0610

あさ。賞与である。わぁい(ペーター)。自分へのご褒美、なににするか。
ドラム式洗濯機とかだろうか。
しかし、賞与ぐらい何も引かずにくれないものだろうか。せっかくこう、きちっと金額を揃えてくれてるのに、なんか引かれて中途半端な額になってるのが、うつくしくないというか…むしろこの額だけきちっとして他の月に按分したらしたで私はまた逆のことを言い始めるのだろう

…詩集を作るのって、いくらぐらいするのだろうか
詩集百万円問題というのがあった気もするが…

きょうび、私家版、個人誌、あるいはPDF、EPUB、SNS、ブログ、noteとか
いろいろある世界で、詩集にする理由。
物理的になんとかしたい、あと自分の見えない視界にばらまかれてる感がほしい。簡単にいえば生み出したいってことである。
検索するとHMV BOOKSとかで上がってきて、なんか、実際はもう全部ほかされてて、もうこの世界には実は存在してないんすけど、なんかワンチャンあるかも…と思わせる気持ち。を、欲しい。
そうなってくると、別に誰かに何か影響を与えたいということでもないのかもしれない。
個人的には、詩は鈍器であって、やっぱり会社に行くつもりだったのが海に行ってしまった、みたいな、そういう行動変容を促すものでありたい。
なんか言葉が輝いてるとか、己の生を賭けて言葉と格闘した痕跡が…とか、実存的かつ現象学的な…とか、そういう話は要らない。
感動もいらない。よかったもいらない。
笑えるとか、ぬけるとか、ああ、でも、やっぱり会社に行くつもりが海に行くやつが一番いいなー。
でもこれも、内陸部に住む人と沿岸に住む人とでハードルが違う。
ある人にとってはずっと行かなかったソープに行って素人童貞になるであるとか、タバコを吸うであるとか、アナルになんか突っ込んでみるとかであったり、告るとか、そういうことであるのかもしれない。

そういう意味では、電子的なやつは生み出したかどうかでいうと、ちょっと疑問がある。まあ電子的なやつでも、海には行かせれるかもしれないが、こっちの問題として、「生み出した」とは言い難い感触が残るのである。コピーが、鈴木志郎康さんの詩句からとれば「希望が飛んでいる大伽藍に入っていくような気持ち」に似ている。いくらでもコピーできるデータがサーバー上を飛んでいるのであって、これを定位して物理的に出すということがしたい。それはとりもなおさず青い鳥のまだなってない魂の居場所のようなものを確定させるという意義がある。
確定するための儀式、区切ったり固めたりするために編集や校閲などの機関があり、公証するためにISBNをとったりするようなイメージ。
崇高に考え過ぎて何もできない。
まあそういう人生もある。



一冊からでも本を作れるみたいなCMもやってる気がする。ラクスル、製本直送.com、BCCKS、まだサービス内容詳しくみれてないが、いろいろある。
売るにしても、BOOTHとかSTORE(STORES?)、BASEとかもある。文学フリマもある。どっか本屋さんに営業かけて置かせてもらうこともできるかもしれない。しらんけど。

作るとき、寄り添うか寄り添わないかの違い、とはいえるのかもしれない。で、その寄り添いも「いうほどか?」という側面はある。

まあ、そうやってがっかりさせてきたり、インフラや物流や情報通信技術の発展向上が個々人の意識変容をもたらしたのかもしれない。

あなたが噛む意味、あるの?と。
あなたがいたからこそできました、といえるほどのものになりましたか?
なってますか現状?
あなたのふところ事情、あなたの経済圏をなんとか回すためだけにやっていませんか?

なんか、そういうことを延々やってきた結果、詩集の自費出版はシュリンクしまくってったのかもしれない。

これは結局、人を助けるということの仕方を、日本にいる人がそれぞれうまく思い出せないみたいな感じの問題のような気がする。
手つき、端緒、欲望、きっかけ、衝動
…暴力?
みたいな。

たがためいしに、援助希求性という言葉があった。
わたしも上司に「孤立はするなよ」と言われて「好きで孤立するやつがどこにいるか、孤立に命令形なんかあるかよ」と思ってムカついてた記憶が蘇ったが、孤立をひとりの力でやれるわけがない。

「人はひとりでは生きていけない」という言葉がめっちゃくちゃ嫌いで、なんかむしずが走る。こういう言葉で何かを言った気になるのが一番怖い。
「働かざるもの食うべからず」的な、気持ち悪さを感じる。

