メモ(撰集イメージ)

ネット詩アンソロジー

頭洗ってるとき考えたのだがやはり最初にもってくるのは大覚アキラさん(この名前も、知らない人からしたら"AKIRAの何かですか?"と思われそう)の「…欲望の輪」がいいかもしれない。なんといってもインパクトがあるし、詩って感じのギュッとした感じや発想、着眼点、なんともいえない無常もあって、最後はなんかちょっと光も見えなくもないような感じが最初にガツーンくらわすのにちょうどいい気がする。
あと、なんとなく選んでるときの選定基準として、静的安定度、とテキトーに呼称したけど、要するにアンソロジーにしたことでそれそのものが動的に動くようなことがないことがある程度推認できる、みたいな感じの「度」。
これは意外とネットの詩でアンソロジー作る際重要な尺度な気がする
これはみんななんとなく配慮してると思うが、著作権の絡みとかとはちょっと違くて、不安定な放射性元素の半減期というのか、量子物理学の重ね合わせとか、観察者の問題というのか、なんかこう、すぐ消えそうな詩とか、こっちが働きかけると動いてしまう感じの詩はあんまり選べないし、最悪ブチギレてくるとか死ぬとかいう可能性もなきにしもあらずなので、長くそこにあって、作者と作品の場所が定位安定してそうなやつから選ぶのが吉というか無難、みたいな作法がそれとなく身に付いてる気はする。それをあえて一歩ふむかどうかみたいなのはときどき思う。まあそういうのは個人が保管して個人で楽しむぶんには良い、というどっかで聞いた法律の範囲で楽しむべきであって、まあそんなのわかってるけどめんどくせーけどいい詩なんだよということもある。つまり勇気とかパワーの問題である。
まあだからどっちかというとWEB1.0感が漂うところの作者がもう作者どぅえーっすてなってるぐらいのやつがいい。
でもそうなると骸さま(幽遊白書)みたいな真の実力者?はハレとケでいうところのフォーマルな場におかれましては本来の実力の1/3も出せないから選ばれなくなるのでそのへんむずかしいけれども、いつの世もまあそういうもんなのでしゃあないという気はする。そこは伯楽と千里の馬の関係で永遠の問題だから奇跡とタイミングを待つしかない。というかたまに個人としては流星のように見つけてるわけだからそんならそんでいいじゃんとも思う。以上のような事であるから「作品」として構えてやってあるやつはわりと多めにとられるし、逆にエモーショナルな最大瞬間風速なやつはとれないという感じになる。書いてる人間側もエモーショナルと投稿のあいだに操作や計算はある程度するもんだと思うのでそれがなくて最強のやつがあればそれがほんとうに最強なんだろうけどそういうのは身を滅ぼしやすいというか心滅牙狼みたいなものなので長く続かない。そして長く続かないものは流星になる。そういう仕組みであると理解している。そして流星が消える前にコピペして腰の巾着袋にとらえるのである。そういうのは個人的なアンソロジーとしては楽しめるし、パートナーがいればそやつぐらいには見せれるかもしれんが、全世界にべぁーんと公開することはできない。紳士協定である。いや法律か。ただ、映画の二人乗りシーンみたいにやっちゃいたいときもあるけどやらない。いやどっかでやってしまってるのかもしれない。もしそうだとしたらすまない。
だいぶ話がそれてきたが、もどそう。
もう一点、選出に関して。わたしの理解の限度を超えているやつは選出できないという問題もある。つまり「現代詩ぃー」って感じのやつとか、難しすぎる抒情詩とか長すぎる詩はわたしにはまったくわからない。
「なんかある感じがする」「なんかいい感じがする」と思いながら読み返すような難しい詩もあるにはあるけど、もう何年かかってもわからないし、むしろ読んだときに自分が受ける印象によって自分の今日の運勢を占ってるだけのような気もしていて、ようはわからない詩はわからないなりに読んでその反響具合で自分の具合を知るといったような使い道をしているから、客観的にここがどうとかはあんまり言える自信がないし本読みでも映画見でもない。何も知らない。
これらは別の適任がいると信じて、選出しないだろう。
へたにそういうのを選ぶと衒学的なだけの軽薄なやつをまちがって選びかねないし、そういうむずかしい詩を読むとき、わたしはまず評価してる人のラインナップを見てから「ここにはなんかあるんだ!」というあたりをつけて読んでる事がほとんどなので、わたしが自力で読める詩なんて本当に限られてるし、しれてる。
だから、じつのところ、自分がいいと思ってるわけじゃないのですね。
ある人がいい詩を書いていて、その人が評価しているちょっとよくわからない感じの詩もじゃあちょっと読んでみようかとか、朝起きたとき妙にアンニュイで「あ、今、この感じだったらいけるかも」的な感じでチャレンジしてるけれども、そういうのも結局、実は前提知識がいっぱい要求されるやつかもしれないので、そういうのはわかる人というか、知ってる人ほどいっぱい味わえるのだろうから、他に適任者がいるよねとはいつも思う。
だから、わたしが選べるのはインパクトがあってみんながある程度詩ってこういうもんだよねっていうぼんやりしたコンセンサスをわたしが勝手に汲んで選んだわたしが好きなインターネット上にある詩、というふうになる。
これがわたしのネット詩アン、ソロ、ジー!である。

