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メモーん

朝。仕事までちょっと時間あるのでバーっと
なんか科学の「人間が見ると観測結果が変わる」みたいな話は
神秘ではなく
極小のものを見るときは電子顕微鏡なので
飛ばした電子が影響してしまうみたいな話と
ネットの文章の影響は似てる気がした
それはお互い様とか
インタラクティブとかいうのと違って
結構
(私の感覚的には)一方的なものだ
黙ったまま弱肉強食に噛み殺されることもある
これは言葉の一節に自分への当てつけとか、あるいは自分の影響を感じてしまう人とそうじゃない人の違い
かもしれない
でも
それは現実に戻る福音なのかもだけど、ただ
もう
そこまで戻る現実がネットと切り離せない今
どうやって痩せ我慢するか
「心の底から」という比喩に
ずっと
手を切れないまま


最近ずっと投稿せずに溜まってたやつをドカドカ投稿してみたら、気のせいだろうけど、なんかスッキリした。7月の中旬ぐらいから、仕事に出る前の時間でバーっと書いたやつである。投稿したら最初に書き始めた日時になるかと思ったが、現時刻になるっぽいね。不親切ー。

最近は何をしているだろうか。負けヒロインと推しの子を見ながら鈴木志郎康さんの書籍をめくっている。読んでいるとはいえない。
最近本を読む集中力がスマホ脳なのかどうしようもない。
三宅香帆さんの「働いているとなぜ本が読めなくなるのか」みたいな本じたいを読めていない。これは集英社新書のサイトで連載の1〜2回目まで読んでて、そのあとふと気づいたら「本になりまーす」ってなってて、そんな感じです。
「ライティング・スペース」も読んでて気づきのある本なのだが、なんかちょっと昔は移動するたびに本も抱えてたのに、最近はそれもしなくなって、ずっと「ライティング・スペース」は寝室にある。
マクルーハンの「グーテンベルクの銀河系」然り。もうなんか興味関心がとっ散らかって、今生でどうにかなるものとも思ってないって感じになってきて、かといって一点集中みたいなものへの憧れはあって、そのへんで葛藤っていうか、「本を出す手つき」のようなものをいっぺん覚えておいたほうがよいのではないか、そういう吐出口を今もっておかないと、いつ南海トラフ地震がきて自宅の蔵書が全部ダメになるかもしれないし、交通事故でいきなりとか、なんにもなくて仕事してて急に足がなんかグキッてなって厳しい…とかホント色々あると思うので、そのへん早めに行動していきたいのだけど、本に固めるにしては私はこういうところにだらだら書くのに慣れすぎて、どういう水準の文章を本にするべきなのかいまいちわからないのだ。

一回、InDesignで組んでみた図版?のようなキャプションをつけたものを、家のプリンタで印刷してみた。出てきたものを見ると、思ったより本…って感じがして、いける気もしたのだが、それが6月か5月かぐらいで、もうそこから3ヶ月経って、あのときのいける感触ももう残っておらず、本にする端緒をまた失ってしまったような気がする。鈴木志郎康さんの詩集のあとがきとかみると、詩集が出るのは嬉しいってよく書いてて、じゃあ俺もやってみてえってなるけど俺って詩なんか書いたことないしなぁって気分になって、合評のときとかみんな書いてきた詩を詩集に入れててそんなにガチだったのかと驚いたけど、鈴木志郎康さんも発表した詩はほとんど詩集に入れてるし、ガチ勢の詩作者は常に詩集に入れても大丈夫なぐらいな詩をいつも書いているのである。
私はとにかく間に合わせに詩を書いて持っていってたので、そんな概念まったくなかったので、自分が詩を書いたという記憶が今のところ一度もない。現代詩フォーラムのアカウントにも自由詩のカテゴリで書いているものがあるのに、それを詩集に入れようなんて考えはハナっからなかった。だってあれ詩じゃないもの。
じゃあ詩ってなんなのかっていえば、納得できるかどうかというか、なにかしらの自分の水準に達しているかどうかで、それはうまくできているかどうかってことになる。
でも、そういうのってどうなのっていう気分がある。あと紙の余白が気になる。あと、自分にとっては意味があるけど他人にとっては意味がないという感じがとても強い。そういう状況で子供産めますかって話である。
ビート系の詩人といって、なんか今読むともうなんかいろいろ厳しい詩がある。自分が詩を書くとおそらくこういうふうになるだろうなっていう見本のような詩である。なんか、こうはなりたくないなってすぐ思う。
といって、何かがうまくいっているような詩も書けないし、ちょっと綺麗めな自分を残すような詩もいらんし、苦しみというほどの苦しみもない。
あるとすればこれからの不安である。
足腰とか目とか筋肉量とかで、軽く吹き飛ばされるような体になって、「ほぅわぁ〜」とかいってコケて骨が折れて死ぬとか、すごい小刻みに靴底を擦りながら歩いて家までたどり着いてすごい尿臭がするとか、目がよく見えなくてApple Vision Proが使えないとか、おちんちんたたないとか、うんちがでなくていきみすぎて貧血で目の前がじんわじんわして救急車も呼べないとか、そういうさまざまなことがらである。
こう書いていると、自分は、詩を今のことを書くものだと勘違いしているのだなとふと思った。だから、先の不安は引っ張ってこれないと思うのだ。
でも、それも詩になるとしたらどうだろうか。
といってもそればっかりではあれである。
なんかそういうことを象徴する柱的なものを一本立て、それ以外にも何本か柱を立てるようにする
バラエティである。記憶のほうは悪いけど、不安のほうははっきりしてきている。記憶は映像記録によってずっと懐古反芻のターンに突入していて、昨日一昨日も爆風スランプがThe First TakeでRunner歌ったりしてたからまたYoutubeで懐メロ見るマンと化してしまって、もうどうしようもない。
将来の不安は市民だより的なものに符合するものがないか調べるが、60になってからこいや!みたいなやつが多くて困る。
まじで中高年というのはいったいなんなんだろうと思ってしまう。鈴木志郎康さんのこれぐらいの年齢というのは『家の中の殺意』あたりから、『石の風』あたりまでだろうか。
「家族を確保しておくべきだった」という言葉が出てきたい。でも、家族と私はコミュニケーションがうまくいかなかった。私も受け取ることができないし、発することもできなかった。表出の困難を抱えたまま、縁が切れてしまった。私はどうしてもそうなる気がして、家族は無理だ、と思う。
まあ実際ここまできた。
戦略である。どう生き抜こうか。どう生き切るか。
いやー、楽しいことがあってほしいね。仕事は少し早めに辞めて、今ある本を読みたいね。読むのかは知らないけど。クルーズ船とか乗りたいね。おうちが勿体無いけど。誰かに貸したりして。どうなるんでしょうね人生。
楽しいってなんなんでしょうね。幸せとかも




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