた収めた。
最後の方はきっちりジャンルごとに入らなくて「相席になりますが…」みたいな感じの棚が増えていき、忸怩たる思いだった。

これは誰をロールモデルにしているのかというと、天野忠さんが自宅に小さな書斎を構えていた、という記述があったのも思い出すし、池辺葵の「どぶがわ」やその他のエピソードにもときどき出てくる、なんというか、質素な部屋に基礎的な童話(わたしは心の中で基礎童話と呼んでいる)が一段しかない本棚に揃っている部屋、みたいなのが出てくる。それもある。

重厚な感じ、磨かれた黒い木!みたいなイメージは特になくて、まあ質素な、「こうしたかったんだねえ」って思われるような、完成形には届いてないけどやりたかったことはわかる、うん、みたいな書斎を目指したい。

湿気、これが問題。今年は去年(おぼろげ)とくらべてもしっかりちゃんと梅雨だなぁという印象。
とりあえず温湿度計を設置し、湿気とり4つと除湿機を置いて常に50%前後をキープしてるが、体感では40%〜45%ぐらいな気がしなくもない。結構カラッとしてる感じ(他の部屋と比べて)。
来月の電気代でまたちょっと考えるが、今月はとりあえずガンガン除湿機を回す。とはいえ、つけっぱだとエンペラータイムを発動したまま気絶したクラピカの二の轍をふむので、朝、切タイマーで5時間、帰宅後切タイマーで3時間〜4時間、というのを繰り返している。

除湿機は、これ、ハイブリッド式だと思うのだが、デシカント方式とコンプレッサー方式、どういう局面で切り替えてるのか…、なんかちょっと室温に影響が出ていて、25度ぐらいになるのがちょっと気になる。
他の部屋は21〜24度ぐらいで、書斎はもともと気温低めなのだが、除湿機が回ると2〜3度上がる。冬にはいいかもしれないが、夏にこれは厳しい…

サーキュレーターみたいなものを置いた方がいいのか、ここにもエアコン置くかどうか。エアコン置いてしまえばスマホで操作系になればいいので、そのほうがいいのかもしれない。

最後は作業スペース。机を置くか、でかい板みたいなやつを窓際にステイで取り付けたほうがいいか。
書斎、で検索すると、画像だと重厚系の、いかにもな、さっきいった黒い木の磨かれた書斎、もう一方は、ナチュラルな木目の、狭小な場所に造られた書斎。インテリというかITの人というか、なんか、現代版の憧れの書斎みたいなイメージ。コンクリートの少し緑と灰色のあいだみたいな部屋に、ナチュラルな木の色で棚板が入ってるみたいな感じ、あと骨みたいな細いデスクライト。こちらはどっちかというと、窓辺の狭いスペースに板を渡してるケースが多い。あと、壁の上のほうにもう作り付けで本棚がビタっと張り付いているような部屋もいくつか出てくる。
わたしの家なので、こういうこともできなくはないし、人生は一度切りなのだが、まだ動かせる本棚、動かせる机に留めておきたい、なんとなく。

ざっくりと、なんかこう、窓辺に板みたいなデスクがあって、真後ろには作戦会議ででかい紙を広げられそうな机も置いてあって、あと雑魚寝できるスペースもほしい気がする。
何するんだって話だが、とりあえず本を読む場所を作る。

あとはぼんやりとしたイメージだけど、誰かが入ってきたとき、いじましくみえるとか、けなげにみえるようにしたい、というのは今なんとなく思った。たぶん自分がそこで何をするかより、そっちのイメージのほうに惹かれている気がする。

アスタリスク

そういえばこれ昨日おすすめにでてきてみたけどおもしろかった。
時々おもうんだけど、こういう人ってキレたらどういう行動をとるのだろうと思ってて、なんかくわっとキレるのか、静かにキレるのか、黙って淡々と実行していくのか、そもそもキレるという概念がなく、どこまでも交渉による他者の理解に努めるのか。

