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あさ。今103ページ。「心理臨床」と「臨床心理」はどう違うのかというところにきて、なんか、そっ閉じした。

以前、ユーキャンで、資格の資格をみてて、受けれそうな精神のやつを調べてたら、もちろん役に立つランキングや、自分に要るかどうかも加味して判断したのだが、まあ大学的なものを出てないというのが結構響いてるとこがあって、まあ大学か、福祉系の専門学校的なところか、実地で何年かやってないと厳しい…みたいな資格が多くて、結局わたしがチョイスしたのはメンタルヘルスマネジメント検定だった。

まあ、よく考えたらマネジメントってついてるから仕方ないのだろうが、まあとにかく会社と産業医と外部リソースを繋ぐんだと。
あの手の資格の本特有の、よくこんな内容で300ページぐらいもたせられるな!?みたいな逆驚嘆みたいな、もうとにかく会社のその担当の人と産業医と外部リソースをつかってなんとかするんだと。
あとは時々椅子に座って深呼吸するんだと。
俺の求めたメンタルヘルスマネジメントとちゃう…
いや、でも、これが「現実」というものなのかも
ある意味オープンダイアローグ的な、繋いでみんなでやったら良くなる的な発想だし…。
でも違うなーー。
何が違うっていうと、こう、「スタンドプレイ」ができない感がひどいです。
俺はドリブルがしたいわけであって、「こんな人がいたらまず話を聞いてそれから産業医にかけあって外部リソースがありますよーってやりましょう」ってほとんどパスのアポイントをとるみたいなことをえんえん300ページ書いているわけであって、いや、俺は俺が精神をやられた人間をドリブルしたりファウルしたりしたいんだと。

そして最後にへいパス!と産業医や外部リソースに渡すのだと。

要は、察知するときの「こういうタイプはこうくる可能性があるので肘をきめる」とか、なんか嘘でもいいから、そういうわけのわからない民明書房みたいなやつでいいから、そういう個人のドリブルの知見みたいなやつを参考にして、勝手にスタンドプレイして「何やってんですか!」って怒られてしゅん…とするところまででワンセット。それが人生。
て、ていうか、ブラックジャックによろしくもそうだったし!
いや、あいつはしゅんとはしてねえな。
ずっとスクリーントーンに傷が走ってるだけだな。

まあとにかくスタンドプレイ、トリックスター、勝手な診断や決めつけ、ドリブルをやりたかったわたしにはメンタルヘルスケアマネジメントはおもしろくなかった。
「はいはいまた産業医と外部リソースね」ってなってきてもうだんだん心が死んでいった…

言ってることはわからんでもないが、ときめかない。

この上司はてんかん気質だな…?とか勝手にひとりで思ってる素人のくせに、とにかく越権行為がしたいのである。出過ぎた真似がしたいのである。というか、そういうポジションを得たらやる。絶対にやってやるぞ!

とはいえ、問題はそうじゃない。

メンタルヘルスマネジメントの問題の根本は、この、料理番組でいえば「まず、まともな大人たちを5人用意します…」的な、平然といってのけるような雰囲気がもうまじ無理!なのである。
そもそもまともな大人が5人も揃うわけがない。ロイヤルストレートフラッシュの確率を知っているのだろうか。MAXの牙狼がどれだけハマるかご存知だろうか。3000回転とかふつうにハマるんですよ?

というわけで、そもそもが、この、当事者がいて、メンタル担当社員的な人がいて、つなぐための産業医や外部リソースがあって、っていう構造とその繋ぎ方ばかりをいうけれども、ここの代名詞的な箇所に実際に揃う人たちによって色々変わってくる要素が出てくるので、それをお互いメタに把握しあって空中戦を行うロマンに乏しいのが、メンタルヘルスマネジメント検定をつまんなくしている。

産業医が社長に「お金をあげてあげてください」とか命令できるんだったら面白いけど、そうじゃないでしょ。だから面白くないのである。

とにかく、わたしは徒手空拳かつ無手勝流で精神の流れを感じながら「ああ、これは○○だな」とか「この人は見た目の明るさの割に自尊感情が異様に低いな…積極奇異型で失敗を繰り返してきたか」とかって、もう勝手にやりまくっているのである。そういう人に自分なりの話し方をするというのか、シンパシーを感じながら、自分のそういうとこと照らし合わしながら喋る、というやつをすると、ちょっと相手も私も元気になるということがある。まあ、ひとりじゃないな、と思うというやつをする。
また、ひとりのときだって、自分のいままでの人生をアテにして、ああ、もうちょっとここがこうだったら長崎の事件の子だったな…とか、宇治神明校だったな…とか、神戸のあの事件は自分だったかもしれない…とか、そういうことを内省し、彼らと何がどう違ったのか類推するためのツールとして使ったり。

わたしにとっての「精神分析的」とか「臨床心理」「心理臨床」といったものはそのような使われ方をしていく。わたしの言葉でいうところの「精神のやつ」と総称している考え方の連関やプリセットのこと、またちょっと遠いところまでエンパシーをリーチさせるためのツールとして。
要は何段階か弾かれた心のあり方(遠くの方、はずれのほうにある、流された)の、弾かれた箇所や原因を推測し、なぜそうなったのかと、それを考えても仕方がないから、もうそこに心がいってしまった、離小島にいってしまっているような感じを認めて接するようなことを同時にやりながら、自分自身のそういうところも同時に探っている、ということをやってるのだと思うが、これは人間のふつうの、というと語弊があるけれども、そもそも人に接するとか喋るとかというのは、割合は違えど、このような体験の総体である、みたいな理解で今は生きているなー、と思った。だからなにも難しいことをする必要はないし、それに、わたしはへただな、と思う。
プライドが変に高くて孤立しやすい。
でもまあいっか、というのが最近。
しごと。

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