わいの平成詩史21

ピゴー
隣の部屋からさんま御殿のワイプの音が聞こえる
母と弟とさんまの引き笑いが聞こえる(母と弟は引き笑いでなく ふつうの笑い)
その隣の真っ暗な空間でわたしはインターネットをしていた。
わたしが平成にネットで詩を読んでた というのはそういう状況下においてである。

わたしは関西風にいえば家庭内で「はみご」にされていた。同じ空間にはいるのだが、存在は抹消されていた。父はすでに元祖はみごにされて耐えかねて家を出ており、2対1でわたしははみごだった。
(最終的に弟が家を出て、わたしが家を出て、母が最後まで残った。その家はずっと父名義だった、と思ったら祖母名義だった。祖母は優しい人だと思っていたが、ずっとわたしの両親から借家の賃料を取っていたし、風呂の設置を認めなかった。自分の家に入りに来るようにしていた。祖母は優しいわけではなく、大正の人間だった。)
母と弟は東野圭吾とかで仲が良かった。だからわたしは東野圭吾は絶対に読まない。
今となっては乾いてしまっていてほんとどうでもいいことなのだが、もう東野圭吾は読まない。

ひきこもりといっても、部屋ありひきこもりと部屋なしひきこもりがいる。
というか、ひきこもりにも千差万別といっていいほどの違いがある。
定番のふつうのよくあるひきこもりなんか、逆にいないだろう。
目にパソコン画面が映って、暗い部屋に閉じこもってるような感じの人。
いるのかもしれないが、わたしは部屋がなかったから、家にはひきこもっていたが、部屋にはひきこもっていない(物理的に部屋でひきこもれない)ひきこもりだった。
ある意味、檻のない動物みたいな状況だった。
そういう檻のない動物にとってのネットとか詩というのはパァーっと光ってみえた。

手軽に「作品」に会えるのは、ネットで、詩だったからであって、まだ画像とか動画も厳しい時代だったし、小説はわたしが無理(長いの読めん)だった。
だから、わたしの19とか24ぐらいまでは、ほとんどが家にあった古い本とか漫画、深夜テレビでやってる映画とアニメ、ネットの詩、という感じで文化と接してたことになる。
音楽は、親の買ってたCDとか、うっ記憶がとかである。

本来であれば、いやさっき書いた通り 本来とかなくて、そんなきっちりふつうに大学謳歌してる人とかいないのかも知らんけども、けどやっぱ大学とかで謳歌して、いろんなものに興味の赴くまま接した人たちよりかは、わたしはひじょうに窮屈というか、管見ぼくのまちになりがちなまま青春っぽい時代を過ごしたことにはなると思う。その差は当時のネットでも感じてた。好きなものを好きなように浴びれない自分というものを感じてた。気がする。

ネット詩というもののムーブメント、そんなものがあったのかどうかは知らないけれども、仮にそれについて考えてみるとき、インターネットのカリフォルニア思想というか西海岸思想的なもの、つまり開拓してたどりついた最果てとしての西と、最果てとしての(極東としての)日本。
また、インターネットの思想とは別に、日本の戦後教養主義とその冷却の流れを援用して語ることもできるかもしれない。
つまりわたしたちは実存かけてやってるようにみえるかもしれないけど枠組みとしては戦後の文化教養主義の中で捉えれるかもしれないという話である。その教養の種類というもののなかに詩歌やその他の文化的なもの、サブカルチャーがはまりこんで今を形成している。
楽しむことより、どう生きるかなぜ生きるかということに親和性が近い人たちにとって、詩歌や哲学や芸術は向いている。えっちなのはいけないと思います的な感じ。まじめ。
これは何か社会というか何かよくするぜ的な、そのために勉強に励んで自分を磨きこころざしを高く持ち生きる、というなんか教室でちょっとけむたがられそうな感じの、先生としか喋れない系の人っぽい感じの、その卵が先か鶏が先かみたいな性格をした、真面目なうまくいかない人たちっぽい属性があって、それはずっと続くのだろう。
かれらは昔から今にいたるまでずっとおり、それの配属先が時代によってちょいちょい変わってきてるだけ、という話なのではないか?
詩というところに(自分で)配属されてきたけれども、この人はひとむかし前であれば勤労青年として人生雑誌を読み耽っていた金の卵みたいな人だったのかもしれない、というふうに考えてみると、なんか今ネットで詩を書いてる人のうちのあるていどについて、私はとても納得がいってしまうのだ。

情熱は冷却される。
結論で生きてきたはずなのに、いつの間にか配分で生きるようになってしまっていた。情熱を維持できない事情というものに配分するから、結局結論には辿り着かないけれども、それでいいや、もういいや、そういうもんか、などと思う。
結論みたいなものにたどり着く人はごく一部である。
戦後教養主義もインターネット詩も基本的な構造はそれであると思うし、敗因がもしあるとすればそれは真面目すぎるということだろうか。
裾がいつまでも真面目に結論を追い求めたりするからややこしい話になるのである。それは生きるとは?とか実存がとか言いすぎるからよくないのかもしれない。なんか根っこすぎてしんどいのである。
もうちょっと陽キャが要るし、パワハラ体質をやめるというのも要る。
ネットで詩に関わる人は(あるいは学術、文化、出版関係の人全員は)ハラスメント研修とコンプラ研修をまず受ける、受けてからなんかいう、とかにしたらいいのかもしれない。
あと、まずいのは、言葉というもののあやふやさの中で安穏としてられるという環境の悪さもある。



結論を追い求めていたあのころ、だれしもがコロコロコミック全巻揃えるッ!と小3のとき息巻いたけど中1ぐらいで限界を迎えるみたいな感じで、人生は結論ではなく配分なのだと悟るものである。
つまり配分というのは乗り換えも意味する。コロコロからジャンプへ。AからBに配分し、BからCへと配分し、Aを切る。そのようにして別れることも意味する。結論というのは最初から包含して最後まで包含し切るという無理な雰囲気のやつである。
ボンボンのやつは精神破綻をきたす。

ただし、これは賭けである。
配分か結論か。
コロコロコミックを捨てた中1の夏。
それから24年。俺にも家族ができた。ふとスマホでヤフーニュースをみるとコロコロコミックをずっと集めてるおっさんが部屋の床に敷き詰めてすしざんまいみたいなポーズを決めている。
「ああ、俺にもこういう人生もあったのかもしれない」でもいいか。俺には妻と子供がいる……。

これは配分に生きた男の物語である(すべて架空の話です)。

現実のわたしは、コロコロコミック全部捨てて妻も子供もいない人間である。
もう配分にも結論にも辿り着けない細い山道の途中で、また「なんか違う」とおもって、ずっとキコキコとフリードを切り返して方向転換をしようとしている。どうせ何十回、何百回切り返して方向転換して公道に出たところで、そっこう正面衝突事故を起こして死ぬ自信しかない。

これがネット詩である。

(つづく)

2022/11/13
2023/2/15よみかえす、何が書いてあるのか意味がわからない

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