べつに、人はひとりでも生きていけますよとか最終的に人はひとりなんすよとかいうつもりはなく、これを言うんだったら逆に「人はひとりで孤立できない」みたいな言い方にしてもっと助けてやれよてめー馬鹿野郎と思うのである。
「人はひとりでは生きていけない」の「ぴしゃっと感」が好きではない。
ぴしゃっと感のある言葉はほぼくそである。
働かざるもの…も、ぴしゃっと感の代表格である。
人はひとりで孤立できない…あぁ、そうだったね、という感じで、思い出すように手を差し伸べるならまだしも、人はひとりでは生きていけない(ぴしゃっ)働かざるもの食うべからず(ぴしゃっ)と門戸門扉閉じまくりの世界で、援助希求性が乏しくなるのは当然っちゃ当然な気もする。言ってるそばから行動に結びつかない結句ばかり吐いてたら「だから?」と思われるのだ。そういう人間に対して、ひとは内心すこしずつ離れる支度を始めるのだと思う

自分がつくったものを大事にしてくれるだろうか? よりよくなるように寄り添ってくれるだろうか、と考えた時、あなたは選択肢に入るほどのものですか?



信頼感、つきあい、エンゲージメント、なんといっても構わないと思うが、それによって逆によくないものができる可能性だってあるわけである。
「手は添えるだけ」ですーっと作者のやりたかったことをスムーズに取り付けていくサービスと、編集やアドバイス的なこともやってくれるサービス、そこに付随する一回性、腐れ縁や恩義、そういうものから離脱して俯瞰的に、無印とPROとEssentialのサービス内容のチェックマークを確認して一番いいのを頼む方法、どっちがいいともいえない。
昔は弁士も漫画の版を彫ってた人も俺の味を信じてたわけであるし、昔は作詞家と作曲家がいて歌う人がいたのである。全部自分でやったやつが高精度でそのままお客さんに届くというのもつい最近も最近のことである。
かと思ったら、もうお客さんは小さい画面とかで見たり、画面も見てなかったり、なんか電波悪くって1〜2分粗い画面が続いても、そこをもう一回いい画質で見直そうとは思わなくて、むしろ倍速とかでいこうとするわけである。
ひとりで描いてウン万いいねの人もいれば、数百人単位で作った作品を倍速低画質で家事しながら耳で聞いてるだけの人もいて、でもまあ昔からたぶんそんなもんである。やっぱりコロコロコミックは全ページ読んでなかったし、時期がきたら全部捨てるし、新聞はなんかこぼれた水を染み込ませるし、割れた茶碗をくるむし、なにがどう扱われようと、生み出した以上、こっちはもうどうすることもできない。なんか、世界にある、あったっていう感覚を、自分が死ぬまですら覚えてられないかもしれないけど、なんかそういうことを思います。
まあ人が働いて稼いだ金をどう使おうが勝手なので、できるだけいいことになりそうなほうに振り分けるっていうだけの話ですね。
その選択肢に入るか入らないか。
入ったらラッキー。
生み出されたら、あとは世界に任せる。
一応はなんか世界にばらまけるようにするけど、疲れたら休む。
起きたらまたなんか思う。そしてやる。
その繰り返し。
そして死ぬ。

ふとおもったが、今までで買った一番高い本は25万円である。
エンディングノートにも、真っ先にこの本のことを書いた
「これはめちゃくちゃ大事な本なので、捨てんとってください」的なことを書いた。

やはり本というのは世界中でゲイン待ちされていたり、誰からも期待されてないものもあり、それはやっぱり人でも同じことである。
でも生きてる以上人がそう思われてると思うのは忍びないことである。
というか、なんか悲しいよねって感じである。
しかし、大阪行くときの電車とかで屋根やビルの数やアンテナの数、遠くにみえる山を切り開いて作られた住宅地みたいなとことかを見てると、もう想像力は絶対に追いつけないのもわかる。
身近なところからコツコツやるしかないのかな、とも思うが、思いようもない場所のほうが確実に圧倒的に大きいのはわかる。
まあそこでへこたれてもへこたれなくてもどっちでもいいけど、
どうしよっかなー、とは思う。
富岡多恵子さんは、富田林で彼氏と電車乗ってて、景色見てる時に詩を書くようになったみたいなきっかけだったかと思う。
富田林といえばPLの花火である。
パーフェクトリバティとは何か。
パーフェクトリバティ教団とは何か。

まあ、人の細胞というか、原子というか、素材もゲイン待ちではある。だれもかれも微生物さんとかに心待ちにされているとおもえば少しは気が楽である。できれば、同じように機能してるあいだのひとにそうあってもらいたいとは思いはするものの、それがすべてではないことも確かだとどっか心の隅には残しておきたい。で、それを詩集にしたい。それが会社から海に行ってしまう詩集なのだとおもいます、しごと

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