見出し画像

メモ

最近何をしているか。
基本SNSやYoutubeばかり見てるわけだが、時々は自分のやりたいこともしている。数年かけて自分の研究?したいことがみえてきたので、それに向けての体制づくりをしていたのだと最近気づいた。
今は鈴木志郎康さんの著書の情報をExcelに打ち込んでいるところ。
鈴木志郎康さんの著書(『完全無欠新聞とうふ屋版』と『手と手をこするとあつくなる』は少し性質が異なるが、こちらも含める)は全部で53あり、うち『現代詩文庫』の新選版や『極私的現代詩入門』新装版等を省くとだいたい50になる。
ほとんどのものに「あとがき」があり、これをぱらぱら追っていくだけでも面白いものがある。初出情報は、「あとがき」に書かれていることもあれば、別に初出一覧がある場合もある。
あとは、詩集に限って発行日からみると、空白期間が長いのは、『遠い人の声に振り向く』(1992)→『石の風』(1996)→『胡桃ポインタ』(2001)→『声の生地』(2008)のあたり。
私は『胡桃ポインタ』の少し前の時期(1999)からインターネットで鈴木志郎康さんのサイトを見るようになった。そこにあった詩篇は『新生都市』『罐製同棲又は陥穽への逃走』『姉暴き』『石の風』等のものだった。
また、『胡桃ポインタ』の詩は、掲載誌に発表された当時の形で、詩集に収められているものとは違っていた(私がそれを知るのは10年以上あとのことである)。
また、祖母の家にあった昭和文学全集の詩歌集では、『罐製同棲又は陥穽への逃走』『家族の日溜り』『日々涙滴』『家の中の殺意』『虹飲み老』等からの詩が選ばれており、それらの詩を読んでいた。

あと、話は変わるが、鈴木志郎康さんの詩にある溺死のイメージ。少し気になっている。初期?には水死体とか崩壊死体などといった詩がある。このころは、まだずっと観念的に思えるのだが、後期?の詩篇では、非常に記憶や経験に近くなっている気がする。

老いというものや、そのなかでも急に現れる正確な描写や註釈に意地というのか、本質が垣間見えて、自分もこんなふうに(自分の身体や、出来事に向かって)正確な言葉を書き連ね続けることが可能なのだろうか、などと考えてしまう。

どの詩集だかは忘れたが、丸山豊記念現代詩賞の受賞の詩とか、「めんどくさくて書けない」と思ってしまう。自分の身体と身の回りのことを書いているようでいて、何かと関わったときはそれらを省略せずとことん書き込む執念みたいなものも残していて、それがゆるゆるとほどけていくような感覚を、2015年あたりの詩集からは感じる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?