たぶんアンソロジーで、というかネットで詩の検索してたらたぶん結構な確率でぶちあたるcase(香瀬)さんのネット詩の受賞作品プラスアルファのやつとかもあるので、そちらも参照するよろし。あとはなんか露…みたいな文字がついた人、露崎さんだったか、そういう人もそれっぽいメタっぽい活動をしてた気もするけどよくわからない。

caseさんという人の選出作品リンクです。

これがさっき言ってた露なんとかさん、露崎さんですね。名前はなくてハンドルネームで「露崎」だけでした、露崎さん。現代詩フォーラム50選の(1)と(2)。

あとは批評祭? 現代詩フォーラムからは切り離されて黒とオレンジのブログをベースにしたサイトがあるけど、あのあたりもある意味アンソロジーとしての機能を果たすやもしれぬ。。。

このへんでなんか読みたそうなやつを読んでいったら楽しい人もいるかもしれないですね。


あとは、このpoeniqueのアーカイブのフレームのここだけとか。

結構リンク切れてるけど、読めるのもある感じ。


話は変わるけど

鈴木ゆとり(ともちゃん9さい)さんの詩会でのコメント。

頭でかじゃまな不自由を今年中に何とかしたい。ひとりごとがTHIS IS POPな球体でたまたまはねかえるって面白いね!オザケン思ったよか顔ふつうだった。新譜楽しみ。

http://web.archive.org/web/20050222135149fw_/http://poenique.jp/kotodama/sikai2002.htm

彼女が亡くなった後に小沢健二の彗星が出て、このコメントを思い出してた。あと小山田圭吾が炎上したときもなんか、うっすらおもいだした。

なんか前から、いとうさんが必ずほめて下さってたので、私はそういう職業に就いた方がいいのかしらと思ってました。詩人に宛てる言葉は詩人でやるということで、本当は言いたがりなんですが、一言ににきにきこめこめてます。

http://web.archive.org/web/20050222135149fw_/http://poenique.jp/kotodama/sikai2002.htm

