0716

あさ。185→195。
195? いっきに10g増えるのはどうなのか
測り間違えたのか?
とりあえずペレットを1g減らそう
どうりでふくふくしてると思った。

あんた太ったね、なんでそんな太ったの、と田舎のばあちゃんみたいに喋りかけている(全部半角で喋ってる感覚)。
ケージを拭いた雑巾を洗って「静かだな…」と思ってみてみるとエレン(仮)が海を渡っていた。おそらくローゼとマリアの角から身を乗り出して。また「すいません、ちょっと家庭の事情で(会社)遅れます…」を頭によぎらせながらエレン(仮)を呼んで、全然来ないことにジーク感を深めながら呼び続けながら、わたしは彼の気をひかねばならなかった。ようやくフリーズドライのちっちゃい豆腐を掴んで無になったところを掴んで戻した。(豆腐をちらつかせて名前を呼ぶだけではほぼ効果はない。好奇心で歩き回るエレン(仮)の進路予測をして自分がその先にいてこその策(もはや策ではない)である)一応ケージ越しに、説教として、「めっ!」と言った。まあジルベールと山本耕史みたいなものである。

エレン(仮)は餌モード、遊び・探検モード、交流モードの3モードに分かれてると今のところはぼんやりおもってる。
交流モードは餌と探検、夢中になるものがなくなって初めて可能になるようなイメージ。だから目を細めてあごやお腹をさすられるのは夜寝る前か朝出かける前になる。
明日か明後日にはマーレ(サークル)が届くのでまた関係が変わってくるかもしれないが、今のところは自分はそんなイメージで捉えているな、とおもう。(すでに疲れたが)しごと

他者と生きるは関係論的人間観(これは磯野さんの策定した概念らしい)から、分人についての議論へ。ただ人類学的な分人と、平野啓一郎の分人との区別などについても書かれている。詩のクラスタとしては、関係論的人間観を読んでずっと頭によぎりつづけるのはやはり宮沢賢治の春と修羅の序であろう。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

宮沢賢治「春と修羅 序」冒頭部分
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.html

ここの「現象」とか「仮定」というのが、「個人」を仮囲いしているような部分であり、宮沢賢治自身はどっちかといえば、交流の中にあるひとつの照明(ひかり)になって、その形骸としての電燈≒個人という概念は「失はれ」ると書いている。個人的にはこういう発想に、この当時に、人類学的な知見なしにたどり着いていて、しかも非常に端的に、それこそ「詩的」に書かれていることに毎回痺れるわけだが。というか宮沢賢治には個人と関係を概念として捉え、さらにそれを詩的に?相対化するような視線があった、と考えたほうがいいのかもしれない。というよりこの序はこの詩を書く「わたし」というものの捉え方、また詩の内容や適用範囲(時間、空間的な)などについて書かれていて、相当な自信のようなものが謙虚に認められているといった雰囲気であり、このとき(たぶんちょうど100年前ぐらいか?)にここまで射程を考えてものが書けるのがまず凄いなぁと思ってしまう、時間ないので仕事。

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