メモ ポエム

あさ。起きる気がしなくて布団でYoutube見てたら化学のチャンネルで酒の化学反応の話やってて純米大吟醸とかってなんなのみたいな話で米の削り具合で削るほど雑味がない酒らしいのだが最近は逆にあえて残して米の特徴を出す酒もあるとのこと。
この、現場の大吟醸も結局客側がありがたがる手間暇と味に対する絶対評価から出てくる値段と、客側が本当に好きな「好み」としての味わい、相対評価で出てくる値段、出してくれるお金、出してくれる人の規模(人数)、って合わないよなーってことを考えると、現場に入ってくるお金は減る一方だなと思い、今パッとでてくるのは大間のマグロよりサーモンな人とか、玉露より番茶の人とか、家具組み立てかとか(組み立てじゃない場合、なんか自己ツッコミとして"いつまで生きんねん"みたいな気になる)。どこかでブランドというか手間暇や"よいもの"の価値を目利きできる人がいてその人が価値を決める市場があって、それを正当に評価しかつその対価を支払える人間、となってくると、そりゃもう世の中、お金が入ってこなくなる伝統だらけなんじゃないか。か、ラグジュアリー、ラグジュアル? 贅沢な人をがっつり狙ってくか。
このへん詩とか教養とか他のものにも言えて人の反応としてダイレクトに引き起こされないもの、即時反応できないものや体内に入ってからのものって基本相対評価にならざるをえないのだから、逆に操作できる部分もあって、たぶん言葉の目利きが一番操作できるし政治できるので、最も信用ならない。
もう詩ではそういう人や場は完全に消えた。ハッタリが効きすぎたのが逆に信用なくす要因になったのかもしれない。詩の朗読とかでも内容云々よりもなんか立派そうで滔々と朗々と喋ってるからなんか点数が高ブレするみたいなことはありがち。詩のよしあしのそもそも論もあるし評価するにしても何をどう評価していいかわからないから既存の評価軸とかとりあえずその人の堂々さにベットして(信用して)点を入れるしかない。
だから詩は最もだましやすく御し易い文芸であり、最も早くお金が回らなくなった。それは生産性とかとはまったく関係ないという福祉的あるいは人間の全面的な受容という側面もありつつの、はっきり言って怠惰であり高踏&高尚ぶったりして金をがめるようなところもあったから、その両面の嫌な部分だけがフィーチャーされ、猛プッシュされた結果が「ポエム」という言葉にがっつり注入されたのだろう。これを覆すのは容易ではないのでもう誰も好きにやるしかないというのが個人的な見解です。
詩というものを人だと捉えてみると、人を受け入れすぎたり、また人をばかしすぎたから(つまり八方美人すぎて)誰からも好かれなくなったのが詩という人間である。
また、八方美人だったせいで、「好み」による相対評価のすすみが他の文芸に比べて相当急激に進んだからというのもあるかもしれない。野草のようにそこらからいいものがいっぱい生えてくるのに畑ばっかりじーっと見ててもなんにもならないというのもある。畑にしかならない文芸であればまだ耐えられたかもしれない。そりゃ、わたしは農家じゃないんだから、畑はたまに見に行くぐらいでいい。散歩のときぐらいしかあぜ道を通ることはないし、ガチ都会にはそもそも畑がないし、わたしにしても、その畑の収量もその市場も問題について真剣に考えたり、気を揉んだりする必要はまったくないのだ。

昨日はぼざろの写真の背景がsyrupだというのをTwitterで見かけてなんのことかと思って検索したら2022年にsyrup16gが出したアルバムのジャケット?かなんかの写真の背景とぼざろ一味が歩いてる場所の背景が同じらしい。というか、そういや確かに活動再開したとは聞いてたけど(休止してたっけ、"さくら"のあたりで勝手にそう思ってただけか? 記憶が怪しい)いつのまにかこんなにアルバム出てるなんて…と思って昨日からずっと聞いてる。なんかこういうすっきりした(音の数がなんかすっきりしてる)音楽聴くのなんか久しぶりだなーと思って聞いてる気がする。
昔ギター弾いてたときは"さくら"のCとかAになるとこが好きで(もうコード進行に関する語彙力がなくなっている…)なんかやたらと弾いてた記憶がある。ぼざろを見よう。

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