「にきにき」という言葉が好きなのは、このコメント読んだから。でも私はにきにきできなかったなぁ。

詩は凝縮とか圧縮とか削ぎ落としだというところになんかすごく反対したい気持ちというか「削ぎ落とされたほうはどうおもうんですか!」みたいなリベラルが心の中にいて、でも言葉を読むほうの立場になってみても、書く立場になってみても、やはり限度というのか、書き切れないとか、読み切れない、あとやっぱ原理的に「全部」は書けないし、全部削ぎ落とさない文章、分割しない文章というのはあり得ないというか、ふつうに考えて、削ぎ落としたほう(おからとかパンの耳)を集めました〜ってやっても、いや、その逆はどうするんですか、いや、その逆の逆はあんたどうすんのみたいな感じになって、ちりとりでとれない最後の線みたいになる砂みたいなほこりはやっぱり靴底で散らしてうやむやにしたりするんですけれども。
それに対するアンチテーゼというか解法として、一直線でストレートに撃ち抜くアプローチというのが逆に詩というものだという考えもわかるんですけど、というかそれはかっこいいというか憧れるし、「まさにこれ」「ほんこれ」「今まで言葉にならなかったあれ」みたいなのを一発で言い当てているかのようなやつはやっぱ痺れるものがあります。
じゃあかといって、痺れないやつは詩じゃないというわけでもなく、そのへんはグラデーションで、受け手と書き手の配慮によって、その痺れを求めるか、書き手を受け止めるか(これも"そのひと"として受け止めるか、"作家"として受け止めるか、でグラデーションがある)の側面があるます。
そのへんは空気読んで雰囲気で使い分けていきまっしょい。
そうやってみんな接してるから「こいつ大丈夫か」みたいな文章読んでもまあなんだかんだみんな信号ちゃんと渡れてたりするわけですね。逆にいえば文章の中では弛緩してる、あるいはオートパイロットで生きてるということで。
その生きてる弛緩してる部分も無条件で永遠に抱きしめていたい…というときと、生理的に無理というときと、いやてめー意識して書けやこんにゃろーってときがあり、意識して書けっていうときのトーナメント的な選民思想に対して、それを見上げて「俺にはとても無理だ…」となったあとの人の人生のありかた(ここでは特に文章、ことば)について、どのような手のさしのべかたがあったり、またそれらの交流をうみだすことができるのであろうか。
これは今まさにわたしが直面している問題でもあって、これを解決するためにわたしは残りの人生を捧げたい。と思いながら生きてるときもあるけど、思ってない時もある。

詩-1グランプリ(よみ:しぃーわんぐらんぷり)
50万円か10万円、よくて100万円
選者(審査員):(未定)
予選は8月から
3回戦は配信、準決はGyaoで(ワイルドカードあり)
敗者復活は外
決勝は中
詩みくじあり
プロモあり
優勝しても食えない

注:人が出てきて朗読するグランプリではない。テキストのみ。だから「3回戦の動画」というのはテキストがスクロールするだけの動画である。「動画が見たいのに動画のサムネを背景にしてどっかの記事をスクロール再生するだけの低評価動画」みたいな感じになるだろう。再生回数はたぶんいって8とか3とかだろう。また、審査基準である「とにかくおもしろい漫才」は「とにかくいい詩」になる。
ラストイヤーについて。「結成」と「15年目」と「タイタン所属」とかをどういうふうに詩人でやるか。わたしの場合たぶん14歳ぐらいで自我が芽生えてたので、29歳がラストイヤーで、そこからもう10年以上やってるから。もう詩-1は出れないはずであるから、詩-1は既にsecondである。5歳のまだたっくんとかの時期に詩を誤って書いてしまった場合、そのたっくんのラストイヤーはハタチになる。本当にそれでいいのか?という問題がある。
2歳のひなみちゃんが誤って詩を書いてしまった場合ラストイヤー17歳である。
ほんとにそれでいいんですかー!
むしろそのほうがいい。詩-1なんか寧ろでれんほうがええねん。
逆に75歳の総骨二郎が詩を書き始めてたらラストイヤー90歳である。くじけないでの人とかのラストイヤーは…やめましょうこんな話は!

次に、詩の結成は何を結成してるのか。
詩集発行年を結成にするか。
詩を初めて書いた年齢。
自我が芽生えて初めて詩を書いた年齢。
投稿した年齢。
なんとなく、さっき書いたみたいにたっくんとかひなみちゃん、また総骨二郎の例でわかったように、単純に書き始めた年齢にするとやばい。
欽ちゃんの仮装大賞の悪いところを集めてできたような大会になりそうな雰囲気がぷんぷんする。そこにアオハルみたいな人〜30代ぐらいの芋みたいな男女が集結してあと左翼みたいな人がいっぱい集まってきて手におえなくなって単発で終了するか企画段階の途中か最初でがっつり頓挫するのが目に飛び込んでくる。
おいといて。
じゃあ、自我との結成を結成にするか。
まあ自己申告だし、詩だから、そのへんはラフでいいというかどうでもいい。
会場も誰もこなかったり契約が履行されなかったり事務処理が絶望的にできない感じで開催そのものが危機的状況で開催されると

島田紳助が(M-1を)漫才への恩返しと若手への引導として創設したのを考えると、詩-1も詩への恩返しと引導として機能するべきかもしれない。
将棋の奨励会もそうだが、こと文学においてはラストイヤーがない。
ラストイヤー以降も芸人は漫才をしていき、詩人は詩を書いていく。
芸人は劇場やライブハウス、詩人は…
詩人も一部は劇場やライブハウスやライブ喫茶でなんやかややってるっぽい
しまた詩集も出すし文学リフ魔にも行く(リフ魔ってなんかいいですね、別によくないだろ)まあ大会もあるにはあるが…
ねぇ