あとゲンロンαにも記事がある。

インフォーマル経済というか、個人的には野良な、草の根的な経済、そこでリープフロッグ的に使われる情報機器、端的にいえばスマホやSNSの使われ方のおかしみ、そこに見るある種の希望、それと今日本を覆ってるものをぼんやり比較し無理ゲーだと思う感じ、それら。
でもなんか始めたくなるのである。要は、壁のひびを探すような感じで、日夜そういう気分で生きているわけである。ド深夜、ここにつるはし入れたら、ワンチャンいけるんじゃね?みたいな。
そういう気持ちを職業生活20年近くエンゲージメントをもって働いてきた40代が抱いていいのか?というのがまず1点。もう1点は、飛んだ先が闇しかないということ。勝算がなくても、人がいないとダイブはできない。ダイブしてから人が来ると思うのは、甘い。実際経験としてそう(おれは何もないのに飛んだんだ!)見えたとしても、その素地はあったはず。ここ(インフォーマル経済)でいうところの「…は助けてくれるはずだ」みたいな感じ。無意識。これが経済によって完全に分離させられていて、事情というものは個人で抱え込まざるを得なくなった。事情の発露はSNSや詩に入り込み、詩でもまた普遍性のために乾かすと事情はさらに行き場をなくす。あるいは細分化。どんな魚を捕らえるかで網の目の大きさは変わる、そもそもが魚のサイズを想定して網を編むことが不純だとすることもできるが、書き続けるには少なからず往還しなければならない。事情は核家族のパートナーや限られた親族のみで循環しがちになる。表現は"次回"まで要らなくなる。次のくぼみ、生活のエアポケットに入るまで要らなくなる。ただ、この事情をマネタイズする漫画もある。この事情を経済に解放する。ただ少しちがう、なんでもないひとが事情を解放し、かつそれによって回す経済、事情を解放し、かつ家族もいるが、ドヤ的な世界観。そして表現も続ける。全人格を余すことなく使い切る人生。統合された状態。
赤ちゃんは体が自分のものだと気づいてない説。あれが社会人、という場所でまた起こる。切断され、それが当たり前だと。
もしすべて繋ぎたいなら会社もやめて好きにしろと放逐する。
そろそろ、それをしなくてもよいような素地ができつつあるのでは?という予感がある。
今でもできなくはないのかもしれない。

昨日かんがえてたこと。

ゴンさんVSネフェルピトー戦で、ゴンはピトーを倒せるレベル(年齢)まで強制的に成長するわけだが、吉岡実の「僧侶」でも、僧侶たちは「縄の切れる時代まで死んでいる」のである。
これらに共通するのは「(時間)まで」という表現である。
江戸川区のひきこもりが9000人いたという記事があった。

40代がもっとも多いのだが、これはもともと人口のボリュームゾーンなので多いということらしい。
では40代の動きづらさ、出にくさはなんだろうと考えたとき
介護や病気もあるだろうが、世間体、というのもある。
これはちくちくする、Tシャツのタグの位置みたいな、すわりのわるさ、いごこちのわるさ、として体験される。
わたしは平日にとれた休みに外に出ると、異物感がどうしても拭いきれない。

これがどういう願望を生むかというと、先に書いた「(時間)まで」願望、つまり怪しまれない年齢「まで」家にいる、という選択。
端的にいうと、怪しまれないおじいちゃんになる(なりたい)ということですね。
ここでのおじいちゃんは比喩でもあって、欲のない、人を攻撃しない(目線によってさえも)、つまりすべてを抜き去られたあと、というようなニュアンス、つまり欲望を漂白された姿として再登場を願っている、という矛盾した局面であり、これは強烈な葛藤をうみます。
怯え抜けというか、怯えられ抜けするというのか、怪しまれない年齢まで強制進化するためにひきこもってる人もいなくはないんじゃないか、いやそれが理由で100%引きこもるということはないにしても、1割程度は、そのような、ちくちくした違和感によって家に押し込められている、ということはないだろうか。

わたしはひきこもってた頃、記憶がとんで、気づくと60歳で孫がいて縁側にいる、というようなことはないだろうかとよく妄想していた。あれも思えば、怪しまれなくなる年齢まで自分を殺しておく、しかし実際自分をコールドスリープすることはできない(いや、コールドスリープしてはいけない。身体的な年齢が進まないと意味がないのだ)。このため、妄想では記憶が飛んで60歳になっている、という形でしか考えることができなかった。
記憶が飛んでいないほうの自分は着実に、何もしなくとも、60歳に向かっているのだ。

昨日はそんなことを考えていた。

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