メモ 10/13

最近は本を読んでない。積読しかしていない。

ゴトウユキコの短編集とかも2冊
(体温のやつと天国のやつ)両方と買ったけど、読めてない。
青鰐的なものも積み上がってる気がするが、
これはバッテンなのかもしれない。
もうなにもわからない。
現代思想9月号が「生活史」って書いてあったから買い、
ポパイも本がどうとかって書いてあったから買った。

なんか、積んでるやつをめくってると、「戦後サークル詩論」というやつの、目次の最後のほうの補遺なところに「人生記録雑誌」の項が設けられていた。
厳密にはサークル詩ではないが、読んでる層がサークル詩と被るということで、短く、まとめられていた。
基本情報は、福間良明さんの本と重複していたが、人生雑誌に掲載されていた「詩」に特化して書かれている箇所は注目した。

ただ、著者の詩に対する考え方が、ちょっと俺(ぽっくん)とは相容れないな、違うなーという感じがして、なんか、曰く、「人生記録雑誌はぬるい詩が多く、人生を厳しく見つめた詩は少ない」みたいな言われ方をされていたような気がして、「いや、そうじゃないだろう」と。

労働運動の縛りがない分、詩風は自由だか(原文ママ)全体的に緊張感の乏しい作品が多い。サークル詩といえども、やはり真摯な体験価値が基盤にないと優れた芸術作品に昇華しない。

p441 『戦後サークル詩論』中村不二夫 土曜美術社出版販売

ご覧のとおり、著者は緊張感界隈(そんな界隈はない)の人である。この手の話は、読む人の人生観というか、辿ってきたあれこれに左右されるから、とやかくは言わないが、いや、やっぱりとやかく言うと、「緊張感の乏しさ」というのは、裏を返せばいったいなんなのか、冗漫さや雑味が生む何某か、それを成功とか失敗とかのたまう界隈、まあ好き嫌いがあっても全然構わないのだが、うっかり削ってしまったら、それっぽさとか、阿りしか残んないというか、個人がそうやって真実とか芸術とかいったものをもとめて彫琢していく過程で彼ら自身の優位性を損ねてしまってるというか、端的に言って罠としか思えない気がして、それやっちゃうと結局、中央の(中央とは何か)最も裾にいないっぽい人のものとか、たくさん読んだ戦略的な人とか、昔っからずっとその畑にいる人とかが作品として残るばかりだろう。
とはいえ、そういうのをとっかかりとして始めなければ始まらないのも事実であって、でもその始まりのそれも、もとはそんなでっかいものではなかったことも最近になってぼんやりとわかってきた。人の思いが注がれ継がれて、淘汰されてきたものなのだ。そして、現に私も、消えていった昔の人に興味がもてないのだ。

とはいえまあみんな、よりそうための知人の詩と、昔や今に残ってきた強靭な詩から感動やら薫陶やらを受けたりしながら、うまく切り替えながら、生きているから、まぁべつにいいのか。
そんな気もする。でも、そんなにうまい詩がたくさんあっていったいどうするのかとも思う。記者会見のマイクの数とか、カメラの数とか、ああいうのにも通じる気がするが、そんなにあっていったいどうなるのか。
写真の作例とか、きれいな詩とか、人生の一部を綺麗に切り取ったり汚く切り取ったりそのまま切り取ったりして(そのままとは何か)、それでいったいどうなるのか。

結局自分はそうじゃない部分、つまりあらかた全部削ってしまったところにしかないんじゃないか(とはいえ、この削った部分を寄せ集めても、これが自分かと問われると厳しい。最終的には自分がどのあたりで手を止めるか、中断するか、でしかない)。

先の引用箇所にあった「真摯な体験価値が基盤にない」ことは、いったいどこから、どのように判明するのか。
人が書いた(提出した)言葉の連なりに何を見、何を求めているのか。
福間良明さんも書かれている通り、人生雑誌には査読があった。紙幅による制限があるから、当然と言えば当然だ。すべてを掲載することはできない。
数万部の読者のうち、誌面掲載を夢見て投書する人の割合が仮に数%だとしても、ある程度選別されなければならない。
いやな言い方をすれば、「真摯な体験価値が基盤にない」という物言いは、読者や投稿者、さらには選者に対しても喧嘩を売っているようなものである。
そもそもの話、真摯な体験価値が基盤にない人なんていない気もする。それを言葉によって描写する段階において、「落とし込めない」とか「まとめあげられない」とか「仕上げられない」といったほうが、いくらか正確な気がする。そして、この著者が「真摯な体験価値が基盤にある」と思っている詩も、ただ単に、詩として落とし込み、まとめあげ、仕上げるのがうまいだけであって、もしかしたら、真摯な体験価値なんか基盤にないかもしれないのである。



書かれたことそのものを、生誕祭みたいに肯定するか、厳しく甘くない「芸術」とか「真実」に寄せるか。
で、寄せて、構成し、彫琢したところで、それが自分や他者にとって、なんになるのか?
そもそも「〜にとって」っていうことを、英語で言うとforとかtoとかそういうものを、詩が必要としているのか? 書いた人が必要としているのか?
献辞がある本は好きだけど、
詩とか本文にまでそういうの(価値とか意味)を求めるか? という話である。もうええやんと思う。なもん自分で見つけなはれやと思う。
それはその本からでもいいし、別の本からでもよいし、自分で書くことによってでもいい。

たいていのことは本人に任せて、みんな好きにすればいいというのがようやっと浸透してきた気がする。これは自分が歳くったせいなのか、世間の空気がそうなのか、もうよくわからない。

ただ誰かが目的をもって何かを仕上げたり、まとめたり、完了させて「次」にいく、ということを、言葉によって行えるのだとしたら、それはたぶんだけど、いいことのような気がするし、自分もできることならそうしたいと思っている。えんえん書いたけど、それだけの話だった。
10/13朝
10/26朝 読み直し、追記


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