まいいや
結成と15年(ラストイヤー)は一旦おいといて、所属をどうするか
人力舎とかタイタンとかマセキ芸能とかケーダッシュ、グレープカンパニー、吉本、松竹…

書肆山田所属、ナナロク社所属、青土社所属、思潮社所属とかになるのだろうか。すると殆どがアマチュアになる。
詩-1は決勝進出者のうち7組がアマチュアとかになりかねん
かねんってなんか懸念してるみたいな言い方したけど別に全然いい
いやいいもくそもそんな大会そもそもないねんから
別ええねんけどな

4分はどうするか
文字数か行数で制限するのだろうか
か、なんかゆっくり的なものを基準にし、それに読ませて4分以内に収まるかどうかとか。
出囃子はどうするか
というか決勝、何が出てくるのか。人?
「勝訴」「不当判決」みたいな、裁判所からダッシュで出てくる人みたいにせりあがりで出てきて詩の紙を掲げて4分ずっと立ってる黒子の人とか?
紙だけが出てくるとかはできるのだろうか
M-1もスタジオとCGを組み合わせてるから、舞台からCGで詩がバーンと出てきてあとは無音でゆっくりスクロールしていくのを客が各自読むだけで4分経ったら終わり。

出囃子かー
わたしの耳で聞くと、出囃子は
ワチャゲェンゲェンゲェンゲェンッッ ウォーウォッウォーゥオt
というふうに聞こえるが
これを詩-1の場合どうするか
詩の出囃子、直感的にはバンプの曲を一部借りてきて
「意味を知るー」とか
浜ちゃんの
「…る人生のォ!」とか
個人的にはショートコントのブリッジみたいなやつ
あとは逆に、水木しげる系というかゲゲゲの鬼太郎の初期の曲を使うとか
ぴたーんぺたーんぺったんこ〜ってなんの曲だったか(ど根性ガエル)
忘れたけど、ああいう曲で出てくるのもありかもしれない

拍手笑いをどうするか
詩の大会も一応前説というかカリブラージュというのがあって
会場をあっためるというか審査の雰囲気を掴むやつがあるけど
今回の詩ぃ1は「読む体(読み上げる主体)」がない。

なので、各位は掲げられた詩の紙のコピーを手元に用意して各自のスピードで読み、各自のポイントで拍手笑いとかミシェルが「おいたんきらい」と言ったとき客席から漏れる「オ〜ゥ…」みたいな声でばらばらに反応して、4分終わると終わった音がして紙が舞台裏を通って司会の今田耕司と上戸彩(詩でその立場に相当するかたがた)の横に立ち、審査員が点数を出し、コメントを何人かにふり、詩の紙が「最悪や!」などと言い、Yahooの検索ワードの時間には真っ白の画面が映ったりする。
上位3組がファイナルでもう一本ネタを披露して上戸さんの詩の人が「ことしも〜」「しぃ〜えむのおぉっぉおぉぉ」「あ〜と〜でぇ〜」というと、詩人は全員リアクションをとらない。
これは絶対にとらない。
詩人は空気が読めないし迎合しないしプライドが高いのでここでずっこけるなんてかっこわるいことはしない。ノリが悪い。カメラさんが舐めるように詩人を撮ってるのに詩人は「すん…」として、ネクタイを直しながら目線だけ偉そうにカメラを見たり、めがねを「すちゃ」ってやったりして、気まずい感じでCM(スポンサーなどいないのでACが永遠に流れるがACも匙を投げスポンサーを降りているのでカラーバーが1分半、砂嵐が7分半流れる)CM明けると審査員がボタンを押していくのだが詩人は段取りが悪いのでボタンとモニターの結線がうまくいっておらず反応しないうえ、口頭でいえばいいのにディレクターが「あとでTwitterで発表する」という判断をして、その場では優勝が決まらずにあやふやなまま番組が終わり、その後慌てて公式Twitterが作られそこで優勝者の淡い著者近影が貼り付けられ28いいねがつく。



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